時は来たれり(2)
阿の国に医者はいない。
あやかしは、そもそも病いに
死んでしまえば、それは病いに己が負けたということだけだ。治癒の術はあるが、これは怪我や
それに何より、妊娠は病いではない。
藤花の体調は目に見えて悪くなっていた。食べる量も減り、床に伏すことが多くなった。
当初、「子供はお腹にいる時が実は一番楽だ」などと言っていた初音も、さすがに心配して毎日のように藤花の様子を見に来た。
しかし、彼女は
今日も朝から彼女は寝込んでいた。
「藤花様、林檎をお食べになりますか?」
「……食べる」
兵衛が切った林檎を持って上がると、藤花がむくりと体を起こした。
兵衛が
しかし、その顔は青白い。
「さあ、腹の子にも食べさせてあげましょう」
兵衛が林檎を楊枝に刺して差し出すと、藤花がしゃくりとかじりついた。
「うむ。
「良かった」
今は、食べられるのであれば、果物でもなんでもいいと思ってしまう。後は無理をせずにゆっくり過ごしてもらうしかない。
兵衛の腕の中で林檎を頬張る藤花は機嫌も良く幸せそうだ。それだけが唯一の救いだった。
ややして、兵衛は林檎を食べる藤花に話しかけた。
「藤花様、今宵、少し出かけます」
「どこへ?」
「奥院へ。奥の方に会ってきます」
藤花が「そうか、」と思案げな顔をする。そして彼女は、兵衛に尋ねた。
「どのようにお伝えするつもりか」
「ありのままを。父親は分からず、鞘は藤花様から子に移る可能性が高い」
「最も肝心なところははっきり言わず、ありのままとな」
藤花が苦笑した。兵衛は当然だとばかりに鼻を鳴らした。
「奥の方には、必要最低限のことしか伝えるつもりはありません」
「兵衛、」
藤花が両手で兵衛の顔を捉えた。そして、澄んだ深紫の瞳で彼を真っ直ぐに見据える。
「千紫様に、この身はどうなってもよいと伝えておくれ」
「それは──請け負いかねます」
「欲張ってはならぬ。一番大事なものを失ってしまう」
「……私にとっての一番は、藤花様です」
「それは、困ったの」
藤花がはにかみながら小さく笑った。
その夜、奥院の一室で、千紫は廊下に座り、独り月を見ていた。初夏の爽やかな風が吹く中、ぼんやりとした月光が優しく夜空を照らす。
かの猿より式神で知らせを受けたのが夕刻のこと。あちらから連絡をしてくることは珍しく、「火急の件」という言葉に妙な胸騒ぎがした。
ややして、庭の低木の暗闇に何者かの気配がした。
「して、何用か?」
誰もいない庭に向かって千紫が声をかける。
ゆっくりと、暗闇からひざまずいた兵衛が姿を現した。かつて自分と同じように和装だった男は、今ではすっかり異国かぶれで、シャツとズボンという身なりだ。
そんな見慣れなかった彼の格好も、今ではもう慣れた。同時に、人の国の、目まぐるしい変化を感じずにはいられない。
千紫は兵衛に向かって首をかしげた。
「おまえから知らせを寄越すとは珍しい」
兵衛が頭を軽く下げたまま静かに口を開いた。
「藤花様、ご懐妊のよし」
千紫の顔がすっと強ばる。彼女は静かに立ち上がると、きびすを返した。
「ここは虫の音がうるさ過ぎる。中へ」
兵衛は小さく頷いて立ち上がった。
「どういうことか?」
部屋に入り、障子戸をぴしゃりと閉めると、開口一番に千紫は言った。兵衛は視線を畳の目に落としたまま、落ち着いた口調で答えた。
「今ほどお伝えした通りにございます。いついかように出来た子かも分からず、藤花様も知らぬの一点張り……」
「ぬけとぬけと、
刹那、扇子が兵衛に向かって飛んできて、彼の額にかつっと当たった。上目遣いで上座を見ると、千紫が唇を噛んでこちらを睨んでいた。
「このまま産ませるつもりか? 藤花の体は──、出産に耐えうるのか?」
「もはや、この件に関しては藤花様のご意志は固く……。言っても聞かぬは、かの姫の常にございますれば、奥の方もよくご存じかと」
「伯にどのように申し開きするというのじゃ?!」
「申し訳ございませぬ」
兵衛は畳に頭をこすり付けた。とにかく今は頭を下げるしかない。
彼に選択肢などなかった。今の月夜の里に、彼女以上に頼りに出来る者は他にいないのだ。
今はただ、突然のことに驚いてしまっているだけ。千紫なら、すぐに落ち着きを取り戻し、出来得る限りの策を巡らせるはず。それが、彼女をして、鬼伯の正妻として何百年も奥院の主たらしめた故である。
兵衛の考え通り、千紫はひとしきり怒りを彼にぶつけると、何かを吐き出すかのごとく大きな息をついた。そして乱れた思考を整えるべく静かに目を閉じる。
ややして、彼女はゆっくりと目を開けると、落ち着きを取り戻した瞳で兵衛を見た。
「ここにおまえが来たということは、私に伯へとりなせと言うことか」
「鬼伯へ事の次第の説明と、藤花様とお子の身の安全を進言していただきたく存じます」
「……」
千紫が視線を落とす。その感情は読み取れない。厳しい思案顔で、千紫が口を開いた。
「一つ、確認したい。藤花の体の中にある焔の鞘はどうなる?」
「姫君であれば、受け継がれます」
「なぜ分かる?」
「藤花様が夢で見たと」
「夢か……。では、姫が生まれることはほぼ間違いないということか」
兵衛は黙り込む。すると、千紫が含みのある目を兵衛に向けた。
「そう言えば、伏宮本家の奥方も腹に子ができたとか。それは
兵衛の瞳が一瞬だけ揺らぐ。彼は、固い表情を変えないまま小さく頷いた。彼の返答を確認しながら、千紫が「それに、」と言葉を続ける。
「聞けば、伏見谷では九尾様の結ばれた結界が弱まっておるそうな。こちらも、間違いないの?」
「はい」
平然と答えつつも、筒抜けだなと兵衛は苦々しく思った。自分たちが、月夜の里に間者を忍ばせているように、千紫もこちらの状況を調べている。もしかしたら、妖刀の封じ場所も探しているかもしれない。
千紫が「ふむ」と考え込みながら独り言のように呟く。
「もし、二代目であれば、妖刀・焔を持つに
「そこはご心配には及びません」
すかさず兵衛は答えた。
「伏見谷には結界だけでなく、御屋形様の知恵がそこかしこに施されております。もし、二代目だとしても、その大いなる力は封じられます」
「力を封じるとな」
「はい。人の国は、大きな霊力を持つ者を野放しで育てられるほど、霊力に寛大な世界ではありません。御すこともできない力は、自身も周りも傷つけ、最後は人によって排除されます。そうならないよう、
「さすがは大妖狐、死して三百年を経てもなお、谷を守るか」
「は、」
「では
「全ては御屋形様の
「ふん、」
千紫がつまらなさそうに小さく鼻を鳴らした。そして彼女は、しばらく考えを巡らせた後、落ち着いた口調で兵衛に言った。
「相分かった。鬼伯に事の次第を説明し、口添えをいたそう」
「ありがとうございます」
「が、いくつか条件がある」
彼女の深紫の瞳が、鋭く光った。
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