西の隠れ屋敷(4)

 次の日、千紫は波瑠はるに連れられて落山おちやまのふもとにあるという私邸へ向かった。

 「波瑠」という名は、ただの「ハル」でしかなかった彼女に千紫が新たに与えた名だ。彼女は千紫の身の回りの世話を全般に請け負うようになっていた。


 落山には、てっきり車で向かうのだと思っていたら、徒歩かちでだった。当然、衣服も軽装である。

 髪も下ろした方がいいかと波瑠に尋ねたら、彼女は「かんざしを挿していた方が千紫様らしい」と言って、前髪だけを簡単に結い上げ、後ろ髪を輪に束ねて結んでくれた。


「少し前、人の国で流行はやった髪型です。で、千紫様はここにかんざしを挿すとお似合いです」


 言って波瑠は、結い上げた前髪にちょこんと簪を一つ挿した。


「どうですか?」


 鏡に千紫を映して見せて、その出来映えを聞いてくる。自然と千紫の顔から笑みがこぼれた。


「これは良い。人の国のことを知っているのかえ?」

「はい。里中の仲間と御化筋おばけすじを通って何度か行ったことがあります」

「なんと。しかし、里中の筋は封鎖されておるし、山の筋は危険だと聞く」

「そうですね。でも、使うのは山の筋です。そこだと行き交いが自由ですから。それにここだけの話、伏見谷の九尾様がお通りなる筋は安全です。あの御方は安全な筋を作ってくれる上に、通行料などいっさい取らず、何も難しいことを言いません。東の山の御化筋おばけすじも、元は九尾様の作った筋です。もう古くなって捨てられておりますが、里から一番近いし、まだ十分に使えます。確かに、獣も通る山の御化筋は多少危険が伴いますが、慣れれば問題ありません」


 千紫は、はきはきと答える波瑠に感心する。洞家などが下賎げせんさげすむこの者たちは、自分たちの知らないことをいっぱい知っている。


 こういった者たちをもっと活用できないものか。それこそ、角の数に関係なく。


 千紫は、そう思わずにはいられなかった。


 日がすっかり昇りきった頃に準備が整い、二人は出発した。

 里を出て山に入ると、山は秋も深まり鮮やかに色づき始めていた。先を歩く波瑠について行きながら、ふと深芳と藤花のことを思い出す。


 御座所おわすところでは、伏見谷と藤花の縁談がまとまり、ちょっとした話題になっていた。彼女が、どこの誰とも分からない相手と一夜を過ごしてからまだ一月ひとつきほどしか経っていない。あの後、好色の姫だの、淫らに遊んでいるだのと、ひどい噂が流れていた。


 あの時、藤花に相手を教えてはもらえなかったが、ただの遊びではないことは彼女の様子から分かった。きっと恋をしたのだろう。そう思うと、果たしてこれは彼女の望んだ縁であったかと、千紫は胸が痛んだ。


 二人は落山へ続く寂れた山道をしばらく進む。波瑠は芋を入れた風呂敷包みを背中に担いでいた。そこから小さな脇道にれて更に進むと、森に囲まれた屋敷が見えてきた。


「千紫様、あれにございます」

「……誰か住んでおるのか?」


 千紫は波瑠に尋ねた。九洞くど邸では何も教えてもらえず、まるで目隠しをされたままここに連れて来られたようなものだった。


「はい。旺知あきとも様の兄、成旺しげあき様が住んでいらっしゃいます」

「兄?」


 千紫は思わず聞き返した。そんな話を聞いたことがなかったからだ。千紫の両親も、旺知は一人息子だと言っていたように思う。


「さあ、入りましょう」


 にわかに驚く千紫を波瑠が促す。彼女は、こくりと頷いて門をくぐった。


「波瑠が参りました」


 門をくぐり、裏の勝手口に回ると、波瑠が大声で言った。そして、返事を待たず、ずかずかと入っていく。


 戸惑う千紫に対し、波瑠は笑いながら「大丈夫です。いつものことです」と千紫も中へ入るよう促した。


 波瑠の後に千紫が続く。質素な佇まい屋敷の中は、外見と同様にこざっぱりとしたものだった。波瑠は立ち止まることなく、歩きながら話し始めた。


「あっちには湯殿があります。山から温泉を引いてきて、いつでも湯に浸かることができます。山の屋敷ならではの贅沢ですよ」

「あ、ああ。そうか、」

「そしてこっちは、書庫みたいな部屋です。もともと客間だったらしいのですが、そもそも誰も来ないので──」


 波瑠があちこちを指差しながら、我が家のように案内をする。そして、いくつか部屋を通り抜け、庭に面した大きな書院まで来ると、波瑠は立ち止まり再び大声を出した。


成旺しげあき様、波瑠です。今日は、旺知様の奥方様を連れて参りました」


 千紫は彼女の背中越しに、部屋の中を窺う。あちらこちらに散乱する書物がまず目に飛び込んできた。何やらいろいろ書き記した紙も放り投げられている。そして、部屋の中央、脇息きょうそくにもたれ掛かり、書物を読みふけっている男がけだるそうに顔を上げた。


「やあ、ハル。来たのか」


 憂いを帯びた顔に柔らかな笑みを浮かべるその顔は、旺知あきともをもっと穏和にしたものだった。長い髪を無造作に束ね、小袖を着流した家着のままで袴も履いていない。さらに驚いたことに、彼の頭には角がなかった。


(なし者……)


 思わず千紫は、その穏和な表情と角のない頭をまじまじと見つめた。しかしすぐに、はっと我に返って、慌てて頭を下げた。


 なし者の頭を凝視するのは、と自分自身が思っていたことだ。突然のこととはいえ、自身の礼の欠いた振る舞いを千紫は恥じた。


「ふむ。これは面白い」


 成旺しげあきが興味深そうに千紫に目を向けた。


「私を見て、恐縮した者は初めてだ。そなた、について、どう考えておる?」

「どう、とは?」


 突然の質問を投げかけられ、その真意が分からず千紫が聞き返す。成旺は含みのある目を彼女に返した。


「そなたは、なし者について何やら見解を持っているようなので聞いたまで」

「……を見くびり忌み嫌うは、無知の極みと思うております。思いがけなかったとはいえ、頭をまじまじと見るなど、失礼極まりました」


 千紫は素直に心の内を述べた。すると、成旺しげあきが「なるほど、ますます面白い」と笑った。


「無知の極みか。そう考える理由は?」

「なしは感染うつるものではございませぬ。それは、かつて松庵なる者が、なし者とその縁者について生い立ち、環境、家族などを事細かに聞いて回り、そこから得た膨大な情報のもと証明しております。また、松庵が書いた『松庵録』には──」


 成旺が片手を上げて千紫を止めた。


「松庵録を読んだか」

「ええ、はい」

「続松庵録は?」

「そちらも大変興味深い文献にございました」


 彼が口の端に満足げな笑みを浮かべた。


「そなたは誰だ? 名は?」

成旺しげあき様っ、失礼ですよ!」


 見かねた波瑠が二人の間に割って入った。


「先程、私が申しましたでしょう。旺知あきとも様の奥方様にございます」

「おお、旺知の」


 成旺しげあきが目を丸くして驚いた表情を見せた。


「あいつが妻をめとるとは、どういう風の吹きまわしか。そうか、それで名は?」

「……千紫と申します」


 あらためて千紫が名乗ると、成旺は「良い名だ」と笑った。


「『千紫万紅せんしばんこう』の千紫か」

「はい」

「父君は、よほどそなたのことが可愛かったに違いない」


 言って成旺しげあきは、穏やかに目を細めた。その旺知あきとも似の瞳に千紫はどきりとする。


 彼女は、動揺する心の内を知られないよう慌てて目をそらした。

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