15)時は来たれり

時は来たれり(1)

 初音が慌ててやって来たのは、その日の午後だった。


 藤花は昼を食べた後に再び気分が悪くなり、寝間で横になって休んでいた。頑張って食べるのだが、食べるとどうしても胸が悪くなる。こんなことでは、腹の子に栄養がいかないと藤花が思い悩んでいると、血相を変えた初音が兵衛とともに部屋に入って来た。


「姫様、大丈夫ですか? 弟子殿に聞いても要領を得ず、」


 初音が藤花の様子を伺いながらひざまずいて、苛々した顔で兵衛を睨む。兵衛が苦虫を噛み潰したような顔をしながらそっぽを向いた。藤花は思わず吹き出した。


「それは、気まずいだけじゃ」

「は?」

「実はな、初音」


 それで藤花が妊娠したことを告げると、初音は「なんと!」と破顔した。


「それはまあ、どうしましょう!」


 言って彼女は自分のことのように歓喜の声を上げた。そして、藤花の手を取り、ぎゅっと握り締めた。


「この初音にお任せください。それならば、多少の胸の悪さなど些事さじにございます。なぜなら、子供はお腹にいる時が実は一番楽なのです」

「そうなのか?」

「はい。生まれてからがさらに大変ですから、今をのんびりお過ごしなさいませ」


 初音はそう笑いながら、今度はあらぬ方向を見ている兵衛をちらりと睨む。


「こういう時、本当に男はなんの役にも立ちませぬな。清々すがすがしいほど余所事よそごとのような顔をして。父親になるのでしょう?」

「……それは、ない」


 兵衛がそっけなく答えると、初音が「は?」と顔をしかめた。


「この期に及んで何を言い出すかと思えば──」

「初音、やめよ。二人でそう決めたのじゃ」


 藤花がすかさず割って入り、兵衛を庇った。そして、いよいよ眉間に皺を寄せる初音に苦笑しながら言った。


「私と兵衛の子と聞けば、旺知あきともの神経を無駄に逆撫でしかねぬ。どこぞの誰とも分からぬ者と適当に出来た子ぐらいが、囚われの身としてはちょうど良い」

「しかし、それではてて無し子になります。世間の聞こえも悪うございましょう」

「かまわぬ。どうせ私は男を取っ替えひっかえしている好色な姫。これで噂も嘘ではなくなるといものじゃ」


 あっけらかんと言ってのける藤花に、初音が納得のいかない顔で黙り込む。そして、「おまえはどうなのだ」という目を兵衛に向ける。


 兵衛は、それが最善だと思いつつも、自分がそう言ってしまうことに後ろめたさを覚えて、すぐには「」と答えることができなかった。


 実際のところ、藤花が自分の子を成すなど、想像もしていなかった。

 いや、こうなる可能性を理解していなかったわけではない。ただ、いろいろと目を背けていた。


 九尾が「子を成せないかもしれない」と言ったから。


 それでも藤花が、本当に欲しがっていたから。


 その狭間で自分自身揺れ動きながら、お互いの存在を確かめ合えればそれでいいと思っていた。

 この三百年、藤花は間違いなく自分のものであり、この端屋敷はやしきで過ごした日々は何ものにも代えがたいものだった。


 これ以上は望んではいけない。これ以上何かを手に入れれば、きっと大きなものを失うと、そら恐ろしかった。


 そもそも自分は、「父親」を名乗るような資格などどこにもないのだ。


「とにもかくにも、藤花様とその御子は、お守りする」


 兵衛は、まるで自分自身に言い聞かせるように初音に答えた。




 それからさらに数日後、兵衛が伏宮ふしみや本家当主の伏宮まもると妻のあさ美を連れてきた。

 護は目元が九尾を思い出させる優しそうな男で、妻のあさ美は快活な明るい女だった。彼女のお腹はすでに大きくなり始めており、独特のゆったりした洋服を着ていた。


「いつ産まれるのか?」


 藤花が尋ねると、あさ美がにこりと笑った。


「狐は、四か月ほどで出産です」

「早いの」

「藤花様は?」

「私は、あと十月とつきはかかると初音が言っていた」

「となると、人の国の暦で言うと十二月頃ですね。その頃であれば、私もなんとか出産のお手伝いに伺いたいと思います」

「それは心強いが、まだ赤子が小さかろう。乳も飲ませねばならぬ」


 藤花が言うと、あさ美は「そこは大丈夫」と笑いながら答えた。


「人の国には、ミルクという便利な物がありますから。あとは、一晩くらい父親に頑張ってもらいます。まあ、相当に大変でしょうが、死にはしません」


 藤花とあさ美は、お互いに笑い合った。すると、あさ美の隣で二人のやり取りを聞いていた護が、真面目な顔つきで兵衛に言った。


「ところで先生、このことは月夜つくよにもう伝えたのですか?」

「いや、まだだ。今さら急ぐ必要はないし、頃合いを見ている」


 護が「ふうむ」と少し難しい様子で頷いた。優しそうに見えても、当主の顔だ。子の誕生を単純にめでたい話で終わらせられないのは、世の男の常なのかと藤花は内心ため息をつく。


「話すのは奥の方様にですか?」

「そうなる。奥の方以上に、鬼伯に口添え出来る者はそうおらん」

「その息子である伯子が有能な方だと聞きましたが、」

「まだ、ただの若造だ。まあ、側妻そばめに産ませた他の息子よりはましだと思うが──」


 藤花の気持ちをよそに、兵衛と護が月夜の里の情勢について話し始める。

 こういう駆け引きめいた話は、そもそも好きではない。兵衛の顔がいつも以上に険しくなるのも嫌だった。


 千紫と兵衛は、ある種の盟約関係にある。

 細かいことは話してくれないが、彼女の名が表に出てこない内密な仕事も兵衛は請け負っているようだった。数年ほど前の、人の国の篠平で起こった紛争に介入したのも千紫の指示だったらしい。


 篠平には、三百年という年月を経て、その地を治める狐の一族がすでにいる。本来なら、伏見谷も彼らのことを尊重し、人と争いが起こったとしても介入はしない。そこをあえて介入した。


 結果、争いは一応決着したが、篠平の狐たちにとっては満足のいくものではなく、以来、篠平と伏見谷との関係は悪くなったと聞く。兵衛曰く、「篠平の言い分では、収まらない」とのことだったが、篠平の狐に無駄な恨みを買ったのではと心配になった。


 そして、その見返りとして、自分の身は保証されている。

 自分の知らないところで、兵衛はどれだけのごうを背負っているのだろうか。本来であるなら、それらは全て自分が背負うべきものなのだと藤花は思う。

 

 兵衛と護の話はまだまだ続きそうだった。しかしややして、あさ美が「こほん」と咳払いをした。


「藤花様が、退屈してお疲れのようですよ」


 たしなめる口調であさ美が口を挟むと、護が「これは失礼を」と神妙な顔になった。


「身重の姫様の前でする話ではありませんでしたな」

「大切な話であるからかまわぬ」


 とは言え、少し疲れた。腹の子のせいか、最近は本当に疲れやすい。


「申し訳ないが、私は少し休ませてもらいたい。遠慮なくゆっくりしていっておくれ」


 藤花はせっかく会いに来てくれた二人に対して心苦しく思いながら、護たちに告げた。そして、心配そうな顔をする兵衛に「兵衛はここで、二人の相手を」と指示をする。


「部屋までお連れします」

「障りない。一人で大丈夫じゃ」


 言って腰を浮かした兵衛を押しとどめ、藤花は立ち上がった。

 しかしその時、

 ふらっと眩暈めまいがし、藤花はそのままひざまずいた。


「藤花様!」


 とっさに兵衛が体を支え、抱きかかえる。


「大丈夫ですか? 早く横に──!」

「大袈裟に騒ぐな、兵衛……」


 彼女は、耳元で響く兵衛の声を少しうるさく感じながら、次の瞬間には、ふうっと意識を失った。

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