西の隠れ屋敷(4)
次の日、千紫は
「波瑠」という名は、ただの「ハル」でしかなかった彼女に千紫が新たに与えた名だ。彼女は千紫の身の回りの世話を全般に請け負うようになっていた。
落山には、てっきり車で向かうのだと思っていたら、
髪も下ろした方がいいかと波瑠に尋ねたら、彼女は「
「少し前、人の国で
言って波瑠は、結い上げた前髪にちょこんと簪を一つ挿した。
「どうですか?」
鏡に千紫を映して見せて、その出来映えを聞いてくる。自然と千紫の顔から笑みがこぼれた。
「これは良い。人の国のことを知っているのかえ?」
「はい。里中の仲間と
「なんと。しかし、里中の筋は封鎖されておるし、山の筋は危険だと聞く」
「そうですね。でも、使うのは山の筋です。そこだと行き交いが自由ですから。それにここだけの話、伏見谷の九尾様がお通りなる筋は安全です。あの御方は安全な筋を作ってくれる上に、通行料などいっさい取らず、何も難しいことを言いません。東の山の
千紫は、はきはきと答える波瑠に感心する。洞家などが
こういった者たちをもっと活用できないものか。それこそ、角の数に関係なく。
千紫は、そう思わずにはいられなかった。
日がすっかり昇りきった頃に準備が整い、二人は出発した。
里を出て山に入ると、山は秋も深まり鮮やかに色づき始めていた。先を歩く波瑠について行きながら、ふと深芳と藤花のことを思い出す。
あの時、藤花に相手を教えてはもらえなかったが、ただの遊びではないことは彼女の様子から分かった。きっと恋をしたのだろう。そう思うと、果たしてこれは彼女の望んだ縁であったかと、千紫は胸が痛んだ。
二人は落山へ続く寂れた山道をしばらく進む。波瑠は芋を入れた風呂敷包みを背中に担いでいた。そこから小さな脇道に
「千紫様、あれにございます」
「……誰か住んでおるのか?」
千紫は波瑠に尋ねた。
「はい。
「兄?」
千紫は思わず聞き返した。そんな話を聞いたことがなかったからだ。千紫の両親も、旺知は一人息子だと言っていたように思う。
「さあ、入りましょう」
にわかに驚く千紫を波瑠が促す。彼女は、こくりと頷いて門をくぐった。
「波瑠が参りました」
門をくぐり、裏の勝手口に回ると、波瑠が大声で言った。そして、返事を待たず、ずかずかと入っていく。
戸惑う千紫に対し、波瑠は笑いながら「大丈夫です。いつものことです」と千紫も中へ入るよう促した。
波瑠の後に千紫が続く。質素な佇まい屋敷の中は、外見と同様にこざっぱりとしたものだった。波瑠は立ち止まることなく、歩きながら話し始めた。
「あっちには湯殿があります。山から温泉を引いてきて、いつでも湯に浸かることができます。山の屋敷ならではの贅沢ですよ」
「あ、ああ。そうか、」
「そしてこっちは、書庫みたいな部屋です。もともと客間だったらしいのですが、そもそも誰も来ないので──」
波瑠があちこちを指差しながら、我が家のように案内をする。そして、いくつか部屋を通り抜け、庭に面した大きな書院まで来ると、波瑠は立ち止まり再び大声を出した。
「
千紫は彼女の背中越しに、部屋の中を窺う。あちらこちらに散乱する書物がまず目に飛び込んできた。何やらいろいろ書き記した紙も放り投げられている。そして、部屋の中央、
「やあ、ハル。来たのか」
憂いを帯びた顔に柔らかな笑みを浮かべるその顔は、
(なし者……)
思わず千紫は、その穏和な表情と角のない頭をまじまじと見つめた。しかしすぐに、はっと我に返って、慌てて頭を下げた。
なし者の頭を凝視するのは、無知の極みと自分自身が思っていたことだ。突然のこととはいえ、自身の礼の欠いた振る舞いを千紫は恥じた。
「ふむ。これは面白い」
「私を見て、恐縮した者は初めてだ。そなた、なしについて、どう考えておる?」
「どう、とは?」
突然の質問を投げかけられ、その真意が分からず千紫が聞き返す。成旺は含みのある目を彼女に返した。
「そなたは、なし者について何やら見解を持っているようなので聞いたまで」
「……なしを見くびり忌み嫌うは、無知の極みと思うております。思いがけなかったとはいえ、頭をまじまじと見るなど、失礼極まりました」
千紫は素直に心の内を述べた。すると、
「無知の極みか。そう考える理由は?」
「なしは
成旺が片手を上げて千紫を止めた。
「松庵録を読んだか」
「ええ、はい」
「続松庵録は?」
「そちらも大変興味深い文献にございました」
彼が口の端に満足げな笑みを浮かべた。
「そなたは誰だ? 名は?」
「
見かねた波瑠が二人の間に割って入った。
「先程、私が申しましたでしょう。
「おお、旺知の」
「あいつが妻を
「……千紫と申します」
あらためて千紫が名乗ると、成旺は「良い名だ」と笑った。
「『
「はい」
「父君は、よほどそなたのことが可愛かったに違いない」
言って
彼女は、動揺する心の内を知られないよう慌てて目をそらした。
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