不義と不義(2)
「なしにお会いになられたので?」
何も知らないといった顔で千紫は尋ねた。なしとは
大妖狐九尾が
これが成旺の予測である。にわかに信じがたいが、彼の口調からはそれなりの確信があるように感じられた。そして、このことを旺知にも雑談まかせに話したとも。
旺知の野心を
確かに、そんなことを聞いた旺知の行動は想像がつきやすいが、そもそも行動されては困る。成旺の言葉の真意を千紫はまだ理解しきれていなかった。
「おまえならどうするか? 千紫」
旺知が遊びついでといった様子で千紫に尋ねてきた。
「何かことを始めるならば、始めようと思った時か、それとも始めるに
「……私であれば、」
千紫は考え込む。「ことを始める」とは、伯家に対して反旗を
まさに今、この時が勝負である。千紫は旺知に答えた。
「
「それが嵐の日であったらどうする?」
「嵐であれば、なお好機。誰もそのような時に動くとは思いません」
「ふむ」
旺知が満足げな顔で頷く。
間違いない。この男は九尾の死とともに必ず動く。例えそれが嵐の日であろうとも。
「旦那様、一つご進言させていただいてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
夫に異を唱えてはならない。しかしこの日、千紫は「進言」という形で初めて彼に意見を試みた。
奥院の深芳に会う許しはもう出ないだろう。そして、この男も止められない。ならば、成旺の言うとおり自我を通せる道を作らねばならない。
千紫は旺知に対し、にこりと笑った。
湯浴みを終え、二人は場所を寝間に移した。湯殿でいいだけ肌を触れ合わせたこともあり、旺知も寝間着のまま布団にごろんと寝そべるだけだ。
途中、雪乃が
成旺とのことを聞いた雪乃には、
千紫は旺知にぴたりと体を添わせ、その厚い胸板に顔を乗せると、穏やかな声で彼に言った。
「誰がどのように蟲使いのことを聞きつけ、鬼伯の耳に入れたのかは不明ですが、しばらくの間、蟲使いを静かにさせるが良いと存じます」
「あやつには、やってもらっていることがある。何も知らずに口出しするか」
旺知の声が少し不機嫌になる。千紫は「まさか」と言い返した。
「旦那様がわざわざ召し抱えになったのですから、必要があってのことは重々承知しております。以前も蟲使いで
千紫は一呼吸置いてから、旺知に告げた。
「蟲使いは、むしろ
「……」
旺知は答えない。しかし、その無言の反応で十分だった。彼女はさらに言葉を続けた。
「妙な疑いの目が向いてしまっては、なお動きづらくなりましょう。今は静かに奥院の動向を探る時期かと存じます。奥院はかつての威光もなく、
「……儂は誰かのお守りをするつもりはない」
旺知がふんっと鼻を鳴らして吐き捨てる。その言い様に、彼が臣下の身に甘んじるつもりがないことが改めて分かる。
旺知が「そもそも、」と付け加えた。
「
「それは、困りました」
千紫は苦笑した。まるで子供の喧嘩だ。
「六洞家は
旺知がうるさそうにそっぽを向いた。これ以上は話を聞いてくれそうにない。しかし、これだけ話せただけでも上々である。
今日は特に旺知の機嫌がいい。まるで昨日のことが嘘のようだが、思えば似たようなことは今までにも何回もあった。
今にしてみれば、これが旺知の手なのだ。
激しい怒りの後、嘘のように穏やかになる──。これを繰り返されるうちに、旺知の機嫌と顔色ばかりを窺い、この男の前では千紫は自分の考えを持たないようになっていた。
しかし、どんなに気をつけていても結局また怒りを買う。そして、さらに考えることを放棄していく。まさに
その呪いを成旺が洗い流してくれた。彼と出会わなければ、自分はこの男に一生怯え続けていたに違いない。
「どうした?」
「……いいえ、何も」
千紫はさらりと笑い返した。
ふと、旺知の手が腰に回る。うだうだと戯れ合っている間に、どうやらその気になったらしい。やれやれと、彼女は内心ため息をついた。
しかし、旺知の要求に対して「否」はない。
(なら、いっそ──)
成旺に抱かれたつもりで抱かれてみようか。千紫は、静かに目を閉じた。
冬が来た。
今日も千紫は、雪深い山道を隠れ屋敷に向かって歩いていた。きっちり十日、旺知の妻として成旺の世話をするため訪れる。ただ、今では彼と愛し合う時間がそこに増えた。
屋敷に着いて、千紫は持ってきた野菜を土間に置くと、まっすぐに成旺のいる書院へと向かう。そして、相も変わらず本を読みふけっている成旺に声をかける。
「成旺様、」
「ああ、来たのか」
彼が気だるげに顔を上げ、その瞳をなごませた。
彼の傍らには暖を取るために火鉢が置かれてある。今日はあそこで野菜を焼こうと思いながら、千紫は嬉しそうに成旺の隣に座ると、彼の手から本を奪い取り、ぱたりと閉じた。
「千、まだ読んでいる最中だ」
「私が帰ってからでも読めるでしょう?」
千紫は本を傍らに置いて、成旺に抱きついた。成旺が苦笑しながらも千紫を受け止める。
「先日貸した本はどうした?」
「とても面白うございました。ただ、気になる部分があって──」
「ふむ。どこの部分だ?」
言って成旺は千紫の首筋に唇を添わせた。千紫は甘く息づきながら、「巻末です」と答える。成旺の唇がゆっくり胸元へと落ちていき、次の瞬間、帯がするりと緩んだ。
「では、何がどう気になったのか聞かせてもらおうかな」
二人はじゃれ合いながら、そのまま倒れ込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます