秘め事(5)

 九洞邸では、千紫がきっちり十日に一度、落山の屋敷に通うようになっていた。


 きっちりなのは、成旺しげあきに会いに行く日を千紫が指折り数えて待っているからだ。今や、落山の屋敷通いは、彼女にとって唯一の楽しみとなっていた。


 旺知あきともは、兄のことにほぼ興味がないように見えたが、ある日、思い出したように様子を尋ねられた。千紫は、自身の心の内を気取られないよう無表情のまま、成旺しげあきをあえて「」と呼んで旺知に近況を伝えた。


 一方で、千紫は例の蟲使いのことも少しだけ聞くことができた。


 旺知に「蟲使いに庭で声をかけられ不快だった」と訴えたのだ。すると、自分の部下だから我慢しろと返された。そこから、今度は蟲使い自身のことをさりげなく聞き出した。話題がすでに蟲使いのことになっていたので、いきなり問いただすより旺知の口も緩くなっていた。


 どこで知り合ったかは分からなかったが、蟲使いは常日頃から北の領の山を動き回っているらしかった。悪童わんらたちの動向にも詳しく、山の見回りを頼んでいるといった話を「悪童わんら探索の命」とあわせて旺知から聞かされた。


 山の見回りを頼んでいる──それは嘘だな、と千紫は直感的に感じた。


 ここ最近、川が濁り、土の穢れがひどくなっていると噂で聞いた。その事で地守つちのかみが頭を悩ませているとも。


 川が濁るのは、山がすさんでいるからである。元を絶たなければ、どれだけ手を尽くそうと意味がない。

 山の治安は、山守やまのかみの仕事だが、旺知が精力的に山に入り原因を探しているようには見えなかった。


 そこを蟲使いに頼んでいると言われれば、それまでだが、九尾の弟子百日紅さるすべり兵衛が悪童わんらに襲われたことや、蠱毒の矢にやられたことが気になった。蟲使いが悪童わんらを手なずけ、山で好き放題やっていると考えた方がよほど府に落ちる。


 そもそも、この男には野心があるだけで、鬼伯のために職務を果たすなどという気はさらさらない。


「力のある者が上に立つのが当たり前。なぜ、あのような輩が伯家なのだ」


 寝間で吐き捨てた旺知の言葉だ。さすがに頷くことは出来ず、かと言って否定は許されない。千紫は、「上に立たつと何かと面倒では」と笑って誤魔化した。


 折しも、旺知の周囲は目に見えてざわつき始めている。黙ってここまま放置するのは、とても危険に感じた。しかし、諌め事を言えば、単に怒りを買うだけである。妻は「異を唱えてはならない」のである。


 できるのは「おねだり」だけだ。ある夜、千紫は旺知に「深芳を九洞邸に招きたい」とおねだりした。この状況を深芳に伝えたいと考えたからだ。


 こんな時に式神などを使えれば便利なのに、と千紫は思った。しかし、術で式神などを使役する鬼は実は少ない。結界術にしても式術にしても人の国で編み出された人の技で、あやかしはそれを真似ているだけである。日頃から気をる鍛練をしている者などわずかしかおらず、こうした術を使えるのは一部の者だけだ。


 波瑠を遣いにやるには奥院は不自然な場所すぎ、また、六洞りくどう家をはじめとした武官が院の警護を昼夜しており、それなりの手練れでないと忍び込むのも難しい。


 となると、あとは直接本人に会うしかない。


「奥院の姫を招くことは、九洞家の権勢を広く知らしめることにもなりましょう。秋の御前会でも、私のためにわざわざ南庭に下りてきたぐらいです。おそらく遊びに来てくれると思います」


 千紫は、このおねだりは通ると思っていた。権勢を自慢するのは、旺知の好むところであるし、何より深芳を見る旺知のほうけた顔を覚えていたからだ。おねだりをする際、床の上でもいつもよりもした。千紫にとっては、隷属関係を否応なしに認めさせられる屈辱的な行為だ。


 しかし、そんな彼女の奉仕も虚しく、返事は「考えておく」と保留された。

 洞家の妻となった今、以前より深芳と会いやすくなったはずなのに、彼女と会うために旺知の許可が必要となった。入間いりのまで待たされ続けた以前の方がよほどましだったと今さらながらに千紫は思った。


 そんな思うがままに進まない状況ではあったが、ある日、波瑠が深芳の話を千紫に持ってきた。


 ちょうど、雪乃を呼び寄せる許しを得たこともあり、波瑠には以前と同じく小間使いのような仕事をさせ、自由に動いてもらっていた。

 当初、彼女を侍女に育てようとしていた千紫にとっては予定外のこととなる。しかしこれは、波瑠からの提案でもあった。


「侍女として召し抱えていただけるのはありがたいですが、何かと窮屈で身動きが取りづらくなります。私はこのまま下女として千紫様のお側にいる方が気が楽です。何より、そちらの方がお役に立てると思います」


 彼女は、例の「噂の溜まり場」で、いろいろな話を仕入れてくる。そして、それらの噂の真偽を確かめるため、九洞くど邸を訪れる客人の話を盗み聞く。侍女の前では口をつぐむ事も、波瑠の前だと下女とあなどって、はばかりなく話す者もいた。


「これは、飲み場で執院に上がっているという吏鬼りき(執院に勤める鬼)が酔って話していたことですが……」


 そう前置きして波瑠が千紫に報告する。


地守つちのかみとの話し合いに深芳姫が同席され、月詞つきことを歌い渋る鬼伯に代わり、代案を出したとか。吏鬼りき相手に堂々と渡り合い、ゆくゆくは奥の方様かと、執院ではもっぱらの噂だそうです」

「そうか、」


 この窮状に深芳が動いたかと千紫は思った。

 もともと愚鈍な姫ではない。伯子を補佐し、吏鬼りき相手に渡り合える実力は十分ある。前に出ることを良しとせず、後ろに控えていただけに過ぎない。


 千紫は、清影の隣で佇む深芳の姿を想像し、嬉しくなった。同時に、なんの障害もないと思える二人の関係を、今の自分の状況と比べて少しばかり妬ましく感じた。ただ、そんな妬ましさも、成旺のことを考えると不思議と和らぐ。


 明日は落山へ行く日である。まだ前日であるというのに、すでに千紫の心は弾んでいた。




 冬の冷たい風が吹き始めた次の日、千紫はいつもの通り落山の屋敷を訪れた。しかし、珍しく成旺しげあきは出かけて留守だった。


 里中へは書物を探したり欲しいものを求めたり、よく出かけるとは聞いていた。成旺の顔を一番に見ることができず少しがっかりしたものの、千紫はさして気にしなかった。いないのなら待てばいいだけの話だ。


 そして、いつもの通り家事をこなしていると、夕暮れ時に成旺が戻ってきた。


「ああ千紫、来ていたのか」

「おかえりなさまいませ」


 喜び勇んで玄関口で成旺を出迎える。成旺の穏やかな笑顔に心がほっと暖かくなる。

 しかし、彼から荷物を受け取った時、甘い香りが漂った。よく女が身に付ける匂い粉の香りだ。


(……え?)


 彼女の胸がちりっと焼けた。千紫はとっさに成旺に声をかけた。


「あの、どちらまで?」

「里中へ。何か面白いものがないかと思ってな」


 さりげなく尋ねれば、そのまま笑顔で返された。

 面白いものを探しに行って、どこぞの安い女でもつまんできたのか。千紫の心に疑念が湧き、なぜだかむかむかと腹が立った。


「面白いものはございましたでしょうか?」

「ん? ああ、」


 成旺しげあきが曖昧に、それでいて面倒臭そうに返事をした。自分の身の回りのことは、もともとあまり話さない。そんな成旺の態度がいよいよ千紫を苛々させた。


 千紫はさらに追及しようとしたが、そんな彼女の気配を察したのか、彼はさっさと家の奥へと消えてしまった。


「あ──」


 発しようとした問いかけが行き場を失い、千紫の口の中でもごもごととどまった。思わず千紫はぷうっと頬を膨らませる。なんとも言えないもやもやが心の中に渦巻いた。

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