秘め事(6)

 それから彼女は、もやもやとした気持ちのまま食事の準備をした。今日は、里芋と銀杏ぎんなん、蓮根につくねだ。

 串刺し以外に何か食べないだろうかと試したが、結局これが一番いいらしい。千紫は、出来上がった食材に串をぶすぶすと刺すと、塩をざっとかけて皿に無造作に盛った。


「串にございます」

「ん」


 むすっとした顔で書院に持って行くと、成旺しげあきはいつもの通り本を読みふけっている。千紫は彼の傍らに皿をたんっと置いた。成旺が里芋の串を掴んで、ひょいと口に入れる。次の瞬間、彼は目を白黒させた。


「これは──。今日はえらく塩くどい」


 千紫は、眉根を寄せて「言いがかりを」とばかりに彼を見返した。


「いつもと同じように作っております」

「……これで?」


 食べかけの里芋を成旺が「食ってみろ」と言わんばかりに突き返す。千紫は、それを受けとると、おずおずと口の中に入れた。刹那、痺れるほどの塩味が舌を刺した。思わず千紫は顔を真っ赤にして袖口で口元を覆った。


 すると、成旺がくくっと吹き出した。


「どうだ、塩くどいだろう?」

「つ、作り直して来ます」

「よい。以後、気を付けよ。それよりも、」

「?」

「この濃い味は、酒が飲みたくなる。少し早いが、酒を一杯もらおうか」

「はいっ」


 千紫は慌てて立ち上がると、大急ぎで酒を準備しに行った。


 酒の入った銚子とぐい呑みを持って上がると、待ちかねたように成旺しげあきが手招きした。千紫は彼の傍らに座り、銚子からぐい呑みに酒を注いだ。


「申し訳ありませんでした」

「……怒りながら作っていたのか?」


 恐縮する千紫を横目に、ぐい呑みを傾けながら諌め口調で成旺が言った。千紫がしゅんとさらに小さくなる。そんな彼女の顔を成旺が覗き込んだ。


「今日はどうした?」

「どうもしませぬ」

「いつも楽しそうではないか。今日は帰ってくるなり仏頂面だ」

「そんな、別にいつも楽しそうにしているつもりは……」


 ない、と言いかけて、否定しきれずに彼女は口ごもった。

 落山に隠された閑静な屋敷は、九洞くど邸での騒々しい日々をほんの一時でも忘れさせてくれた。家事を一通り終えれば、成旺の傍らで本を読む。分からないところは彼に教えを乞い、思うところあれば意見を交わす。楽しくない訳がない。


 ただ今日は、成旺が持って帰ってきた甘い香りにむしゃくしゃしたのだ。


 何も言い返さず、千紫はむすっと黙り込んだ。成旺が苦笑した。


「子供のようにねる横顔もなかなかに可愛いな」

「え?」

「弟にはもったいない」

「……」


 千紫は目をぎこちなくさ迷わせ俯いた。どう反応していいか分からなかったからだ。今ここで、まさか「可愛い」などと言われるとは思ってもいなかった。


 いやそもそも、「聡明だ」とか「美しい」などと言われたことはあったが、「可愛い」と言われたのは初めてだ。


 彼女の胸がとくとくと波打ち出す。

 しかし、その鼓動も成旺の次の言葉でぴたりと止まった。


旺知あきともとはどうだ? 毎夜のように愛されているのだろう?」

「そんなこと──」


 ない、と再び言いかけて、しかし、またもや否定しきれず押し黙る。

 成旺に対して身綺麗だと言えない自分に悔しさが込み上げた。


「どうした? あやつは可愛がってはくれぬのか?」

「なぜ──」


 震える声を絞り出し、千紫は成旺を睨んだ。


「そのようなことをお聞きになられるのです? 私は宵臥よいぶしとして九洞くど旺知あきともの床に上がり、否応もなく妻となりました。夜のお務めは、それが私の仕事だからにございます」


 何を口走っている、彼には関係のないことではないか。そう頭で思いながらも、込み上げてくる感情を押さえられず、千紫はさらに言葉を続けた。


「意に反して体を差し出すは苦痛でしかなく、しかし、あの男に抱かれながら悦びに身をよじる体はあまりに醜悪で、もはや我が身とは思えない──」

「千、」

「私は──、醜く汚い女にございます。誰からも愛されてなどおりませぬ」


 刹那、手の甲に鋭い痛みが走った。


いたっ!」


 思わず手を引っ込めると、手の甲から一筋の血が流れていた。一瞬、何が起こったのか分からない千紫だったが、すぐに成旺が空いた串で自分の手を刺したのだということを理解した。


「どうだ、突かれると痛いだろう? 自分の意思に関係なく」


 成旺の問いかけの意味が分からず、千紫は手の甲を押さえながらこくりと頷いた。成旺が深紫の目を和ませた。


「串で突かれ痛いと感じるのも、熱湯に触れ熱いと感じるのも、そして、男に触れられ感じるのも同じこと。それはそなたの体が醜悪だからではなく、生きている者の体が全てそうなっているからだ」

「……」

「男の指でなぞられ感じるのは、決しておまえが醜く汚いからではない」


 言って成旺が、傷ついた千紫の手を取り、その傷口の血を吸った。


「千、そなたは何も悪くない。可愛い女だ」


 手の甲に成旺の柔らかい唇を感じる。体の奥がずくりと熱く疼いた。

 この方に触れられたら、私の体はどう感じるのか。

 にわかに内から沸き上がる感情に、千紫は激しく動揺した。


「も、もう帰らねばなりませぬっ」


 彼女は慌てて成旺から離れ、立ち上がる。そして彼女は、小さく頭を下げると、逃げるように書院から走り去った。




◇ ◇ ◇

 北の領の冬は長い。色鮮やかな木々の葉が落ち、冷たい北風が月夜の里に冬の訪れを告げる。


 落山に雪が舞い始めたある日、旺知あきともは寂れた山道を供も連れずに歩いていた。手には、そこそこ大きな風呂敷包み。もう着なくなった衣服がまとめてある。


 ずっと長い間、兄のお下がりしか着たことがなく、子どもの頃には、この衣服がどこから来るのか分からなかった。自分に兄がいると知らされたのは、それなりに大きくなってからだ。同時に、頻繁に出かける母親の行き先がどこであるかも彼は理解した。


 母親は兄を溺愛していた。なし者の兄をどこかへ捨てろという周囲の進言を拒否して、落山の奥に屋敷を建てさせてまでかくまった。信用できる年老いた乳母を置き、自身は頻繁に隠れ屋敷に通った。十分な衣服を与え、書物を与えた。まるで、母親にとっての息子は彼一人であるかのように。


 父親は、母親の行動に最初は反対だったらしい。当然である。しかし、隠れ屋敷へ通い続ける母親を見て、そのうち父親までも兄を気にかけるようになっていた。「なし」は伝染うつらないと思い始めたことも大きいだろう。身内しかいない場では、いつでも話題が「兄」で、最後は「成旺しげあきに角があれば」となった。


 角があっても自分はいらない存在。旺知には、そう言われているようにしか聞こえなかった。


 母親が死ぬと、今度は父親が母親に代わり彼の世話をしに行くようになった。どんなに衰えようと、十日に一度は彼の様子を見に出かけていく。もう立派な成人で、放っておいても死にはしないだろうに。そして、そんな父親も先般亡くなった。結局、両親は角のある弟を褒めることはなかった。


 あの二人が死んだのだからそのまま放っておけば良かったのだと、旺知あきともは思う。しかし、二人を夢中にさせた兄とはどのような鬼か気になった。父親が死んですぐに落山にあるという屋敷を探しあて、旺知は初めて成旺しげあきに会いに行った。


 閑静な屋敷で書物を読みふける角のない鬼は、どこにでもいる普通の男にしか見えなかった。それが、兄成旺しげあきの第一印象だった。


 落山の隠れ屋敷に着くと、旺知は玄関ではなく、いつもの通り庭へと回り書院へ向かった。書院では小袖を着流したままの家着姿の男が、相も変わらず書物を読みふけっていた。

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