4)不義と不義

不義と不義(1)

 落山から戻った千紫を、雪乃がまっ先に出迎えた。


「千紫様、おかえりなさいませ。お体は大丈夫でしょうか」

「すまぬ、心配をかけた。問題ない」


 落ち着いた様子で千紫が答えると、雪乃はほっとした顔をした。そして、すぐに笑みを浮かべた。


「まずはお部屋でお休みください。何か甘いものをお持ちしましょう」

「ありがとう。ちょうど良い、おまえも部屋へ来ておくれ。それと、」

「はい」

「波瑠も呼べ」


 千紫の堅い口調に、何事かを感じ取った雪乃の顔から笑みが消える。彼女はさっと一礼して、足早に奥へと消えた。

 自分の部屋に戻りひと息ついた頃、雪乃が茶菓子を持って現れた。その後ろには波瑠が控えている。


「二人とも入れ」


 千紫に促され、雪乃と波瑠がそろそろと部屋に入った。そして最後に波瑠が静かに障子戸を閉めた。


「千紫様、どうなされました?」


 千紫は小さく頷くと、ゆっくりと口を開いた。


「私は一縷いちるの望みになろうと思う」

「一縷の望み?」


 雪乃と波瑠が同時に眉をひそめた。突然何の話か分からないといった様子だ。千紫は言葉を続けた。


「我が夫旺知あきともは、伯家対し逆心を抱いておる。実際に事を起こしたとあれば、明らかな不義となる。しかし、この非力な身であの男を止めることはできぬ。だからと言って、刺し違えて死を選ぶは無駄死にというもの。それは私の好むところではない。であるなら、私は旺知の隣に立ち続け、できる限りの手をつくし、大切なものを守りたい」


 雪乃と波瑠が今度は顔を見合わせた。そして、二人が同時に千紫に尋ねた。


「落山で何かありましたか?」

「……いろいろとな。まずは波瑠、」

「はい」

「伏見谷について調べたい。できるか?」

「九尾様の谷を──?」

「無理か?」


 千紫が、有無を問うように首を傾げると、波瑠が口に拳を当てて難しい顔をした。 


「何をお知りになりたいのでしょう? あの谷は、全てのあやかしに開けたところ、調べるも何もありません。ですが、本当に知りたいことは、おそらく何も分かりません。こういうことは、時間をかけて忍ばせないと」

「やはりそうか」


 千紫が嘆息する。

 まるで寛容でありながら懐の奥が見えない九尾そのもののような場所かと千紫は思う。だとしても、かの国について、そして谷について知らないことが多すぎる。彼女は気を取り直して波瑠に言った。


「では、今の伏見谷の状況をせめて知りたい。それならば可能であろう?」

「分かりました。私の里中の仲間に頼んでみます。兄のように慕っている者で、信頼できます」

「では、この件については波瑠に一任する」

「はい」


 波瑠は軽く頭を下げると、くるりと身を翻して素早く部屋を出ていった。隣で雪乃がそれを見送り、すぐに千紫に向き直った。


「千紫様、どうされたのです?」

「その前に湯浴みの用意を頼む。体を流したい」


 雪乃の問いには直接答えず、千紫は言った。雪乃が戸惑いながらも、「ええ、そうでしょう」と頷いた。


「よくぞ我慢なされました。すぐにでもお体を流したいかと思い、湯浴みの準備は整えております。しかし、旦那様は昨日あれほどお怒りになっていましたから勝手に入っていいものかどうか──」

「そのことだが、落山で成旺しげあき様に体を綺麗に流してもらった」

「え?」


 雪乃が言葉を飲み込み、驚いた顔で千紫を見た。千紫はさらに戸惑う雪乃をまっすぐ見返した。


「成旺様の匂いを流したい。あの男に知られる訳にはいかぬ」

「……どういう、ことでございますか?」


 にわかに雪乃が険しい顔になる。当然の反応だ。千紫は、小さく笑い返した。


「どうもこうも言った通りじゃ。落山の屋敷で、成旺様と一緒に湯槽ゆぶねに浸かってきた。つまりは、そういうことじゃ」

「何がどうして──」

「私の一方的な恋慕に過ぎぬ」


 千紫が答えた。


成旺しげあき様は、なし者であるがゆえに無い存在となっているが、穏やかで聡明な御方、私の気持ちを受け止めてくれただけのこと。私は、もう自分の気持ちに嘘はつけぬ」


 最後に千紫は、「すまぬ」と雪乃に対して頭を下げた。これは、夫に対する明らかな不義だ。この事実を告白した以上、雪乃も巻き込むことになる。


 雪乃はしばらく戸惑った表情で考え込んでいた。しかし、両手で自分の頬をぱちんと叩き、千紫に対して「心得ました」と大きく頷いてみせた。そして彼女は、素早く立ち上がった。


「では急ぎ、湯浴みをいたしましょう。今日、旦那様は早くなると言っておいででした。もしかしたら、湯浴みの最中にお帰りになるかもしれません」 

「そうか。では、もし湯浴みの最中に帰ってきたならお通ししろ。一緒に入る」

「よろしいので?」

「よい。そこで旺知あきとも様が戯れたいのであれば、お相手する」


 あの男の相手をするのは、それが自分の務めであるからだ。このことで卑屈になってはいけない。千紫は鷹揚おうような笑みを浮かべた。




 雪乃が言っていた通り、旺知は湯浴みの最中に帰ってきた。湯殿の外が何やら騒がしいと思っていたら、旺知が無遠慮に入ってきた。


「おかえりなさいませ」


 湯槽ゆぶねの中、さっと居ずまいを正し千紫は軽く頭を下げる。旺知がにこりともせず、湯槽に浸かり千紫を抱き寄せた。


「体を流していいとは言っておらんぞ」

「……そのまま落山に行けとは言われましたが、帰ってきてから体を流してはならんとはおっしゃいませんでした」

「ふん──」


 鼻を鳴らして旺知が千紫の首筋を甘噛みした。千紫がびくりと体を震わせる。

 大丈夫、機嫌は悪くない。むしろ、いい。

 旺知は気分屋で、怒らせると恐ろしいが、長続きもしない。千紫は瞬時に旺知の機嫌を判断し、必要以上に怯えないよう自分自身に言い聞かせた。


「今日はお早いお帰りで。こんなに早いのは珍しいのではありませんか」

「鬼伯の機嫌を伺ってきたのだ」


 旺知が面倒臭そうに答える。そして小馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべた。


「最近、再び悪童わんらが山に集まりだして、山の管理はどうなっているのかと問いただされてな。どこから聞きつけてきたのか蟲使いを探せと言い出し、犬のように吠え立ててわずらわしいことだ」

「……蟲使いのことはどうお答えされたのです?」


 探すも何も、旺知の手足となって動いているではないか。心の中でそう思いながら問い返すと、旺知がにやりと笑った。


「ああ、“探します”と答えておいた。丁度、同席した五洞ごとうが儂を擁護してくれたおかげで、鬼伯の言葉も最後は尻すぼみよ」


 いつもより多弁な旺知の様子から、鬼伯影親かげちかの追及から上手く逃げおおせたことがうかがえた。


「鬼伯のくだらん追及はそうだとして、」


 ふと思い出したように彼は呟いた。


「あのが、面白いことを言っていたな」

「面白いこと?」


 素知らぬ顔で千紫は首を傾げた。

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