子、宿る(3)
その日は、そのまま寝たり起きたりを繰り返し、まどろみの中で一夜を過ごした。
途中から兵衛が添い寝をしてくれていることに気がついた。藤花は、彼を起こさないよう注意しながら、起きる度に何度もお腹をさすった。
もう諦めていた。九尾と盟約を交わしたとき、子を成せぬ可能性については聞いていたから。しかしその時、せめてもの慰めにと九尾から加護をもらった。もっとも、
──ただの気休めにしかならんだろうが──
それが九尾の言葉ではあったが。
朝、柔らかな陽の光が部屋に差し込み始めた頃、藤花はようやく目を覚ました。いつもと同じ朝なのに、いつもより陽の光が輝いて見えた。
傍らに目をやると、兵衛の姿はもうない。すでに起きてしまったらしい。
しばらくして、兵衛が様子を伺いに来た。
「兵衛、おはよう」
「藤花様、お加減は?」
「うむ。すこぶる良い」
笑顔で藤花が答えると、兵衛がほっと顔を崩した。
「昨日、一晩ずっと寝続けて何も食べていないので、腹が空いてはおりませんか? 大好きな芋粥を初音が作って帰ってくれました」
「うむ、食べる」
しかし、藤花はふと黙り込む。ややして、彼女は一言つけ加えた。
「あと何か、精のつくものも少し」
「……精の、つくものですか?」
「うむ」
藤花が頷くと、兵衛は驚いた顔をした。
「魚や肉は胸が悪くなるのでは?」
「だから少しだけ」
兵衛は軽く考え込んでから、藤花に言った。
「では、朝ですから豆腐はどうですか? 同じタンパク質でも魚や肉より食べやすいと思います。魚や肉は、昼に用意しましょう」
「ならば、それで」
タンパクだのなんだのと、人の国の知識らしい話は分からなかったが、兵衛が提案するなら間違いはないだろう。
兵衛が不思議そうな顔で藤花を眺める。
「急にどうされました?」
食べてくれることは嬉しいが、無理をしているのではないかと心配になってしまう。すると、藤花が兵衛の胸に突然しなだれかかった。
そして彼女は、両手で兵衛の顔を捉えると、その真一文字に結ばれた口元に自らの唇を重ねた。
突然、何を。
驚いた兵衛は目を丸くして、すぐには
しかし、すぐに
兵衛が戸惑いつつ藤花に
ひとしきり唇を絡ませ合い、熱い吐息とともに二人は離れた。藤花は潤んだ瞳で兵衛を見つめ、そのまま彼に抱きついた。
「本当に、どうされたのです?」
訳が分からず尋ねれば、藤花が「ふふふ」と笑った。
「……夢を、見た」
「夢?」
「焔の鞘が私に別れを言いに来た。新しい宿主の元へ行くと、」
「それは、どういう──」
兵衛は怪訝な顔を返した。すると、藤花が彼の手を取り、静かに自分のお腹の上に重ねた。
「子が宿った」
「──は?」
「私と兵衛、二人の子じゃ」
喜びに満ちた深紫の瞳がまっすぐに兵衛を捉える。兵衛は藤花の言葉をすぐには飲み込めず、ただ彼女を見つめ返した。
藤花がおかしそうに笑った。そして、戸惑いを見せる兵衛の顔を細い指で優しくなぞった。
「喜んでは、くれぬのかえ?」
「…………危険です」
やっとのことで兵衛は声を絞り出した。しかも、藤花が到底望んでいるとは思えない言葉を。
まず頭に浮かんだことは、藤花の体がもたないのでは、という懸念。
三百年、妖刀・焔の鞘を体に収め続けてきた。その挙げ句に出産など、体への負担が大きすぎると兵衛は思った。
この端屋敷に閉じ込められている彼女は知らないだろうが、姉の
一番年若いはずの藤花が、姉姫たちより年長に見えるのは、長年の幽閉暮らしだけが理由ではないはずだ。
次に、間が悪すぎる、ということ。
幸か不幸か、この三百年の間、放置され続けてきたと言ってもいい。
幽閉当初、千紫から「監視をつけていない」との言葉どおり、まともな監視などなかった。たまに誰かが様子を確認しに来ることもあったが、藤花が決して屋敷から出ないことが分かると、それもなくなり、あとはもう関心がないようだった。
宝刀・月影は見つからないままだが、
しかし今、息子の存在を
再び揺らぎ始めた伯座を守るため、旺知は自身の力を誇示しようと考えるはずだ。今度は自分が狩られる番だということを、彼自身よく知っているのだから。
立場に窮した
なぜなら、焔は少なくとも藤花が封の鍵となる存在であると分かっているからだ。だからこそ、藤花はこの
(どうする──……)
あまり関わりたくないが、千紫を頼らねばならないと思った。
月夜の変からすでに三百年経っている。うまくすれば、放逐だけで済むかもしれない。
兵衛が頭の中で目まぐるしく考えを巡らせ始めた時、
「兵衛、落ち着け」
藤花の静かな声が彼の思考を遮った。はっとして彼女を見ると、藤花が困った顔でこちらを覗き込んでいた。
「そのような顔をするな。二代目九尾様に差し上げる娘ぞ」
「娘と決まった訳では──」
「
藤花がきっぱりと言った。そして、複雑な顔を見せる兵衛に対し、藤花は怒ることもなく苦笑した。彼の反応を、いくらか予想していたようだった。
「兵衛、私を好きなだけ抱いておいて、その顔はなしじゃ。喜びやれ」
藤花はまるで子供をあやす母親のように笑うと、兵衛の首に両腕を回して頬を寄せた。
「私は産むぞ。この腹の子を」
藤花の喜びに満ちた声が、兵衛の耳元で響く。そして彼女は、遥か遠くを見据えながら瞳を力強く光らせた。
「兵衛、何としてでもこの子を守り、必ずや二代目様にお届けせよ」
「……」
心が震えた。藤花の何ものにも負けぬ激しい覚悟を感じた。
母に、なろうとしている。艶やかな花が豊かにその実を結ぶように、なんと力強く、美しいことか。
兵衛はただ優しく、目の前の花を抱き締めた。
兵衛は、予定を変更してしばらく
しかし、藤花の懐妊が分かり、そうも言っていられなくなった。まずは、
その後、
「藤花様、お伝えしたいことがありまして」
「なんぞ?」
口をもぐもぐ動かしながら藤花が首をかしげた。兵衛があらたまった口調で言った。
「実は、伏宮本家当主・護の妻、あさ美も子が出来ましてございます。赤子が生まれると、何かと忙しくなりますゆえ、その前に藤花様に挨拶にと思い、その事で相談をしたかったのです」
「なんと、」
藤花が破顔する。
この三百年間、伏宮本家の当主が変わる度に、兵衛は当主とその妻を藤花に会わせていた。いつか来る輿入れに備え、縁を繋ぐためだ。
とは言っても、自分と藤花の関係や事情は、当主夫婦には内密のこととして代々伝えられていて、これが形だけの輿入れであることは当然ながら二人とも分かっている。
藤花の妊娠は、驚かれはするだろうが、今さら問いただされることはなだろう。ただ、藤花の腹の子が自分の子であるという実感は全くなく、それはあくまでも藤花の子であると兵衛は思った。
伏見谷では、九尾が結んだ結界が少しずつ弱まりを見せ始め、あちらこちらに
──儂の結界は、もってせいぜい三百年──
九尾が最期に言い残した通りだ。その日のために、兵衛は谷の狐を守り育ててきた。こうやって双方に同時に子が出来るなど、ただの偶然とは思えず、不思議な巡り合わせを感じた。
「これは、月の光の導き──いや、九尾様の導きだの」
藤花がお腹を撫でながら、兵衛の気持ちを代弁するかのように呟いた。
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