秘め事(7)

 兄成旺しげあきは、こちらに気づきもしない。いや、興味がないので無視していると言った方が正しい。


 旺知あきともは、包みを廊下に向かって放り投げた。どすんという乱暴な音がして、ようやく成旺が顔を上げた。


「おまえか、旺知。……この包みは?」

「儂の下がりだ」


 にこりともせず旺知は答えた。今では、兄が自分のお下がりを着ている。衣服に限らず、彼の身の回りの物は、基本的に九洞邸でのお下がり品だ。新品の物など、兄に供するつもりは旺知には毛頭なかった。


「いつも悪いな。こんな上等な物ばかり」

「ふん……」


 旺知は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。さしてありがたがっていないことは見て分かる。すると、成旺が「そうだ」と思い出したように声を上げた。


「鬼伯と伏見谷の九尾が盟約を交わされたとか。なんでも、奥院の末姫を二代目九尾にとつがせるという──」

「それがどうした?」

「どうもしないが、伏見谷が何やら騒がしいと思うてな。知っているか? 谷深くの泉に龍神を招いたそうだぞ」

「知っている。先日、清影が地守つちのかみに『龍神が守る川で取れる水のたまり石』の話を内密にしたそうだ。なんでも、九尾に協力させるとか」


 旺知は苦々しい口調で答えた。しかし、問いを投げつけた当の本人はもう聞いていない。成旺しげあきは、思案顔であごに手を当てた。


「あの谷は東西南北に、本家、分家、やしろ、龍神と力の要を置いている。これの意味するところは……」


 ぶつぶつと独りち、面白そうに目を細める。そして彼は、最後に呟いた。


「結界だな。それもかなりの大がかりな」

「……九尾が守る谷に、なぜそのような大がかりな結界がいる?」

「さあて。人の国の事情をもう少し調べねばならん。それに、問題はそこではない」


 そのもったいぶった物言いに旺知は苛々した。兄を睨みつけ、唸るような声で問いただした。


「何をどこまで知っている?」

「ただの噂だ」


 含みのある目を旺知に返し、成旺は口の端を笑いで歪めた。


「私の見立てが正しければ、近々、九尾は身罷みまかる。そうなると……力の均衡が崩れるな。伯家は九尾を後ろ盾になんとか面目を保とうとしているが、それもどうなるか」

「九尾が身罷みまかるだと? 先日も本人はぴんぴんしておった。そんな馬鹿なこと──」

「だから、ただの噂だと言っただろう? れ言だ」


 核心をはぐらかしながらも淡々と話す兄の口調に、これがただのれ言ではないことを知る。


 時折、この兄を心底恐ろしいと思う。何も欲せず、傍観者を決めつけ、そのくせこちらの心の隙につけ込んでくる。自分が程度の低い家元連中をたらし込むのとは訳が違う。


 成旺のれ言は、常に核心を突いており、そして、聞く者を惑わす力がある。


「何を企んでおる?」

「別に何も。それより──」


 成旺は立ち上がって廊下まで出てくると、無造作に投げ入れられた包みを拾い上げた。


「千紫は元気か?」

「……元気だが、それがどうした?」

「ああ、もう一月ひとつきはこちらに来ていないのでな。いつもきっちり十日に来ていたのに。元気ならいい」


 旺知はぴくりと片眉を上げた。「自分の妻もろくにぎょせていないのか」と言われたような気がした。珍しく成旺しげあきが誰かに興味を持っているのも気になった。旺知が知る成旺は、実の弟にさえ興味を示さない男だ。


 旺知は悔し紛れに「一月ひとつきぐらいで文句を言うな」と言い返した。


の面倒を見てやっているのだ。あの女も、ここに来るのが嫌なんだろう。おまえのことをと呼び、さげすんでおった」

「……、か。なるほど」


 成旺しげあきが軽く笑って受け流す。その心得た様子がまた気に障る。旺知あきともは、皮肉げな笑みを兄に投げつけた。


「なんだ、気に入っていたのか? だが残念だな、あれはなど相手にしておらぬし、何より儂のものだ。綺麗なすまし顔も、寝間では儂の言いなりよ」


 すると成旺が、含みのある笑みを漏らした。


「相変わらずだな。だが、問題はそこではない」


 穏やかでいて、心を見透かすような目。そして、もったいぶった謎かけのような言葉。

 旺知は顔を引きつらせた。今や九洞家当主となった自分が、どうしてこんな世を捨てた鬼に対して、見下された気分にならないといけないのか。彼は忌々しげに目をそらし、くるりと踵を返した。


「役に立たないらしく、そこで芋でも食っていろ」


 そう言い捨て、旺知は振り返ることなく去っていった。




 千紫は、九洞邸の自室で一人ため息をついていた。あの日以来、落山の屋敷に行っていない。


 最近、旺知あきともは忙しいのか、夜が遅い。加えて、どこかに女が出来たのか、甘い匂いを付けて帰って来ることもあった。こちらの部屋に訪れることも減って、千紫は少しだけほっとしていた。


 ふと、成旺しげあきに口づけられた手の甲を見る。傷はすっかり治ったが、あの時の感触はまだ残ったままだ。次行けば、もっと求めてしまうであろう自分が容易に想像できた。彼のことを思い出す度に胸が高鳴る。


 ── おまえは何も悪くない。可愛い女だ ──


 闇の淵でもがく自分を救い上げてくれたような、そして、素のままの自分を見つけ出してくれたような、そんな気持ちになった。


 この状況になって、これが恋であると千紫ははっきりと自覚していた。よりによって夫の兄を好きになるなど狂っているとしか思えない。それでも、一度自覚した気持ちは冷めようもなく、会いたいという思いが募っていく。

 その募る思いがそら恐ろしく、なんとなく行きそびれ、はや一月ひとつきが過ぎた。千紫は、もう何度目になるか分からないため息をついた。


 その時、廊下で雪乃の声が響いた。


「お待ちくださいませ。千紫様はご気分が優れず、お休みなっておいでです。どうか、ご容赦いただきとうございます」

「侍女の身で、この儂を足止めするか」


 怒気をはらんだ旺知の声が聞こえる。


 いけない──! 千紫は慌てて立ち上がると部屋から飛び出した。見ると、こちらに続く廊下の先で雪乃が旺知を止めているところだった。


 千紫は二人の元へ駆け寄った。


 雪乃をかばうように二人の間に割って入り、そのまま両手をついて頭を下げる。


「おかえりなさいませ。何事でございましょうか?」


 落ち着いた口調で問えば、旺知が探るような目を返した。


「妻を抱きに来て何か不都合があるのか?」

「まさか」


 千紫は、雪乃を睨んだ。


「なにゆえ旦那様をお止めする。下がれ」


 下手に庇い立てすると、さらなる怒りを買う。雪乃には悪いが千紫は彼女を注意した。

 雪乃は一瞬顔を強ばらせたが、すぐに事情を飲み込んでくれたらしく、さっと頭を床に擦り付けた。


「廊下は寒うございます。部屋へ──」


 立ち上がって踵を返し、旺知を案内する。こんな気持ちのまま旺知に抱かれるのかと思うと、情けなさと悲しさで涙が出そうになった。


 すると刹那、背後で旺知の冷たい声が響いた。


「落山の屋敷に行っていないそうだな」


 思わず足が止まり、千紫は振り返った。旺知の怒りを帯びた目とかち合った。


「儂のめいないがしろにするつもりか」

「そ、そんなつもりは──」


 息が、止まりそうになった。全身から冷や汗が吹き出てくる。旺知は、兄のことにさして興味がなく、このことで咎めたてられるとは思っていなかった。


 青ざめる千紫の前で、旺知は怒りに顔を歪めた。


「では、どういうつもりだ? 今日儂は、妻の一人も御すことができないのかと馬鹿にされたぞ」

「申し訳ございませぬ!」


 千紫はその場にひれ伏した。


 いったい誰が馬鹿にしたのか、まったく訳が分からない。しかし、今はそんなことはどうでも良かった。とにもかくにも彼の怒りを鎮めねばならない。


「お許しくださいませ。ここ数日、気分が優れず──」

「まだ言うか」


 旺知が千紫の角を掴み、頭ごと彼女を引っ張り上げる。


「さあ、来い。自分がどういう立場であるか、今夜一晩、その体に教えてやる」

「や──っ」


 刹那、


「旦那様、おやめくださいませ!!」


 雪乃が駆け寄り旺知にしがみつく。しかし、旺知は彼女を振り払い容赦なく蹴り飛ばした。雪乃が短い叫び声をともに吹っ飛んでいき、数間先の庭木へ激突して庭にぼとりと落下した。


「雪乃!」

「女主人が主人なら、侍女も侍女だ。千紫、侍女の無礼も含めて、おまえに払ってもらおうか」


 旺知がにやりと笑った。そして千紫は、そのまま寝間へと引きずられた。

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