時は来たれり(2)

 阿の国に医者はいない。

 あやかしは、そもそも病いにかかりにくく、仮にかかったとしても、治療という発想がない。


 死んでしまえば、それは病いに己が負けたということだけだ。治癒の術はあるが、これは怪我や呪詛じゅそに対して施すもので、病いのために考え出されたものではない。

 それに何より、妊娠は病いではない。


 藤花の体調は目に見えて悪くなっていた。食べる量も減り、床に伏すことが多くなった。


 当初、「子供はお腹にいる時が実は一番楽だ」などと言っていた初音も、さすがに心配して毎日のように藤花の様子を見に来た。

 しかし、彼女は六洞りくどう家の正妻としての役目もある。「初音に迷惑をかけている」と藤花が気に病むので、ここ最近の兵衛は端屋敷はやしきで藤花と共に生活をするようになっていた。


 今日も朝から彼女は寝込んでいた。


「藤花様、林檎をお食べになりますか?」

「……食べる」


 兵衛が切った林檎を持って上がると、藤花がむくりと体を起こした。

 兵衛が胡座あぐらをかいて座り、膝の上に彼女を乗せる。藤花が嬉しそうに体を預けてきた。


 しかし、その顔は青白い。悪阻つわりの時期が終われば、少しはましになるのだろうかと思いながら、兵衛は心配を顔に出さないよう笑った。


「さあ、腹の子にも食べさせてあげましょう」


 兵衛が林檎を楊枝に刺して差し出すと、藤花がしゃくりとかじりついた。


「うむ。美味うまい」

「良かった」


 今は、食べられるのであれば、果物でもなんでもいいと思ってしまう。後は無理をせずにゆっくり過ごしてもらうしかない。


 兵衛の腕の中で林檎を頬張る藤花は機嫌も良く幸せそうだ。それだけが唯一の救いだった。


 ややして、兵衛は林檎を食べる藤花に話しかけた。


「藤花様、今宵、少し出かけます」

「どこへ?」

「奥院へ。奥の方に会ってきます」


 藤花が「そうか、」と思案げな顔をする。そして彼女は、兵衛に尋ねた。


「どのようにお伝えするつもりか」

「ありのままを。父親は分からず、鞘は藤花様から子に移る可能性が高い」

「最も肝心なところははっきり言わず、とな」


 藤花が苦笑した。兵衛は当然だとばかりに鼻を鳴らした。


「奥の方には、必要最低限のことしか伝えるつもりはありません」

「兵衛、」


 藤花が両手で兵衛の顔を捉えた。そして、澄んだ深紫の瞳で彼を真っ直ぐに見据える。


「千紫様に、この身はどうなってもよいと伝えておくれ」

「それは──請け負いかねます」

「欲張ってはならぬ。一番大事なものを失ってしまう」

「……私にとっての一番は、藤花様です」

「それは、困ったの」


 藤花がはにかみながら小さく笑った。 




 その夜、奥院の一室で、千紫は廊下に座り、独り月を見ていた。初夏の爽やかな風が吹く中、ぼんやりとした月光が優しく夜空を照らす。


 かの猿より式神で知らせを受けたのが夕刻のこと。あちらから連絡をしてくることは珍しく、「火急の件」という言葉に妙な胸騒ぎがした。


 ややして、庭の低木の暗闇に何者かの気配がした。


「して、何用か?」


 誰もいない庭に向かって千紫が声をかける。

 ゆっくりと、暗闇からひざまずいた兵衛が姿を現した。かつて自分と同じように和装だった男は、今ではすっかり異国かぶれで、シャツとズボンという身なりだ。


 そんな見慣れなかった彼の格好も、今ではもう慣れた。同時に、人の国の、目まぐるしい変化を感じずにはいられない。


 千紫は兵衛に向かって首をかしげた。


「おまえから知らせを寄越すとは珍しい」


 兵衛が頭を軽く下げたまま静かに口を開いた。


「藤花様、ご懐妊のよし」


 千紫の顔がすっと強ばる。彼女は静かに立ち上がると、きびすを返した。


「ここは虫の音がうるさ過ぎる。中へ」


 兵衛は小さく頷いて立ち上がった。


「どういうことか?」


 部屋に入り、障子戸をぴしゃりと閉めると、開口一番に千紫は言った。兵衛は視線を畳の目に落としたまま、落ち着いた口調で答えた。


「今ほどお伝えした通りにございます。いついかように出来た子かも分からず、藤花様も知らぬの一点張り……」

「ぬけとぬけと、余所事よそごとのように言うか──!!」


 刹那、扇子が兵衛に向かって飛んできて、彼の額にかつっと当たった。上目遣いで上座を見ると、千紫が唇を噛んでこちらを睨んでいた。


「このまま産ませるつもりか? 藤花の体は──、出産に耐えうるのか?」

「もはや、この件に関しては藤花様のご意志は固く……。言っても聞かぬは、かの姫の常にございますれば、奥の方もよくご存じかと」

「伯にどのように申し開きするというのじゃ?!」

「申し訳ございませぬ」


 兵衛は畳に頭をこすり付けた。とにかく今は頭を下げるしかない。

 彼に選択肢などなかった。今の月夜の里に、彼女以上に頼りに出来る者は他にいないのだ。


 今はただ、突然のことに驚いてしまっているだけ。千紫なら、すぐに落ち着きを取り戻し、出来得る限りの策を巡らせるはず。それが、彼女をして、鬼伯の正妻として何百年も奥院の主たらしめた故である。


 兵衛の考え通り、千紫はひとしきり怒りを彼にぶつけると、何かを吐き出すかのごとく大きな息をついた。そして乱れた思考を整えるべく静かに目を閉じる。


 ややして、彼女はゆっくりと目を開けると、落ち着きを取り戻した瞳で兵衛を見た。


「ここにおまえが来たということは、私に伯へとりなせと言うことか」

「鬼伯へ事の次第の説明と、藤花様とお子の身の安全を進言していただきたく存じます」

「……」


 千紫が視線を落とす。その感情は読み取れない。厳しい思案顔で、千紫が口を開いた。


「一つ、確認したい。藤花の体の中にある焔の鞘はどうなる?」

「姫君であれば、受け継がれます」

「なぜ分かる?」

「藤花様が夢で見たと」

「夢か……。では、姫が生まれることはほぼ間違いないということか」


 兵衛は黙り込む。すると、千紫が含みのある目を兵衛に向けた。


「そう言えば、伏宮本家の奥方も腹に子ができたとか。それはまことか?」


 兵衛の瞳が一瞬だけ揺らぐ。彼は、固い表情を変えないまま小さく頷いた。彼の返答を確認しながら、千紫が「それに、」と言葉を続ける。


「聞けば、伏見谷では九尾様の結ばれた結界が弱まっておるそうな。こちらも、間違いないの?」

「はい」


 平然と答えつつも、筒抜けだなと兵衛は苦々しく思った。自分たちが、月夜の里に間者を忍ばせているように、千紫もこちらの状況を調べている。もしかしたら、妖刀の封じ場所も探しているかもしれない。


 千紫が「ふむ」と考え込みながら独り言のように呟く。


「もし、二代目であれば、妖刀・焔を持つに相応ふさわしい霊力を宿していることになる。が、そうなると二代目誕生を隠すことも難しい。今、鬼伯に知られるのは、面白くないの」

「そこはご心配には及びません」


 すかさず兵衛は答えた。


「伏見谷には結界だけでなく、御屋形様の知恵がそこかしこに施されております。もし、二代目だとしても、その大いなる力は封じられます」

「力を封じるとな」

「はい。人の国は、大きな霊力を持つ者を野放しで育てられるほど、霊力に寛大な世界ではありません。御すこともできない力は、自身も周りも傷つけ、最後は人によって排除されます。そうならないよう、呪詛じゅそに近い業を施しました」

「さすがは大妖狐、死して三百年を経てもなお、谷を守るか」

「は、」

「では此度こたび、伏宮本家の妻と藤花に子が生まれるは、偶然か必然か──。兵衛、どう思う?」

「全ては御屋形様のたなごころの上の出来事。この猿の考えなど、及ばぬところと存じます」

「ふん、」


 千紫がつまらなさそうに小さく鼻を鳴らした。そして彼女は、しばらく考えを巡らせた後、落ち着いた口調で兵衛に言った。


「相分かった。鬼伯に事の次第を説明し、口添えをいたそう」

「ありがとうございます」

「が、いくつか条件がある」


 彼女の深紫の瞳が、鋭く光った。

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