西の隠れ屋敷(3)

 大広間から二人で抜け出し、奥院へ続く渡殿わたどの辺りまで来てから、誰もいないことを確認すると、ようやく深芳が口を開いた。


「あの男は、あのまま千紫を父上様と兄上様へ自分の妻として披露するつもりだったのか?」


 その口調は明らかに怒っていた。それで初めて、深芳がわざと連れ出してくれたのだと千紫は理解した。


「深芳、すまぬ」

「千紫が謝ることではない」


 そして彼女は、自分の部屋へ千紫を案内すると、障子戸をぴしゃりと閉めた。


「心配しておった。無体なことをされてはおらぬか?」


 向かい合う形で千紫を座らせ、深芳は心配げに彼女に詰め寄った。


「聞けば、祝いの宴で宵臥よいぶしとして上がってから、そのまま九洞くど家に留め置きとなっているそうな」


 千紫は苦笑する。


「旺知は、私を妻にと言うておる」

「祝言もせずに、このようになし崩しの形で何が妻じゃ」

「婚姻など、人の国ほど決まった形があるわけではないではないか」

「私はあの男の誠意の話をしておる」


 深芳が吐き捨てた。確かに、彼女の言い分はもっともで、言い返す言葉もない。

 千紫は曖昧に笑い返し、そして今度は深芳に尋ね返した。


「おまえこそ、歌競いで歌うのではなかったのかえ?」


 今日の歌競いが、清影の御相手おあいて探しであることは誰もが知るところである。そして義妹である深芳も歌を披露すると噂されており、当然ながら本命は深芳だと誰もが思っていた。他の姫は、あわよくば側妻そばめとして目に止まれば、ぐらいなものである。


 深芳が自嘲的な笑みをこぼす。


「……私は月詞つきことを歌えぬ。歌えたところで、私はじゃ」

「血は繋がっておらぬ」

「おまえまで父上様と同じことを?」


 深芳がむすっとしながらそっぽを向く。そんな飾らない素の表情は、千紫や藤花など限られた者にしか見せない。それから彼女は、窺うような目を千紫に向けた。


「兄上様が……そなたのことを聞いて、それはお怒りになって」

「そうか」

「今からでも遅くはない。御手付きなど、よくある話じゃ」


 深芳が口ごもりながらぼそりと呟く。

 あやかしは、藤花のような奥院の姫や洞家の姫など身分ある子女を除いて、そこまで純潔にこだわりはない。変化を嫌う気質から一途な恋も多いが、一般的に婚姻という制度があいまいなせいだ。


 深芳が、つと膝を詰め、千紫の手を握る。


「兄上様もそのようなことは気になさらぬ。父上様は──、私がなんとかする」


 深芳がまっすぐ見つめながら頷く。その怒りをにじませた彼女の目を見て、(ああ、知ってしまったのか)と千紫は申し訳なく思った。


「実の娘でもないおまえが、なんとかするなど──。口は控えねば、おまえの立場が悪くなる」

「でも……」

「さりとて、すでに私は旺知のものじゃ。毎夜のごとく抱かれておる」


 彼女の手をさりげなく解きながら、千紫は事も無げに答えた。深芳はなおも何かを言い募ろうとし、それを口に出すことができず、悔しそうに唇を噛んだ。


「……愛されて、おるのか?」

「さあ? 気に入られてはおるようだがの」


 笑い混じりに答えると、深芳がますます悔しそうな顔をした。


 これは話題を変えないと、一晩でも続きそうだ。彼女の心配はもっともだが、ここで自分の悩みをさらけ出して、さらに心配させる訳にはいかない。千紫は、大げさに「そう言えば、」と声を上げた。


「藤花とは話ができなんだ。遠目に姿を見ただけだが、いつの間にか大人びて綺麗な娘になった」

「まだまだ子供じゃ。しかし、私をかばって父上様にも物を言うようになった」


 深芳が目を細めて嬉しそうに笑った。千紫が茶化しぎみに言った。


「好いた男ができたのかもしれぬの?」


 すると深芳は、「好いた男?」と途端に目を吊り上げた。


「どこのどいつぞ?」

、じゃ」

「悪い冗談を──!」


 深芳は妹の藤花に対しては厳しい。生粋の奥院の姫である妹の母親代わりとなっている重圧からだろう。


 あまりに本気で怒りだす深芳の姿がおかしくて、千紫は思わず吹き出した。それで深芳も、なんともばつの悪い顔をして、最後は千紫と一緒に笑いだした。二人で声を上げて笑うのは、本当に久しぶりだ。


 次の日、藤花が本当にどこの誰とも分からない相手と一夜を過ごし大騒ぎになるとは、この時の二人は想像もしていなかった。




 いろいろあった御前会も終わり、それを境に千紫は正式に旺知あきともの妻となった。と言っても、特別な祝言があったわけではない。公の場で、旺知が千紫をと紹介し、そしてそのように扱うようになったというだけである。


 旺知あきともは派手な振るまいが好きな男で、宴席をしばしば開いていた。洞家や家元などさまざまな鬼が出入りする中、千紫は妻として振るまうよう命じられた。


 慣れない宴席は気疲れが多く、その後に旺知の夜の相手もしなくてはならない。少しでも疲れた素振りを見せると、途端に機嫌が悪くなる。

 千紫は、どんなに疲れていても笑って彼を受け入ねばならず、またそうしないといけない自分にほとほと嫌気が差していた。


 心と体が解離していくのが分かる。嫌だと思う心を置いてきぼりにして、旺知に抱かれて悦ぶ体は、もはや自分の体ではない気がした。


 一方で、旺知都の婚姻は彼女にまつりごとという新しい場をもたらした。

 阿の国は、人の国に比べて政治の組織が未熟である。

 そんなことをしなくても個々で生きていけるからではあるが、人の暮らしを真似る者は多い。大なり小なりそこになんらかの利点を感じている証拠だ。

 しかし、それが何かを理論的に考えている者はあまりいない。模倣することで何か利するものがあると思っているのだ。


 そうではないだろう、と千紫は思う。今まで読んだ人の国や阿の国の歴史書と照らし合わせみる。単なる模倣で終わらせないために、あれこれ考察することは、今の千紫にとって数少ない楽しみの一つだ。


 また、鬼たちの関係も少なからず見えてきた。今まで点でしかなかった者たちが、線で繋がり勢力となっていく。この力と思惑、利権の駆け引きは、見ていて呆れるほどであったが、興味深くもあった。そして、その中心に旺知あきともがいる。


 目に見えて力を持ち始めている旺知あきともに、千紫は何とも言えない危うさを感じた。


 ある夜、いつもの寝間の行為の最中に、また旺知あきともが千紫に申し付けた。この男は、どうにも女をいたぶりながら命を下すのが好きらしい。


「西の落山おちやま九洞くどの私邸がある。明日、そこへ行ってこい」

「……私邸、ですか?」


 吐息混じりに彼の言葉を繰り返せば、旺知は千紫の体に唇を沿わせながら「そうだ」と答えた。


「細かいことはハルに聞け。行けば分かる」


 この男の命令に「否」とは言えない。まるで今の自分の体のようだと思いながら、彼女はその命令にあえぎ声で答えた。

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