最終話 約束の子(2)

 その日、御座所おわすところでは、かつて「里一の美姫」と謳われた女が二百年ぶりに昇殿するとあって、誰もがその姿をひと目見ようと廊下のあちこちに溢れていた。


 その中を与平が不機嫌な視線をあたり構わず投げつけながら進んでいく。深芳は、自分に向けられる好奇の眼差しに微塵も動じることなく耽美な笑みをたたえて与平に続いた。


端女はしためのような扱いを受け、見る影もないなどと言ったのはどこのどいつだ?」


 どこからか自分を評する声が聞こえた。呆ける者、目が合って顔を真っ赤にして恥ずかしがる者、皆が多種多様な反応をする。(暇なことじゃ)と深芳は内心せせら笑った。


 そうして、執院の長い廊下を歩いてしばし、廊下の向こうから「深芳!」と聞き慣れた声が響いた。

 見ると、前方から多くの侍女を従えた千紫がこちらに向かって歩いてきている。その歩き方が少しぎこちなく、お腹のあたりがふっくらとしている。深芳は満面の笑みを浮かべ千紫に歩み寄った。


身重みおものくせに迎えに出ずともよい。私が見舞いに来たのじゃ」


 今日、ここに来ることになったである。深芳から遅れること十数年、ようやく千紫も懐妊した。

 父親について大騒ぎになっていないところを見ると、旺知あきともの子である可能性も十分ある。しかし、千紫は誰の子であるかをさして気にしていないようだった。


 旺知には千紫の他にも側妻そばめが三人いる。その筆頭格が胡蝶という一つ角の娘である。胡蝶は月夜の変で立場を追われた三洞家の縁戚の娘で、一族の期待を一身に背負っている。

 現在、旺知の寵愛ちょうあいを受けているとなると、後は子宝だけだ。そのような中、正妻である千紫の腹に子ができた。胡蝶が苦々しく思うであろうことは容易に想像がついた。


 奥院を追われた自分に何ができる訳でもない。しかし、深芳は彼女を見舞いに行こうと思った。


 自分は珍しい宝玉のようなものだと、深芳は思う。なんの腹の足しにもならないのに、皆が貴重な物だと褒めそやすような。そして、その宝玉が奥の方を訪ねて参上することは、それなりに話題になる。こうした小さなことが、奥院の権勢争いには重要なのだ。


「奥の方自ら客人を迎えに来るなど聞いたことがない」

「何を言う」


 千紫が笑い返した。


「昔、私に会うために影霊殿の階段を下り、南庭にまで来てくれたのはおまえではないか」

「……そんなこともあったの」


 遠い昔のことを思い出し、お互いに「ふふふ」と笑い合う。千紫が、傍らに控える与平に声をかけた。


「与平、ありがとう。後は私が案内するゆえ下がってよい」

「は、」


 与平が頭を下げる。そしてちらりと深芳に目配せをする。深芳がそれに応えると、彼はわずかに笑みを浮かべてから無言のまま場を辞した。


「千紫、体調はどうじゃ?」


 あらためて二人並んで奥院へ向かう。千紫がお腹をさすりながら嬉しそうに笑った。


「最初の頃はほんに胸が悪くて白湯さゆしか飲めなんだが、それもようやく落ち着いた。今は、みずみずしい果実が無性に食べたくなる」

「ああ、分かる。それ以外はしばらく食べたくなくなるぞ」


 すると、背後からコホンと小さい咳払いがする。深芳と千紫が足を止めて振り替えると、後ろに付き従う侍女たちの中からまとめ役とおぼしき二つ鬼の女がずいっと前に進み出た。


 彼女は深芳を厳しい表情で睨みつけ、毅然とした態度で言った。


「畏れながら落山の方様に申し上げます。いかに親しい仲と言えど、相手は奥の方様にございます。気安い口のきき方はお慎みくださいませ」


 どうやら自分の口のきき方が気に入らないらしい。ちらりと彼女の背後に続く侍女衆を見ると、皆が同様の顔をしている。


 なるほど、と深芳は嘆息した。かつての窮屈な奥院での生活を思い出す。


 深芳はとぼけた様子で首を傾げ、侍女頭に対して艶やかに笑った。


「そう言うおまえはどこの誰じゃ? おまえこそ私に対する口のきき方を知らぬとみえる。おまえは、いつも千紫の話に出てくる雪乃ではないの」

「な──?!」


 侍女頭が顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせた。見かねた千紫が仲裁に入った。


「やめよ、言い過ぎじゃ。雪乃は別用で忙しい。代わりに付いてくれた侍女頭の面目を潰すでない」

「おや、すまぬ」


 ふんっと鼻を鳴らして深芳は奥院に向かって歩き出した。方向は分かっている。迷うわけもない。

 背後で千紫が「おまえたちも下がれ」と侍女衆を解散させているのが聞こえた。


 執院から奥院へ続く渡殿わたどのまで来て、深芳はくるりと振り返り千紫に言った。


「千紫、まずは私を真似ているという側妻そばめに会わせやれ。いや、旺知が先か? いっそ二人まとめて──」


 千紫がげんなりとした顔でため息をついた。


「先ほどからなぜそのように挑発的なのじゃ。里一の美姫はもっと慎ましやかであったであろう?」

「奥院を追われ、その挙げ句に子を生んで、多少なりと図太くなったのじゃ。くだらぬ見下し合いは辟易する。こちらはそんなに暇ではない」


 深芳が不満を一気にぶちまけると、千紫は肩をすくめて参ったと両手を上げた。分が悪いと思ったらしい。そして彼女は、「伯なら奥座敷におる」と先を促しつつ、深芳に尋ねた。


成旺しげあき様はいかがお過ごしか?」

「相変わらずお部屋にこもっておる。たまにふらりとどこかに出かけはするがの。あれは、他に女がおるのではないか?」

「おらぬ。おまえは何しに来たのじゃ。身重みおもの私の見舞いに来たのではないのかえ?」


 千紫がいい加減にしろとばかりに不機嫌な顔で深芳を睨む。さすがにちょっと言い過ぎたと、今度は深芳が肩をすくめた。


 するとその時、賑やかな笑い声が廊下の曲がり角の向こう、奥座敷から聞こえてきた。千紫があからさまに嫌な顔をする。


「先客がおるようじゃ。この騒がしさは、土髪の女とみえる」


 どうやら噂のらしい。


 奥座敷は障子戸が大きく開け放たれて、そこから旺知の声に混じって甘ったるい笑い声が響いている。千紫は深芳を伴い奥座敷の前まで来ると、うやうやしく頭を下げた。


「伯、落山の方が来たのでご挨拶に連れてまいりました」


 甘い笑い声がぴたりと止まり、途端に空気が張り詰める。くだん側妻そばめに歓迎されていないことがすぐに分かった。


 おあつらえ向きじゃ。


 深芳は千紫の背後から一歩ずいっと前に出た。

 座敷の奥に旺知がくだけた様子で座っていた。不遜な顔つきは当時のまま、派手な身なりも変わらない。そしてその右側に、同じく派手に着飾った赤茶髪の女がべったりとまとわりついていた。


 周囲には同じように数人の侍女衆がはべり、深芳はその無駄に華美な様子に内心うんざりした。


 しかし彼女は、自分の心の内を尾首おくびにも出さず、優雅な所作でたおやかに腰を折った。栗色のゆるくうねった髪がはらりと肩からすべり落ちる。彼女は、切れ長の目をゆっくりと瞬かせ、座敷の奥に座る二つ鬼の男を見定めた。


「お久しゅうございます。旺知殿


 深芳が艶やかな笑みとともに挨拶する。刹那、部屋の空気が凍りついた。


 鬼伯となった旺知を今や名前で呼ぶ者も、ましてや殿付けで呼ぶ者もいない。呼ばれた本人はというと、二百年経ても衰えぬ彼女の美貌に呆けつつ、突然のことで咄嗟に反応できないでいた。


 すると、傍らに控える一つ鬼の女が腰を浮かせて深芳を睨んだ。


「伯に対し、なんと馴れ馴れしい口のきき方。控えや!」


 胡蝶だ。赤茶で波のように癖のある髪、目鼻立ちのはっきりした顔はそこそこの美人である。そして敵意むき出しの目は、ある種、清々すがすがしいほど分かりやすい。

 しかし、


「品がない。これで私を模しているとな。冗談も休み休み言え」


 思わず心の声が口に出た。背後で千紫が吹き出しそうになるのを必死でこらえているのが分かる。


「ひ、品がないとは無礼な──! 下賤な者に落ちぶれておるのはおまえであろうっ。奥院を追われ側妻そばめとなった女のくせにっ!」


 胡蝶が真っ赤な顔で目をつり上げた。しかし悲しいかな、こういう喧嘩は怒った方が負けである。深芳は彼女の罵倒をさらりと無視して、旺知の御前に進み出て、その場に座ると静かに両手をついた。

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