秘め事(8)

 次の日、芋や野菜を入れた包みを持って、千紫は落山の山道を一人力なく歩いていた。髪は結わずに後ろで一つに結んだまま、目の回りは赤く腫れていた。


 昨夜、旺知あきともに一晩中いたぶられ続けた。泣いて許しを乞うても許してもらえず、幾度となく体の中に押し入られた。淫らな痕をそこかしこに付けられ、解放されたのは朝方、湯浴みをすることも許されず、千紫はそのまま落山に行くよう命じられた。


 落山の屋敷に行っていないことで責められたのは理解できた。しかし、湯浴みも許されず、いたぶられた体をさらして来いというのは理解できなかった。


 食事も喉を通らず、見かねた雪乃が膳を下げに来た時に、こっそり濡らした手拭いを持ってきてくれた。彼女自身も昨夜旺知に蹴られて怪我をしていた。千紫は申し訳なく思いながら、ひとまずそれで全身を拭い、それから身支度を整えて九洞邸を出た。


 しかし、体中に染みついた旺知の匂いは、そう簡単に取れてはくれず、その匂いに千紫は吐きそうになる。道すがら、このままどこかで死んでしまおうかと考えた。このような汚れきった体で成旺しげあきに会いたくはなかった。


 しばらく歩いて、道が二股に分かれた所まで来る。この細い脇道の先に落山の屋敷がある。千紫の足が自然と止まった。足を動かそうとしても足が前に出ない。


 会いになど行けない。今の自分はあまりに惨めだ。


 やはり、このままどこかで死んでしまおう。

 そう思い、千紫が踵を返した時、脇道の向こうから穏やかな声がした。


「今日も来てはくれぬのか?」


 恋い焦がれたその声に千紫はゆっくり振り返った。そこに、成旺が立っていた。


成旺しげあき様……」


 いつものように小袖を着流した家着に胴服を羽織り、彼は優しい目を千紫に向けていた。千紫の目から大粒の涙が自然とこぼれ落ちた。成旺が千紫に向かって手を差し伸べる。


「おいで。旺知にひどい仕打ちを受けたのであろう?」


 千紫は涙で濡れる顔をそむけて俯いた。「おいで」と言われても素直に彼の元へ歩み寄ることはできなかった。すると、成旺の方から歩み寄ってきた。


 成旺が千紫をぎゅっと抱き締める。そして耳元で優しく囁いた。


「さあ、行こう。そうだな、今日は屋敷で一緒に湯浴みでもすればいい」

「……え?」


 予想もしていなかった誘いの言葉に、思わず涙が引っ込んだ。戸惑いがちに顔を上げ、成旺を見ると、彼は千紫に向かって笑顔を返した。


「私が全て綺麗に流してやる。何もかも」

「……」

「どうだ、悪い誘いではないと思うがな?」


 茶化した風に成旺が首を傾げる。千紫は、持っていた荷物を落とし、すがるように彼に抱きついた。


「成旺様──!」

「言っただろう。おまえは何も悪くないと」

「お会いしたくて、でも自制がきかなくなると思うと怖くて──。どうすればいいかも分からず、ただ……お慕いする気持ちが積もるばかりで……!」

「ああ、私もだ」


 成旺が何度も千紫の頭を優しく撫でる。それだけで千紫は心が洗われ、溶けてしまいそうになる。こちらを見つめるその瞳は、旺知に似て非なるもの。二人は見つめあったまま、深く唇を重ね合わせた。




 それから千紫は、成旺しげあきに手を引かれ落山の屋敷に連れてこられた。彼の大きな手がなんとも言えず温かい。


 湯殿には掃除で何度も入ったことがあり、見るだけで言うなら初めてではなかった。大きな木の幹をくり貫いた湯槽ゆぶねには、山の温泉から引いているというお湯が竹樋たけどいから絶え間なく注ぎ、この屋敷でもっとも贅沢な場所だと千紫は思っていた。


 成旺に衣服を脱がされ、そのまま彼に抱きかかえられる形で湯槽ゆぶねに浸かる。二人が入ったことで、湯槽ゆぶねからお湯が大量に流れ出た。成旺が労るように彼女の腕を優しく撫でた。


「ひどいな。これではあざだ」


 彼の手の動きに合わせて湯がちゃぷんと波立つ。そしてその手が、腕から腰、そして足へと静かに滑り下りていく。


 千紫は成旺しげあきに身を任せながら甘く息づいた。密着した腰に彼の熱く逞しいものを感じる。思わず顔を見上げれば、そのまま唇を奪われ、頭の芯が痺れるような感覚に陥った。


 脱衣場で衣服を脱がされる時、「今日は何もしない」と成旺しげあきは言っていたが、自分が保ちそうにない。


 もっと彼を感じたい。


 千紫は、くるりと体の向きを変えて成旺に向かい合うと、手も足も唇も、すべてを彼に絡ませた。お湯が行儀悪く音を立ててばしゃりと跳ねる。そんな千紫を受け止めながら、成旺が苦笑した。


「行儀の悪い子だ。本当にこのまま食べてしまいたくなるな」

「では、食べてくださいませ」


 しかし成旺は、諭すような眼差しを千紫に返した。


「千、今日は休んだ方がいい。おまえが思っている以上に、おまえの体と心は傷ついている。これが初めてではないのであろう?」


 千紫は遠慮がちに小さくこくりと頷いた。相手があの旺知とはいえ、奴隷のような扱いを日常的に受けていた事実を認めることは辛かった。


 成旺が彼女の頬に指を滑らせ、申し訳なさそうに眉根を寄せた。


「昨日、おまえが来ていないと旺知あきともに話したのは私の失態だった。すまぬ」

「……あの男がここに来たので? なんのために?」


 千紫は驚いて聞き返した。旺知が落山を訪れることなどないと思っていたからだ。成旺しげあきが軽く肩をすくめた。


「さあて、何をしに来たのやら……」


 言って彼は穏やかに笑って話をはぐらかした。その含みのある表情に、複雑で不思議な二人の関係を千紫は実感する。同時に、昨夜の怒りが自分ではなく成旺に向いていたことを知り、なんと歪んだ怒りかと理不尽に思いつつも、ようやくすとんと府に落ちた。


「そう言えば、旺知の前で私のことをと呼んでいるそうだな」


 ふと思い出したように成旺が言う。千紫は思わず身をすくめた。


「申し訳ございません。あの男の前で成旺様を良く言うのは──」

「ああ、良い判断だ」


 千紫の言い訳を遮って、成旺が冷静な口調で評した。そして彼は思案顔で言葉を続けた。


「落山には今まで通り、きっちり十日に一度来るといい」

「きっちり、十日に一度ですか?」

「そうだ。短ければ何かあるのかと勘ぐられるだろうし、長ければ手を抜いていると怒りを買う。妻の務めとして来るだけなのだから、縮めることも伸ばすこともなく、きっちり十日だ」

「……もう帰りたくありません」


 千紫は成旺しげあきの胸に頬を押しつけた。ぽつりと本音が口からこぼれる。成旺が苦笑した。


「帰らないと。千は旺知あきともの妻なのだから」

「……」


 例えば、このまま二人、どこかに逃げることができればと思う。しかし、逃げるあてなどどこにもなく、夢のような話だとすぐに現実に引き戻される。


「千、よく聞きなさい」


 成旺が両腕を持って千紫の体を起こす。「千」と愛称で呼ばれることが、嬉しくこそばゆい。千紫は瞳を瞬かせ、成旺をじっと見つめ返した。


「今後、月夜の里は大きく動く。伯家にかつての力はなく、人の国の動きも早い。もはや、この流れは誰にも止められぬ。そしてきっと、その渦中に旺知がいる」

「しかし、奥院には私の大切な者たちがいます」

「なればこそ、おまえは弟と対峙せねばならん」


 成旺が千紫に言い聞かせる。


「大局の主導権を全て奪われるな。ほんの一筋でも、自我を通せる道を作れ。旺知と対等になるのではない。あやつに側に置いておきたいと思える存在となればいい。それがいずれ、おまえの強みになり、あやつの弱みになる。そのための知識がおまえにはある」


 初めて見る成旺しげあきの冷徹な顔。千紫はごくりと息を飲む。この世間から忘れ去られたような山奥の屋敷で、なし者の鬼は何を考え思い描いているのか。


「……私を導いてくださいますか?」

「もちろん」


 千紫が問えば、成旺は教え子を愛しむような顔で頷いた。

 どちらからともなく唇を重ね合わせる。やはり「」なんて、我慢できそうにない。大きく波打つ湯槽ゆぶねの中、千紫が成旺の体に足を絡ませれば、成旺は苦笑しながら彼女の腰を掻き寄せた。

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