3)秘め事
秘め事(1)
千紫は、次の日にでも「落山の屋敷の仕事」を言い渡されるのかと思っていたが、何の指示もないまま数日が過ぎた。
そして、そろそろ落山の屋敷へ行く頃ではと気になり始めた時分に、ようやく「落山の屋敷へはおまえが行くように」と
千紫は、黙って頷いた。ほんの少しばかり心が弾んでいることを自覚するが、この男の前でそんな顔はしない。
彼には従順な態度を取るに限るのだ。そうしておけば、余計な仕置きをされずにすむ。この数か月ほどで、千紫は嫌と言うほどそれを学んでいた。
近頃の旺知は何やら忙しそうだった。公務でというより、いつもの洞家や家元らとの付き合いでだ。旺知はとても
そこに、どこで聞きかじって来るのか、それなりの理屈を織り混ぜるものだから、荒唐無稽な話でも大抵の者は「うーん」と納得してしまう。そして、さりげなく相手の心の内にある不平不満を引き出して、それが鬼伯へ向くよう
ある意味、この話術は才能だと千紫は思った。
武にも秀で、飾り太刀かと思う派手な大太刀をなんなく振り回す。里中や里外の荒くれなあやかし達をまとめ上げ、山の見回りをさせているのも彼だ。
二つ鬼でありながら、
落山の屋敷へ行く日、千紫は朝から気もそぞろだった。朝の食事も終わり、自分の身支度も終えた頃、波瑠が千紫の部屋にやってきた。
「千紫様、荷物の用意ができました」
「頼んでいた物は入れてくれたか」
「はい」
先日は芋しか持って行かなかった。しかし今日は、荷物の中に
「髪はどうなさいますか?」
「この前の玉結びをしておくれ」
「分かりました」
千紫が鏡の前に座ると、波瑠はにっこり笑って彼女の髪を結い始めた。
「私がご一緒しなくて大丈夫ですか」
「良い。一人で行かねばお叱りを受けるやもしれぬ。先日、おまえが事細かに教えてくれたおかげで要領は得た」
「それなら良いのですが。まあそれに、私がいてもお邪魔ですしね」
「邪魔?」
頭を動かせないので、鏡越しに怪訝な顔を波瑠に返す。すると、彼女は茶化すような目で千紫を見てから、その視線を千紫が手にしている本へと移した。
「今日はその本をお返しなさるのでしょう? それに、荷物の中に別の本が入ってました」
「内容が難しく、教えを乞いたいと思うてな。今日返すこの本については、所感を述べよと言われている。いい加減なことはできぬ」
「ふふふっ」
波瑠が吹き出す。千紫はいよいよ怪訝な顔をした。
「なんじゃ?」
「楽しそうだと思って」
「私は今から仕事に行くのじゃ」
「はいはい。そうでした」
言って彼女は、出来たとばかりに千紫の肩をぽんっと叩いた。そして、小物入れの中から
千紫は、波瑠が用意してくれた荷物を持って玄関へ向かった。今日も歩いて行くことになる。着ているものも目立たない地味な小袖だ。
本来、派手に着飾ることが好きではない千紫にとって、ほっとする格好だった。
庭に面した廊下にさしかかる。と、庭先に見たこともない二つ鬼が片膝をついて控えていた。肩ほどの長さのねっとりとした髪が顔にかかり、その顔は青白い。頭には二つの角、
思わず千紫の足が止まった。
「おまえは誰か?」
見過ごすことも出来ず声をかけると、その男は低頭した。
「蟲使いにございます」
「蟲……使い──」
「以後、お見知りおきを」
男がにやりと口の端を上げた。
その絡み付くような笑いに、千紫は嫌悪を感じる。同時に、したり顔の男を見て、
蟲使いとは、その名のごとく蟲を使役する者のことだ。滅多に人の前に姿を表さず、何をするにも蟲を介して行う輩だ。蠱毒を作ることを得意とする者もいる。蠱毒には大量の蟲が必要だからだ。
そんな者が庭先にいる。とても穏やかな話ではない。
旺知は何をしようとしているのか。
しかし、さらに問いただそうとしたところを千紫は波瑠に止められた。
「千紫様、むやみに詮索するは旦那様のお怒りを買います」
波瑠が蟲使いをちらりと見ながら耳打ちする。千紫は、ぐっと言葉を飲み込んだ。確かに今、この男を問い詰めるのは得策ではない。
「遅くなる。行こう」
千紫は蟲使いから視線を外すと、再び歩き始めた。
「波瑠、」
「はい。先程の蟲使いですね」
心得た口調で波瑠が答える。
「今日は何かと雑事があり、屋敷の中を右往左往しております。旦那様のお話も自然と耳に入りましょう」
「頼む」
この数か月で波瑠はすっかり信頼のおける者となった。せめてもう一人、そういった者が身近にいればと思う。
(雪乃を呼び寄せられれば──)
今度、
「では行ってくる」
千紫は九洞邸をあとにした。
落山が近づくにつれ、千紫の気持ちは不思議と弾み始めた。
九洞邸から解放されたせいかもしれないなと千紫は思う。森の小道をさらに進むと、
裏の勝手口から入り、土間に荷物を置く。波瑠のような大声は──、出すのをやめた。きっと聞こえていないから意味がない。
前回と同じく、誰の了解も得ることなく中に入り、奥の書院へと向かう。この山奥にある屋敷は、草と土の匂いが漂う。ちょっとかび臭い土間もいい。
里中にある九洞邸のきらびやかな匂いより、よっぽど気持ちが安らいだ。そして、角のない屋敷の主人は、変わらない様子でそこにいた。
「千紫、参りました」
廊下で声をかけると、
「おや、今日はそなた一人か」
「はい。今度から私が参ります」
千紫が答えると、成旺は「そうか」と笑った。そしてすぐ、再び本を読み始めた。その素っ気ない態度に千紫は少しがっかりする。それでも気を取り直し、彼女は成旺に声をかけた。
「あの、今日は特にご用事は?」
「ない」
「では、食事なのですが、今日は芋だけでなく、獅子唐や茄子なども持って来ました。きっと、いろいろと味を食べ比べることができて──」
刹那、
しゃべり過ぎた──!
千紫は顔から火が出る思いで頭を下げ、慌ててその場を辞した。
「私は何を意気込んで喋っておる」
廊下で一人呟いて、はあっと肩を落とす。門をくぐったときに感じていた弾む気持ちが一気に冷めた。
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