秘め事(7)
兄
「おまえか、旺知。……この包みは?」
「儂の下がりだ」
にこりともせず旺知は答えた。今では、兄が自分のお下がりを着ている。衣服に限らず、彼の身の回りの物は、基本的に九洞邸でのお下がり品だ。新品の物など、兄に供するつもりは旺知には毛頭なかった。
「いつも悪いな。こんな上等な物ばかり」
「ふん……」
旺知は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。さしてありがたがっていないことは見て分かる。すると、成旺が「そうだ」と思い出したように声を上げた。
「鬼伯と伏見谷の九尾が盟約を交わされたとか。なんでも、奥院の末姫を二代目九尾に
「それがどうした?」
「どうもしないが、伏見谷が何やら騒がしいと思うてな。知っているか? 谷深くの泉に龍神を招いたそうだぞ」
「知っている。先日、清影が
旺知は苦々しい口調で答えた。しかし、問いを投げつけた当の本人はもう聞いていない。
「あの谷は東西南北に、本家、分家、
ぶつぶつと独り
「結界だな。それもかなりの大がかりな」
「……九尾が守る谷に、なぜそのような大がかりな結界がいる?」
「さあて。人の国の事情をもう少し調べねばならん。それに、問題はそこではない」
そのもったいぶった物言いに旺知は苛々した。兄を睨みつけ、唸るような声で問いただした。
「何をどこまで知っている?」
「ただの噂だ」
含みのある目を旺知に返し、成旺は口の端を笑いで歪めた。
「私の見立てが正しければ、近々、九尾は
「九尾が
「だから、ただの噂だと言っただろう?
核心をはぐらかしながらも淡々と話す兄の口調に、これがただの
時折、この兄を心底恐ろしいと思う。何も欲せず、傍観者を決めつけ、そのくせこちらの心の隙につけ込んでくる。自分が程度の低い家元連中をたらし込むのとは訳が違う。
成旺の
「何を企んでおる?」
「別に何も。それより──」
成旺は立ち上がって廊下まで出てくると、無造作に投げ入れられた包みを拾い上げた。
「千紫は元気か?」
「……元気だが、それがどうした?」
「ああ、もう
旺知はぴくりと片眉を上げた。「自分の妻もろくに
旺知は悔し紛れに「
「なしの面倒を見てやっているのだ。あの女も、ここに来るのが嫌なんだろう。おまえのことをなしと呼び、
「……なし、か。なるほど」
「なんだ、気に入っていたのか? だが残念だな、あれはなしなど相手にしておらぬし、何より儂のものだ。綺麗なすまし顔も、寝間では儂の言いなりよ」
すると成旺が、含みのある笑みを漏らした。
「相変わらずだな。だが、問題はそこではない」
穏やかでいて、心を見透かすような目。そして、もったいぶった謎かけのような言葉。
旺知は顔を引きつらせた。今や九洞家当主となった自分が、どうしてこんな世を捨てた鬼に対して、見下された気分にならないといけないのか。彼は忌々しげに目をそらし、くるりと踵を返した。
「役に立たないなしはなしらしく、そこで芋でも食っていろ」
そう言い捨て、旺知は振り返ることなく去っていった。
千紫は、九洞邸の自室で一人ため息をついていた。あの日以来、落山の屋敷に行っていない。
最近、
ふと、
── おまえは何も悪くない。可愛い女だ ──
闇の淵でもがく自分を救い上げてくれたような、そして、素のままの自分を見つけ出してくれたような、そんな気持ちになった。
この状況になって、これが恋であると千紫ははっきりと自覚していた。よりによって夫の兄を好きになるなど狂っているとしか思えない。それでも、一度自覚した気持ちは冷めようもなく、会いたいという思いが募っていく。
その募る思いがそら恐ろしく、なんとなく行きそびれ、はや
その時、廊下で雪乃の声が響いた。
「お待ちくださいませ。千紫様はご気分が優れず、お休みなっておいでです。どうか、ご容赦いただきとうございます」
「侍女の身で、この儂を足止めするか」
怒気をはらんだ旺知の声が聞こえる。
いけない──! 千紫は慌てて立ち上がると部屋から飛び出した。見ると、こちらに続く廊下の先で雪乃が旺知を止めているところだった。
千紫は二人の元へ駆け寄った。
雪乃をかばうように二人の間に割って入り、そのまま両手をついて頭を下げる。
「おかえりなさいませ。何事でございましょうか?」
落ち着いた口調で問えば、旺知が探るような目を返した。
「妻を抱きに来て何か不都合があるのか?」
「まさか」
千紫は、雪乃を睨んだ。
「なにゆえ旦那様をお止めする。下がれ」
下手に庇い立てすると、さらなる怒りを買う。雪乃には悪いが千紫は彼女を注意した。
雪乃は一瞬顔を強ばらせたが、すぐに事情を飲み込んでくれたらしく、さっと頭を床に擦り付けた。
「廊下は寒うございます。部屋へ──」
立ち上がって踵を返し、旺知を案内する。こんな気持ちのまま旺知に抱かれるのかと思うと、情けなさと悲しさで涙が出そうになった。
すると刹那、背後で旺知の冷たい声が響いた。
「落山の屋敷に行っていないそうだな」
思わず足が止まり、千紫は振り返った。旺知の怒りを帯びた目とかち合った。
「儂の
「そ、そんなつもりは──」
息が、止まりそうになった。全身から冷や汗が吹き出てくる。旺知は、兄のことにさして興味がなく、このことで咎めたてられるとは思っていなかった。
青ざめる千紫の前で、旺知は怒りに顔を歪めた。
「では、どういうつもりだ? 今日儂は、妻の一人も御すことができないのかと馬鹿にされたぞ」
「申し訳ございませぬ!」
千紫はその場にひれ伏した。
いったい誰が馬鹿にしたのか、まったく訳が分からない。しかし、今はそんなことはどうでも良かった。とにもかくにも彼の怒りを鎮めねばならない。
「お許しくださいませ。ここ数日、気分が優れず──」
「まだ言うか」
旺知が千紫の角を掴み、頭ごと彼女を引っ張り上げる。
「さあ、来い。自分がどういう立場であるか、今夜一晩、その体に教えてやる」
「や──っ」
刹那、
「旦那様、おやめくださいませ!!」
雪乃が駆け寄り旺知にしがみつく。しかし、旺知は彼女を振り払い容赦なく蹴り飛ばした。雪乃が短い叫び声をともに吹っ飛んでいき、数間先の庭木へ激突して庭にぼとりと落下した。
「雪乃!」
「女主人が主人なら、侍女も侍女だ。千紫、侍女の無礼も含めて、おまえに払ってもらおうか」
旺知がにやりと笑った。そして千紫は、そのまま寝間へと引きずられた。
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