第28話 たくさんのお湯

睫毛までしっとりしてくる中、視線を走らせると――

あった! 本当だ、満々と湯を湛えた木製の巨大な箱がある。

ちょうどベッドと同じくらいの大きさだろうか。

せいぜい数人で使う用途のためか、室内は客室程度の広さで、木製の小さな椅子や桶も置いてあった。


思っていたほどもうもうと湯気は上がっていなかったけれど、ああして水面から揺らめいて立ち上るのがそれだろう。

触ってみたい……!

あの、たっぷりとしたお湯に。


「暴れんな、床が滑るんだぞ」


手足をばたつかせる私を叱って、リトは大人しくなったのを確認してから、そうっと下ろしてくれた。


「滑るっつったろうが!」


聞いたけれど。

だけど、滑るんだから仕方ないではないか。

足が床についた途端歩き出そうとして、見事にひっくり返った。

大きな手がしっかりと私の頭と尻を受け止め、思わず詰めていた息を吐いた。


「りと、あいやと」


これは中々、風呂というのは修練のいる場所だ。

リトの腕に掴まり、足裏の感覚を確かめる。なぜ、こんなにぬるついた床にするのだろうか。

これには意味があるのだろうか。


ぬるり、つるりと足を滑らせつつ、リトに掴まったまま湯船の縁までやってきた。

支えにしていた腕を離し、掴まった縁もなんとなくぬめる気がする。もしや、お湯が触れているとこうなるのだろうか。

浴槽は私の腿あたりの高さから、床より下へ潜り込むように少し深くなっている。


すごい。

コップでしか見たことのなかった水が、こんなにある。

いや、見てはいなかったけれど、私が最初にいた場所には川があったはず。そこにはきっともっとたくさんの水があったのだろう。


しんと静かな水面は、傷一つなく平らに透き通っている。

小さな窓からの光が、揺らがない水面に反射して鏡のように周囲が映って見えた。

確かにそこに水があると感じるのに、底の木目まではっきりと見える。

なんとも不思議だ。透明だと思うのに、私の目はちゃんと存在をとらえている。


「まだ入るなよ、風呂の中が粥だらけになるからな」


じいっと水面を見つめて動かなくなった私を置いて、リトは椅子や桶を取りに離れた。

まだ入らないけれど、触るくらいはかまわないだろう。

胸の内から、とっとっと賑やかな音が聞こえる。

私は小さな両手をそうっと滑らかな水面に這わせて――


「ぅおおおいっ?!」


何が起こったのか分からず、私は目をぱちくりさせた。

リトが私を逆さまに持ち上げている。目がしばしばする。


「まだ入るなっつったよな?! 死ぬぞ、馬鹿!」

「りゅー、はいやない。お湯をしゃわようとしたらけ」

「なんで触ろうとして頭から突っ込むんだよ……」


なるほど、今私は水中にいたのか。まるで一瞬で世界が変わったようだった。

ガラス板のようだと思った水面は、まったく抵抗なく突き抜けたのだ。

こんなにたくさんあるのに、ぱちゃぱちゃ揺れるコップの中と変わらないのだな。


視線をやると、今は水面が波立って光が揺らめき、ガラス板のようには見えない。こうなっていれば、撫でられるとは思わないし、もう少し用心したものを。


「気が抜けねえぇ~! お前、俺から離れるんじゃねえぞ」


この部屋に離れるほどの距離はないと思いつつ、ここは素直に頷いておく。

リトは私を抱えたまま、近くに転がっていた椅子と桶を拾って並べ、片方に腰かけた。

そして思い直したように、隣に置いた椅子を自分の前に持ってくる。

もはや、前と言うよりリトの長い足の間。


そこにちょんと座らされ、何をするのだろうと振り返ると、リトが瓶から粉を取り出して私の頭に振りかけた。


「そえ、なに?」

「石けんだな。洗うモノだ」


これが石けんなのか。私の知識にある固形石けんとは違うらしい。


「お湯かけるぞ、目閉じろ」


言われて反射的に目を閉じると、温かい液体が頭の上からとろとろ流れ落ちて顔や背中を伝った。

温かい。これは確かに、心地いい。

そのままわしゃわしゃと、大きな手が私の頭をかき混ぜはじめた。

触ってみると、何やらふかふかとする。


「りと、みえない」

「どうせ自分の頭は見えねえよ、目開けんなよ」


それもそうだ。

納得して大人しくしていると、リトの手はしばらく私の髪を念入りにかき混ぜ、またお湯をかけた。

少々痛かったけれど、わしゃわしゃされるのは気持ちがいい。

2回目にかけられたお湯は大変な勢いで、私の体が前に倒れそうになるほどだ。


「ほらよ、これで体洗え。隅々までしっかりな。指の間とか、耳の後ろとか忘れんなよ」


目を擦っていると、リトは手元で布をすり合わせ、もわもわと白くして私に手渡した。

受け取った布を見様見真似でこすると、わわわ、と白いプチプチが出てくる。

なるほど、これが泡か……見えない気体が、簡単に突き抜ける液体が、こんな姿になる不思議。

これは面白い。


振り返ると、リトは自分で頭を洗っている。

あんなにたくさんある髪だと、さぞかし洗うのは大変だろう。


「りと、めめ開いてゆ」

「お前を見張ってんだよ! 俺を見てねえでちゃんと洗え!」


指摘すると、怒られた。

見張らなくとも、私は体くらい洗えるのだけれど。

向き直って手元の布に視線を落とすと、たくさん作った泡が薄く消えようとしている。

私は再びせっせと布を擦り合わせ始めたのだった。

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