西の隠れ屋敷(5)

 成旺しげあきと千紫の簡単な挨拶が終わると、波瑠がてきぱきと動き出した。


成旺しげあき様、芋を持ってきたので土間に置いておきました。あとは部屋のお片付けと洗濯と──、何か他にして欲しいことがありますか?」

「いいや、今日は大丈夫だ。適当にやってくれ」

「分かりました。では千紫様、参りましょう」

「え? ええ、」


 さっさと部屋を出ていく波瑠の後を千紫は慌てて追いかけた。

 去り際、ちらりと成旺しげあきを見ると、彼は再び本を読み始めており、こちらを気遣う様子もない。その興味を失くした様は、旺知あきともにやはり似ている。


「波瑠、今から何を?」


 千紫は、彼女の背中に声をかけた。彼女がすたすたと歩きながら答えた。


「屋敷の掃除です。それに洗濯も。あと今日は、特にこれといって用事もなさそうなので、夕餉ゆうげの準備もしてあげましょう」


 そして急に立ち止まると、彼女はくるりと振り返った。


「旦那様に行けと言われたのであれば、おそらく今後は千紫様の仕事になると思われます。今日、全てお伝えしますので、覚えてください」

「わ、分かった」


 千紫は緊張した面持ちで頷く。すると波瑠が苦笑した。


「大丈夫です。大した仕事ではありません。私は、さっさと終わらせて、よく里中へ遊びに行っていました。誰かが確認をしに来る訳でもありませんので、手を抜いたってばれません」


 この屋敷での仕事は、主に掃除や洗濯で、時には里中への遣いなどもあった。

 十日に一度ほど訪れれば良く、予定通りとならなくても誰に咎められる訳でもない。そして、成旺しげあきが人知れずここで暮らしている理由は、彼がだからである。


 なし者は、その多くが家を追い出されたり、はたまた、家の奥に隠されたり、差別を受ける。成旺も、例に漏れず、この屋敷に隠され続けてきたのだろう。

 とはいえ、あの旺知が、よくぞ追い出さずに済ませているものだと千紫は思った。


「ご兄弟二人の関係は、よく分かりません」


 裏庭でたまった衣類を二人でごしごし洗いながら、波瑠が雑談程度に話し始めた。


旺知あきとも様のご気性であれば、追放されても不思議ではないと思うのですが。しかし、それはなさらず、こうして世話をさせています」

「波瑠以外には誰が?」

「誰も。成旺しげあき様の存在は、九洞邸で口に出す者はいません。ここのお世話も少し前までは、大旦那様がお越しになっていたと成旺様から聞きました。さらにその前は、大奥様だったそうです」


 なるほど、この件に関しては誰にも任せず家族で面倒を見ていたというわけか。


 そして、前当主が亡くなってからは、波瑠や自分のような手を付けた女を寄越している。両親のように積極的に関わる気はないが、完全に切り捨てられないでいる旺知の複雑な心境がそこから感じられた。


 それから千紫は、波瑠に手順などを教えてもらいながら、ここでの仕事を一通りこなしていった。千紫も奥院や洞家の姫ではないので、家事の心得はそれなりにある。しかし、波瑠ほど手慣れているわけではなく、自身の要領の悪さを露呈する形となった。


 少なからず落ち込む千紫に波瑠はあっけらかんと笑った。


「千紫様が私よりお出来になっては、私の立場がなくなるではないですか」


 土間で、茹で上がった芋をざるに取り、波瑠は串を無造作に刺していく。そして、それを皿に乗せて塩をかけると、千紫に「はい」と手渡した。


成旺しげあき様に昼と夕の食事です」

「こ、これが? というか、芋だけではないかっ」


 驚き顔で千紫は波瑠に芋を突き返す。しかし波瑠は平然と頷いた。


成旺しげあき様は、食べる物に頓着しません。読みながら食べても書物を汚さないような物がお好みにございます。芋は食べやすく、腹持ちもしますので」


 それは、単にそうした方が都合がいいからで、食べ物としての好みではないだろう。


 しかし、ここでは波瑠が師である。千紫は、今はとにかく彼女に従うことにして、串に刺した芋を成旺に持って行った。


「失礼します」


 部屋の入り口で膝をついて声をかけると、成旺は顔も上げずに「うん」とだけ返事をした。


「串の芋にございます」

「ん」

「塩はかけてあります」

「ん」


 聞いているのかいないのか。


 あまりに気のない返事に千紫は少しいらっとする。何をそんなに夢中になって読んでいるのかと気になって、ちらりと書物の中を覗く。

 と、そこには人の国の耕作についての考察が記されてあった。その初めて読む内容に、千紫の目は釘付けになる。


 ぱらりと成旺が紙をめくる。千紫もそれに合わせて文字を追った。また、ぱらりとめくる。さらに文字を追う。そしてまた──。時折、難解な言葉が出てきて、彼の読む速さについていけない。

 

 しかしややして、成旺しげあきの紙をめくる手が急に止まった。

 当然、千紫は読み進められない。思わず、(どうした?)と止まったままの紙面を睨むと、真横で吹き出す声がした。


「面白いかな?」

「──え?」


 顔を上げ、横を向くと、穏やかな成旺の瞳とかち合った。


「そんなに食いつかれては、落ち着いて読めない」

「もっ、申し訳ありません!」


 千紫は飛び退いて、平伏した。誰かが読んでいる物を、脇から覗き見るなど無礼千万である。しかし、成旺はさして怒る様子もなく、読みかけの本をぱたりと閉じて立ち上がった。


「これをちゃんと読みたいのであれば、先にこちらを読まないと……」


 ぶつぶつ呟きながら、積み上げられた書物の山をひっくり返す。ややして、彼は一冊の本を書物の山から抜き出して、それを千紫に手渡した。


「この本を先に読みなさい。あっちは、それからの方がいいだろう」

「……お貸しになってくださいますので?」

「もちろん。その代わり、」


 成旺が膝をついて千紫の顔を覗き込む。


「次に来る時は、必ず所感を聞かせてくれ」

「はい──」


 不思議な高揚感に包まれながら千紫は本を受けとると、彼にこくりと頷いた。




 その夜、旺知あきともは帰りが遅く、千紫は一人で夕餉ゆうげを食べた。そこに出てきた茄子や肉を見て、(今度は芋だけでなく、茄子や肉も焼いて串に刺せばいいかもしれない)と密かに思う。


 今夜は、おそらく夜のお務めもない。部屋に戻り、千紫はさっそく成旺から借りた本を読んだ。しばらく読んで、再び成旺のことを思い出す。


 今ごろ彼は何をしているだろう。冷めた芋を、頓着もせずに食べているのだろうか。本を片手に読みながら。


 隠され、存在を無いものとされた「なし者」の兄。しかし、世間の煩わしさから解放され、自由に生きている彼の姿は羨ましくも思えた。


「そうじゃ、」


 千紫は、突然声を上げた。そして、部屋の隅の棚に行くと、片付けていた無数の書物の中から一冊の本を抜き出した。

 以前、内容が難しく、途中で読むのをやめてしまった本だ。父親に教えを乞う前に、宵臥よいぶしの話が来て、そのまま宙ぶらりんになってしまっていた。


「今度、成旺様に教えてもらおう。何かまた、良い書物ものを貸してもらえるかもしれぬ」


 そう一人で呟くと、不思議と胸が高鳴った。この気持ちが何の始まりであるか、千紫はまだ気づいていない。

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