最終話 約束の子(3)

此度こたびは、奥の方様のご懐妊、誠におめでとうございます」


 後から入ってきた千紫が旺知の左側にするりと座る。

 一方、正妻が夫の隣に座ったというのに、反対側に座っている胡蝶は負けじと居座っている。しかし、旺知に冷めた目で睨まれ、彼女はしぶしぶ脇の下座へ退いた。


 そのやり取りを眺めながら、深芳は鬼伯夫妻に笑いかけた。


「今日は何かと心労の多い千紫が心配で見舞いに来ました。今が一番大切な時期ですから」

「分かっておる。千紫に無理はさせぬ」


 旺知が鬼伯らしい威厳を戻しつつ深芳に答えた。深芳の前で余裕のない姿は見せられない。なんせ、里一の美女は「余裕のない男は嫌い」なのだ。


「今、こやつに公務はさせておらぬ。体を休めるよう言っている」

「そうでしょうとも。なんと言っても──」


 深芳はそこで一旦言葉を切って、鋭い視線を胡蝶に向けた。


「生まれてくるお子は、次の北の領を背負うでいらっしゃいますもの」


 深芳の宣言とも取れるような言葉。それに旺知が大きく頷き、隣で千紫が満足げに笑う。下座の胡蝶が、今度は蒼白な顔になってわなわなと震えた。


「……私はこれにて失礼します!」


 憤まんやる方ない胡蝶が、ばっと立ち上がった。そして、乱暴に打ち掛けの裾を翻して部屋を出て行く。胡蝶付きの侍女たちも慌てた様子で女主人の後を追った。


 その後ろ姿を横目で見送りながら、深芳はくすりと一笑した。


「おや、何やら気に食わぬ様子。旺知殿、あの娘は分かっていないのでは?」


 さっきは上座に居座らず、さっさと下座に退くべきだった。今は、ぐっと堪えてこの場に居座るべきだった。


 あの女は、退くべき時と居座るべき時が分かっていない。そんな程度で千紫と権勢を競おうなどと百年早い。


 深芳の指摘に旺知が不機嫌そうに目をそらす。胡蝶を馬鹿にすることは、旺知を馬鹿にすることにもなりかねないが、こちらはすでに奥院を追われた底辺の女である。これ以上落ちぶれる心配もない。


 それに、この男は見栄張りだ。


 案の定、旺知は話題を変えた。


「深芳、久々の奥院は懐かしかろう」


 娘がいる深芳を姫と呼ぶのは意趣返しのつもりか、それとも他に呼びようがないからか。旺知は含みのある口調で言葉を続けた。


「元奥院の姫であった身でよう今まで我慢なされた。奥院もあなたのような花があってこそ華やぐというもの。もし望みとあらば──」

「旺知殿、」


 深芳は旺知の言葉を途中で止めた。懲りない男だと心の中で嘆息する。そして彼女は、旺知に対し鷹揚な笑みを浮かべた。


「あの夜、言ったはずです。私が望むも何も、あなたは私をどうされたいのかと」


 旺知がぐっと言葉に詰まる。隣では千紫が言い過ぎだとばかりにこちらを睨んでいる。そんな二人に深芳は静かに頭を下げた。


「落山でひっそりと暮らしとうございます。たまに遊びに来ることだけお許しくださいませ」




 その後、旺知は公務があると言って去っていった。

 あらためて二人になり、千紫に連れられ彼女の自室で過ごすことにする。


 かつて深芳の母が使っていた部屋である。部屋の造りは当然変わらないが、書物が乱雑に積まれ千紫の部屋らしくがらりと雰囲気が変わっていた。文机には、書類らしき山もある。


 どうやら旺知の目を盗んで仕事をしているらしい。千紫が深芳に好きに座るよう促しつつ、自身も「やれやれ」と適当な場所に腰を下ろした。


「好き放題言い過ぎじゃ。どうなることかとはらはらしたぞ」

「どうもならぬ。これで胡蝶も少しは大人しくなろう。今日のあれは、旺知の不興を買った。後で相当怒られよう」

「すまぬの。私が直接言うと角が立つゆえ」

「立場があるというのは、そういうことじゃ」


 深芳は気にするなと千紫に笑った。千紫が小さく頷く。そして彼女は、「それよりも」と話を続けた。


「紫月はどうしておる?」

「藤花の屋敷に入り浸っておる。波瑠もさして行儀にうるさくないし、端屋敷はやしきでは狛犬と走り回っているらしく、そこらの里中の娘と変わらぬわ」


 困り果てた様子で深芳がぼやくと、千紫は「ふふふ」と楽しそうに笑った。


「将来の我が子の伴侶じゃ。屋敷の奥で育った姫などつまらぬ」


 千紫の口から出た「伴侶」という言葉に、深芳の顔から笑顔がすっと消える。その態度を受けて、千紫も真顔になった。


「深芳、我らのような苦労を娘にさせたくないという気持ちは、腹に子ができた今では痛いほど分かる。しかしあえて頼みたい。私は必ず男児を産む。しかるべき時が来たら、紫月をもらい受けたい」


 深芳が乗り気でない顔を千紫に返した。


「……本人同士が決めることじゃ。どうしてもというのなら、宵臥よいぶしでもなんでもして召し上げればいい。ただし、無理に話を進めても心は通わぬ。それは、おまえ自身が分かっておろう」

「だとしても」


 千紫が迷いのない目で深芳を見返す。どのような困難にも負けないという意思が伝わってくる彼女らしい強い眼差しだ。


「そなたの子が必要じゃ。このままでは、北の領は衰退していく」


 この二百年、治世を担ってきた者の言葉の重みがそこにはあった。


月詞つきことを失いはや二百年、北の領の大地は痩せ細っていくばかり。しかし、一部の鬼以外はその事実から目を背け、目の前の利得しか見ていない。それでは駄目じゃ」


 千紫は言った。


「百年──、いや五十年の内に、我が子に第一伯子を名乗らせる。腐った因習を切り捨て、新しい風を北の領に吹き込むために。そして、一つ鬼も二つ鬼もない新しい時代とするために。その時に、心から信頼できる者の支えが欲しい」

「……そのような重責を我が子に課すのか? 旺知の子かもしれないのに?」


 千紫が怒り出すかもしれないことを覚悟で、深芳はあえて問うた。しかし彼女は怒ることはなく、ただ静かに頷いた。


「昔は成旺様の子をと思っていたが、今は誰の子であるか気にしておらぬ。この腹の子は、誰の子でもない。そして、それがこの子の運命。紫月が誰に教わることもなく月詞つきことを歌ったように」


 鬼伯の妻として不動の地位を手に入れ、そしてに愛される不思議な彼女の境遇を思う。

 誰の子でもない子を産む──。それは、この北の領の行く末を見つめ続け、多くの選択を強いられて辿り着いた心境なのだろう。


「……ずっと、最後に笑うのは誰だと考えていた」


 深芳は言った。

 千紫の不本意な婚姻も、旺知の理不尽な謀反も、そして義兄との虚しい逢瀬も、いったい誰のためのもので、誰が最後に笑うのかと。ずっと考えていた。


「しかしあるのは、ただただ先に続く未来のみじゃ」


 我ら鬼の営みの、なんと些細なことであるか。


「私は紫月が笑ってさえおればそれでいい。そして、誰かを好きになって普通に恋をしてくれれば──、それでいい」


 深芳が独り言のように答えると、千紫が静かに深芳の手を取った。


「深芳、ならば再び約束をしまいか」

「約束?」


 千紫が力強く笑った。


「我が子が第一伯子を名乗るまで、紫月は落山の隠し姫として好きに生活させよう。そしてその時、好いた男がいなかったならば、紫月を宵臥よいぶしとして召し出す。我が子が伴侶として相応ふさわしい男か品定めせよ」

宵臥よいぶしの姫が伯子の品定めを?」


 深芳が呆れた顔で目を丸くする。千紫が当然とばかりに頷いた。


「それぐらいしないと隠しの姫は会ってくれぬのであろう?」


 ぷっと、どちらからともなく吹き出した。まだ娘だったあの頃、二人で交わした約束は、ほんのちっぽけな願いでしかなかった。


 それが今、大きな希望となって、二人を強く結びつけた。


「ならば、紫月にどのような召し物で上がらせるかの?」

「それはさすがに気が早い。こちらはまだ生まれてもおらぬ」


 千紫が苦笑する。深芳は、「大事なことじゃ」と大げさに言いながら千紫に笑って見せた。二人の子だもの、何もせずともきっと巡り会うことになると深芳は予感した。


 次の年、うららかな春の早朝、奥院に元気な男児の産声が鳴り響いた。


 一つ鬼と二つ鬼、かつて二人の博学子に同じ年頃の姫がいた。二人の姫は、激動の時代を生き抜き、それぞれ一つ鬼の姫と二つ鬼の伯子を産む。

 その後、姫と伯子がどのような運命を切り開いていくかは、まだ誰にも分からない。




「第2話 深く芳し花の香よ、千のゆかりに咲く恋は」 了


藤の花恋 完

 2022年7月2日

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