第29話 疲れる風呂
再び盛り上がってきた泡に満足して手を止めると、ふと両手を眺めた。
小さな指が泡まみれで、にぎにぎすると不思議な感触がする。
「あっ?! 待――ッ」
ぱくりと口へ入れた瞬間、リトが声を上げた。
同時に広がった苦みに、私はべえっと泡を吐きだして渋い顔をする。
それなりに美味しいかもしれないと思っただけに、残念だ。
「あーー、遅かったか。まあいいか、一度やっちまえば分かるだろ」
「りと、苦い」
「そうだろうな……よく
半ば諦めた声音で言いつつ、手のひらを器にして湯を掬い、私の口元を洗った。
手が大きいと、そんなこともできるのか。
だけど腹を壊すなら、先に言ってくれればいいものを。
ただ、そもそも食べるつもりはないから大丈夫、味見をしたかっただけだ。
再び布で泡を作っていたら、溜息をついたリトに取り上げられて、背中を擦られた。
「遊ぶんじゃねえ、体を洗えって言ってんだろ」
「だめ、りゅーがしゅゆ!」
慌てて取り返し、言われた通り指先から耳の後ろまで擦っていく。
顔は目と口を閉じて手で洗うのだそう。それだと、一人で風呂に入った場合はお湯の位置が分からないのでは、と思ったけれど。
「できたか?」
「れきた」
頷くと、リトは私を抱えて思い切り湯をかぶった。
私が洗う間に、リトはとっくに洗い終わっていたらしい。
ざざあ、ざざあ、と派手に湯を浴びて、みるみる泡が肌を滑り落ちていく。
泡は、これで捨ててしまうのか。もったいない。
二人分の泡が、白い川のようになるのを見ていると、リトが大きく動いた。
掴まりどころのない肌につるりと手が滑って慌てたものの、大きな手が問題なく私の体を支えている。
浴槽の縁をまたいで湯船に侵入したリトは、ゆっくりと腰を下ろした。
次いで、持ち上げていた私を足から沈めていく。
「熱くねえな?」
「……!!」
私は、ただ何度も頷いて水中に沈んでいく自分の体を見つめていた。
透明だけど、空気ではない重み。
温かいお湯が、隙間なく私の周囲を埋めていく。
未知の感覚に胸の中がとくとくと早鐘を打ち、下からすぼまっていくような圧迫感に息を吐きだした。
「よし、足は着くな。縁から手ぇ離すな、滑るから」
浴槽の底に足が触れ、リトの手が離れるとやわやわと体が揺れた。
お湯は、ちょうど私の肩あたりまである。
さっそく口をつけると、いきなり体が持ち上げられた。
「飲むなっつうの!! 汚ねえわ!」
なぜ。体はしっかり洗ったのだから、汚いわけはないと思う。
そもそも汚いなら、こうして浸かってはいけないだろうに。
飲んでみたお湯は、水と少しばかり喉越しが違う気がする。ただ、水の方がおいしいと思ったので、もう飲まなくてもいい。
リトは私の手を浴槽の縁に掴まらせ、大きく息を吐いてのけ反った。
「は~~こんな疲れる風呂は初めてだ……」
ぐったりと縁に体を預けるリトは、本当にくたびれている様子だ。
入浴は疲れを癒すそうだから、よく浸かるといいのではないだろうか。
全く疲れていない私は、しっかりと縁に掴まり、お湯の中で足踏みをしてみる。
面白い。
あんなにバランスの難しかった体が、まるで嘘のように簡単に片足で立て、飛び跳ねられる。
動き回ると、私を中心にばしゃばしゃと水が暴れて飛び散った。
両手を叩きつけると、ひときわ派手なしぶきが上がる。そして、さも物体があるかのような感触が手のひらに伝わった。手を着いた時は通り抜けたのに、なぜたたきつけると痛いくらいに抵抗を感じるのか。
知識の中から、流動する動きが手の速度に追いつかないから、という説明を引っ張り出すことに成功したものの、理屈はともかく実際に体験しても納得は難しい。不思議だ。
思い切り振り下ろしたり、ゆっくり振り下ろしたり。
水面を叩く実験を繰り返していると、リトが恨めし気な声をあげた。
「くそ、癒されねえ~。何真剣な顔して遊んでんだよ……」
「ちやう、りゅーはみじゅの抵抗とりゅーろうの関係にちゅいて、こうしゃつしてゆの」
「何言ってるか分かんね~」
大量の水しぶきを浴びながら、リトは悟りを開きそうな顔で目を閉じている。
どうも、この楽しく飛び散る水が好きではないようだ。
仕方なく、最後に思い切り叩きつけてみようと、ぴょんと弾んで両手を叩きつけた。
両手のひらが水面を叩いて突き抜け、足裏が底に触れた、瞬間。
するり、と吸い込まれるように。
足が前に滑って体が水中に滑り込んだ。
見事に潜り込んだ水の世界は、重たくて、ものすごくぼやけて、水で耳が塞がっていた。
咄嗟に呼吸を止めているのは、本能だろうか。
頭の先までお湯に浸かって、ゆらゆら沈む感覚は心地よい気がする。
驚きと衝撃の波の中、見えない視界でぱちり、と瞬いた。
これは、私はどうしたらいいのだろう。
困っているけれど、こんな状況で泣けやしないし、そもそも水中で泣けないだろう。
息を吸い込んでもいいだろうか。
そう考えた瞬間、どわんとくぐもって響いた大きな音。そして、思い切り引っ張り上げられた。
「――っ!!」
リトが目の前で目を見開き、息をのんで私を見つめている。
音が戻ってきて、私から滴る水がばちゃばちゃと音をたてた。
呼吸すら止めたリトに首を傾げ、今しがたの体験を伝えようと口を開く。
「りゅー、お湯の中にいた」
途端にリトは崩れ落ちてしまったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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