終)約束の子

最終話 約束の子(1)

 夏の暑さが日に日に増して来る頃、落山の屋敷はいつになく騒がしかった。


 深芳が姫君を産み、そして義兄の死を知ってから早いもので十年以上の歳月が流れていた。


 清影の死の悲しみは、子育てという忙しい日々の中に紛れてしまった。いや、紛れ込ませたと言った方がいいかもしれない。娘のために立ち止まる訳にはいかなかった。


 しかし不思議なもので、娘という存在が心に負った大きな傷を癒してくれる。深芳は今、少なからず幸せだった。


 今日はで、御座所おわすところに出かけなければならない。

 いつもの小袖という訳にもいかず、この日のために用意された地味ではあるが質のいい衣服に袖を通す。


 しばらくして波瑠が手伝いに来てくれて、彼女は丁寧に深芳の髪をき流した。


「やっぱり何を着てもお似合いです。下手に飾り立てるより深芳様は──、もう落山の方様とお呼びした方がよろしいですかね」

「どちらでも」


 波瑠に茶化され深芳は苦笑した。

 出産を機に、落山の屋敷で深芳が旺知あきともの兄の側妻そばめとして過ごしていることが公のこととなった。

 ちなみに、落山に住んでいるから「落山の方」だ。


 公にはなったが、なし者の成旺が公の場に出ることは決してない。当然、その妻である深芳も表に出ることはなかった。しかし今日は、とある事情で公の場に姿を見せることにした。


 当然ながらいつもの着古した小袖という訳にはいかない。おかげで今日は朝から準備に追われているというわけだ。すると、廊下で鈴の音のような声がした。


「母さま、」

「紫月、どうした?」


 普段より華やかな母親の姿が珍しいのだろう。

 頭に一本の角を生やした女の子が、目をくりくりと丸くしながらこちらを覗いていた。娘の紫月である。今年で十二、白い雪肌は深芳譲り、そして肩のあたりで揺れる真っ直ぐな黒髪は清影譲りだ。


「今日は何かあるの?」

「少し出かける。お利口に待っていておくれ」

吽助うんすけの所へ遊びに行っていい?」


 吽助とは、藤花の屋敷にいる狛犬のことだ。


 今から二年前、十歳になろうという頃、突然紫月は月詞つきことらしいものを口にした。

 言葉にならない鼻歌のようなものであったが、風の気に同調して独特の旋律を奏でる娘に深芳は言葉を失うほど驚いた。


 誰も教えていないのに──。


 今、月夜つくよの里で月詞を歌えるのは妹の藤花しかいない。その藤花も幽閉状態で、里東の端屋敷はやしきから一歩も出ることができない。もはや月詞つきことは、忘れ去られつつある技能だ。


 「月詞を教えよ」は清影の最期の言葉となったが、それでも深芳は娘に月詞を習わせることを躊躇ためらっていた。

 娘を産んでまず思ったことは、何にも縛られず自由に生きて欲しいだ。月詞つきことは、その特殊な技能ゆえに政争の道具にも使われる。母親として、そんな娘の姿を見たくはなかった。


 しかし、このまま野放しで好きに歌わせることは、さらに危険である。


 これも運命か。


 深芳は、波瑠を遣いに出し、密かに藤花の元へ紫月を通わせることにした。

 同時に、藤花の屋敷以外では、月詞つきことを歌うことを禁止した。

 窮屈に感じるかもしれないが、彼女を守るためだ。このことを知っているのは千紫と波瑠、そして不本意だが成旺だけだ。


 おかげで紫月は、東の端屋敷はやしきにちょくちょく遊びに行くようになった。ここよりものびのびと出来るからだろう。


「行きたいのであれば、行っておいで。あまり遅くならぬよう」

「はいっ」


 ぱっと嬉しそうに満面の笑みを浮かべ紫月が元気よく返事をする。

 そして、「じゃあ、先に式を叔母様に飛ばそうかな!」と呟きながら廊下をどたばたと駆けていく。


 端屋敷はやしきにへ通うようになって、紫月は月詞だけでなく式術も覚えるようになっていた。

 人の国は伏見谷、百日紅さるすべり兵衛の影響である。彼は、二百年以上藤花のそばにはべり、彼女を守り続けてくれている。


 紫月の元気な後ろ姿を見送りながら波瑠が目を細めた。


「元気がよろしいですねえ。洞家や家元の姫君はどの子もままで気位が高く好きになれませんが、紫月様は違います。どこぞの里中の娘と変わりません」

「ほんに、誰に似たのやら」


 深芳が苦笑しながら答えた。

 落山の屋敷では里中出身の波瑠に世話をされ、端屋敷では藤花が自由にさせているらしい。これでしとやかに育てと言う方が無理な気がする。


 その時、下男が庭の隅に現れた。


「失礼いたします。お迎えに上がりました」

「うむ。行こう」


 実に、二百年以上ぶりの御座所おわすところである。深芳は門前で待つ網代あじろ車に乗り込んだ。




 御座所に到着すると、大礼たいれい門が大きく開け放たれていた。

 物見窓から外を覗くと、門衛が深芳を乗せた車の到着を待っていた。首に翡翠の鋼輪をしている。六洞りくどう衆だ。


 深芳は、その仰々しさにいささか驚いた。


「すまぬが、万洞ばんどう門へ回ってもらえるか。ここは通れぬ」


 車の中から御者に声をかける。すると声の主は「できません」とすぐさま返してきた。


「落山の方様は、伯家所縁ゆかりの方でございますので、こちらの門から案内するよう奥の方様から仰せつかっております。私どもの勝手な判断で他の門へ回ることはできません」


 深芳はやれやれと嘆息した。


(この調子で行くと、侍女衆もうるさそうじゃ)


 二百年を経てもなお、御座所おわすところの堅苦しさは変わらない。母親に伴われ、奥院へと参上した若き日を思い出す。


 あの時も影親の命で大礼門を通った。しかし、古参の侍女衆の中には、子持ちである母親の奥入りを快く思っていない者も多く、今さら子など出来るものかと聞こえよがしに呟かれたのを覚えている。

 思えば、藤花を産んだことは、母親にとって戦いのようなものだったのだろう。自分は何も分かっていなかったと今になって思う。


 伯家専用の車寄せに到着し、深芳は車から降りた。

 いつも使っていた車寄せである。懐かしいなと思いながら、ふと前方に目をやると、入り口に二つ鬼の男が片膝をついて彼女の到着を待っていた。


「お待ちしておりました。ここでお出迎えするよう仰せつかっております」


 言って男は頭を下げた。深芳は思わず「あ、」と声が出そうになった。


 目の前の男は、かつての座敷牢の番人、下野しもつけ与平である。突然の再会に、深芳は驚きの色を隠せなかった。


 日に焼けた浅黒い肌に、実直そうな目や、きゅっと引き結ばれた口元は変わらない。


 ただ、雑兵ぞうひょうのような姿だった牢番の頃と違って、きちんとした肩衣かたぎぬ姿の彼は、どこから見ても立派な鬼武者となっていた。


 なるほど、これが本来の彼の姿か。


 深芳は静かに与平に近づくと、初めて彼に声をかけた。


「私が誰だか分かるかえ?」


 与平の頬がぴくりと動く。彼は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。


「……落山の方様と聞いております。それがしの知っている女と言えば、市女笠いちめがさをかぶった女ぐらいでございます」


 短く与平が答える。しかし、それで十分だった。深芳は彼の前で膝を折った。


「市女笠の女は、長い間世話になったにもかかわらず、礼も言わずに消えたことを心残りに思っていると言っておった。彼女の代わりに礼を言う。ありがとう」

「もったいないお言葉にこざいます」

「私から何か礼をしたいが、落山で粗末な生活をしている身。許して欲しい」


 すると、与平が小さな笑みを浮かべた。


「あなた様の声をこうして拝聴できただけで、もう十分にございます」

「そうか」


 この男とは言葉を交わさない間柄であった。

 与平は最初に会った時に一度名乗っただけ、自分に至っては名乗りさえしていない。


 こうして再会を果たし言葉を交わせるようになるとは、不思議な巡り合わせを感じた。


「では、奥院へ案内してもらえるか?」

「は、」


 与平が軽く頷く。しかし、彼はすぐに立ち上がろうとせず、しばらく視線をさ迷わせた後、躊躇ためらいがちに口を開いた。


「あの──」

「?」

「市女笠の女にお伝えしていただきたいことが……」

「なんぞ?」


 深芳が聞き返すと、与平は頭を下げたまま答えた。


「またどこかに出向くことがあれば、この与平が案内すると──そうお伝えください」


 少し強張った声で与平が告げる。深芳は、なんとも言えず胸が熱くなった。

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