鬼の里(2)

「まあ、清影きよかげ様」

 突然やって来た若鬼に千紫が顔をほころばせ、頭を下げる。深芳みよしも「義兄上あにうえ様、」と千紫に続き頭を下げ、藤花だけがふいっとそっぽを向いた。


 藤花の兄、清影である。

 彼は藤花の兄ではあるが、深芳の実の兄ではない。清影は鬼伯と前妻の子、そして深芳は後妻の連れ子、藤花は鬼伯と後妻の子となり、藤花は兄と姉のどちらともにも半分血がつながっているが、清影と深芳に血のつながりはない。


「私も混ぜてもらおうかな」

 清影はそう言って部屋に入ってくると、千紫の隣に座った。

 長い髪を後ろで無造作に束ね、頭には一本の角。千紫以外は、全員が一つ角の鬼である。


 月夜の里には、一つ角と二つ角の鬼がいる。

 一つ角の鬼を「一つ鬼」、二つ角の鬼のことを「二つ鬼」と呼んでいるのだが、この「一つ」と「二つ」では大きな隔たりがある。


 鬼伯の一族も、まつりごとの中枢を担うのもほとんどが一つ鬼。当然、里では一つ鬼が権勢を誇っている。

 父、影親かげちかが角の数にこだわらない登用を心がけてはいるが、まだまだ両者の溝は深い。


 なので、二つ鬼の千紫がこんな風に奥院に遊びに来るなどということは、本来ならあり得ない。

 それが可能な理由は、千紫の父親が鬼伯の覚えめでたい博学子はくがくしで、特別に殿上てんじょうを許されているからに他ならない。

 また、深芳の亡き父も博学子であり、母親が鬼伯と再婚する前から深芳と千紫は親友だったことも大きい。


「それで、賑やかに何を話していたんだ?」

 言いながら清影は千紫の髪に挿した紫檀したんのかんざしに気がつく。彼が嬉しそうに目を細めた。


「やはり似合うと思ったんだ、そのかんざし」


 途端に千紫が顔を赤らめた。


「あの、これは、いつものかんざしを失くしてしまいましたので……」


 たどたどしく答える様子はいつもの才媛の姿とはほど遠い。

 その様子から、藤花はぴんと来た。


(なるほど、あのかんざしは兄様が贈ったものなのか)


 納得しながら藤花はちらりと横目で深芳を見た。

 深芳はその優美な顔に笑みを保ちながらも、瞳が乱れて揺らいでいる。


 藤花はじっとしていられなくなって、腰を浮かせた。


「では、私はこれで──」

「なんだ、藤花はもう行くのかい? 私が来ると、おまえはいつも逃げるな。なんだか避けられているみたいだ」

「まさか、」


 藤花は笑って否定した。しかし、そのまさか、避けているのである。

 正確に言うと、兄を避けているのではない。千紫と深芳、そして兄の三つ巴の状況を避けているのだ。


 この分かりやすい三角関係に気づいていないのは兄、清影きよかげだけだ。

 藤花が色恋について理解をし始めた時、深芳はすでに清影を好いていた。だから、いついかように姉が兄を好きなったのか藤花は知らない。


 まあ、二人は血がつながっていないのだから別に何の問題もない。

 しかし、事はそう単純ではないことを藤花はすぐに知ることになる。姉の親友、千紫の存在だ。


 千紫を清影に引き合わせたのはおそらく深芳本人だ。

 自分の大切な親友を大切な兄に紹介しただけだったのだろう。しかし、清影は千紫を見初め、千紫も言葉に出しはしないが清影のことを密かに慕っている。


 清影と千紫は話も合う。文化について、歴史について、そしてまつりごとについて、どんな話でも千紫は誰とでも堂々と渡り合える。

 そんな千紫の姿は、月夜の里一と謳われる深芳の美しささえ霞むほどだ。

 深芳の名誉のために言うならば、深芳も決して愚鈍な姫ではない。博学子はくがくしである父から相応の教育を受け、その知識は他家の姫と比べても余りある。

 ただ、千紫が群を抜いて秀逸過ぎるのだ。


 姉の心中を思うと藤花は自分のことのように胸が痛んだ。


「千紫様、また話を聞かせてくだされ」


 藤花はそう笑って立ち上がると、その場にいる三人に軽く会釈をして足早に部屋を出た。

 そして廊下をひたすら進み、誰もいない所まで来て、ようやく大きなため息をつく。それから、今までの逃げるような歩調を緩め、藤花はとぼとぼと廊下を歩いた。


(行き遅れなどと言うのではなかった)


 深芳が行き遅れている理由ははっきりしている。それを分かっていて、さっきは彼女に悪態をついた。藤花はひどく後悔をした。


 誰が悪いわけでもないから始末が悪いし、どうしようも出来ない。

 深芳のことも千紫のことも大好きなだけに、やりきれない思いが心にもやもやと溜まった。


 長い廊下を一人所在なく歩く。庭に植えられた沈丁花の甘い香りに少しだけほっとする。

 さて、これからどうするか。自分の部屋に戻っても暇なだけだし、父親の部屋で何か書物でもあさろうか。


 まとまりなく考えながら執院へと続く渡殿わたどの近くまで来て、藤花はふと足を止めた。

 そこにはちょうど廊下から庭へと通じる階段があるのだが、その階段から少し離れた低木の側に男が片膝をついてじっと控えていた。


(誰じゃ?)


 初めて見る顔である。年の頃は三十ほどに見えるが、実際のところは分からない。

 着古した灰茶の小袖に裾が擦りきれた藍の袴、黒髪をびっちりと結び上げ、あっさりした細面の顔はなんの特徴もない。


 だだ、地面の砂利を見つめる鳶色の瞳は、あっさりした顔立ちとは裏腹に地を穿うがつほどの鋭い眼光を放っていた。

 そして何より、彼の頭には角がなかった。彼は藤花に気づくと、視線を動かすことなく頭だけ軽く下げた。


 何をしているのだろう?


 その微動だにしない様は、声をかけることさえもはばかられ、まるで彫刻か何かのようだ。


「ふふ、」


 藤花の口から笑い声が漏れた。なんと面白い。

 にわかに彼女の好奇心に火が付いた。このまま彼は一寸も動かず、ここに居続けるつもりか。

 藤花は足を庭に放り投げて廊下に座ると、じっと彼を見つめた。


 そうして藤花が彫刻の男を見つめることしばし、ようやくその口が開いた。


「私に何か……?」


 相変わらず視線は動かさない。しかし、明らかに口調は戸惑っている。藤花は嬉しくなって、廊下を降りて裸足で彼の元へ歩み寄ると、彼の目の前にしゃがんだ。


「お主があまりに動かないゆえ、いつ動くかと眺めておった」

「……はあ」


 彼が気の抜けた返事をした。明らかに呆れている。藤花はおかまいなしに彼に尋ねた。


「おまえは誰じゃ? 角がない」

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