時は来たれり(3)

 千紫相手に、ただで話が通るとは兵衛も思ってはいなかった。

 例え藤花という共通の守りたい者がいるとしても、千紫と自分はそういう関係だからだ。


 彼は大して驚くことなく、千紫を見返した。


「それで、条件とは?」

「一つ、藤花と二人で話がしたい。日はこちらで指定する。場を用意せよ」

「承知いたしました」

「次に、深芳と紫月を人の国に住まわしたい。住みを準備してもらいたい」

「深芳様と紫月様を?」


 兵衛は思わず聞き返した。

 鬼が人の国に住むなど、基本的にない。人には関わらないというのが、彼らの昔からの考えであり不文律的な掟である。

 阿の国で頂点を極める一族の、ある種の防衛本能だとも兵衛は思っている。


 だからこそ、「深芳と紫月を人の国へ住まわす」というのは異例であり、なんらかの事情が推察された。


 千紫も兵衛のそんな思いを感じ取ったようだった。彼女は短く「おまえが関与することではない」と付け加え、兵衛の怪訝な視線を退けた。


「そして最後に、あと一つ。我が息子、碧霧の指南役として密かに彼に仕えよ」


 兵衛の頬がぴくりと動く。彼は目を伏したまま静かに答えた。


「伯子は文武に秀で、それは優秀な御方だと聞き及んでおります。かような猿がお教えすることなど何もないかと」

「ふん、つまらぬ謙遜など不要じゃ」


 千紫が口の端に皮肉げな笑みを浮かべた。


「さまざまな霊術を取得し、人間の世界にも明るい。何より、かの大妖狐・九尾の唯一の愛弟子。もはや、ただの猿ではない。猿師とはよう言うたものよ」

「しかしながら──」

「これは、取引じゃ」


 兵衛の言葉を遮り千紫が言った。そして兵衛の元へ歩み寄ると、彼の耳元に顔を寄せた。


「勘違いをしてもらっては困る。頼みごとをしているのではない。応や否や?」


 有無を言わせない冷徹な声が耳元で響く。兵衛はぐっと奥歯を噛みしめた。

 そうだ、これは取り引きであり、駆け引きだ。


 彼は自身の気持ちに喝を入れ、甘い考えを切り替える。


 千紫が、自身の息子に知恵を授けろと言うのなら、あの若造を利用価値のある存在に育て上げればいい。息子の方が目の前の母親より、ずっと御しやすい。そう考えれば、この条件も悪い話ではない。


「謹んでお受けいたします」


 兵衛が感情のない声で答えると、千紫は満足げに笑った。 




 夏の気配を少しずつ感じ始めた頃、千紫が密かに端屋敷はやしきを訪れた。幽閉から三百年、初めての来訪である。


 彼女は目立たないよう珍しく髪を下ろし、里中の娘のような格好で現れた。従者は、六洞りくどう重丸のみである。


 一方、藤花の体調は、相変わらず優れなかった。もうかれこれ4か月、そろそろ悪阻つわりも落ち着く頃だというのに、その兆しが見えない。


 しかし、か細い体は、それでもお腹回りだけが少しだけふっくらしてきて、子供が育っていることが分かった。


 この日、藤花は身支度を整えて、客間で千紫を迎え入れた。


「千紫様、お久しゅうございます」


 千紫を上座に促して、藤花は深々と頭を下げた。千紫は目を細めて頷き返すと、藤花の脇に控える兵衛に対し目配せをした。


 兵衛が頭を下げて、そのまま退室し、障子戸を静かに閉める。


 刹那、千紫が藤花に詰め寄って彼女を抱き締めた。


「ああ、藤花!」


 言って、彼女は藤花の体と顔を何度も撫で回した。


「なんと細い体じゃ。ちゃんと食べておるのかえ?」

「はい。子が腹を空かすといけませんので」


 藤花が笑って答えると、千紫は涙を浮かべながら「うんうん」と何度も頷き返した。


「兵衛からあまり体調が優れぬと聞いて、深芳ともども心配しておった」

「姉様はお元気でしょうか? 一年ほど前、成旺しげあき様が亡くなられたのは、紫月から聞いております」

「元気じゃ。西の隠れ屋敷で変わりなく過ごしておる」


 それから二人は、これまでのお互いのことをいろいろと報告しあった。


 ただ、互いに語り尽くすには、あまりに流れた時が長すぎ、そして今ある時は短すぎた。


 一通り話し終えて、藤花は千紫に尋ねた。


「父を──、恨んではおりませんか?」


 彼女が背負ってきた辛さのほんの少しでもいい、この場で晴らして欲しいと思った。しかし、千紫は自嘲的な笑みを浮かべると、小さく首を振った。


「私が恨むは、この不甲斐ない己れのみじゃ。だからこそ、地を這ってでも私は生きねばならぬ」


 千紫らしい言葉だった。どんなことも人のせいにしない、己れと対峙する厳しさ。しかし果たして、これは彼女が招いたことか。


「千紫様は何も悪くはございませぬ」


 思わずそう言い繕えば、千紫が「ありがとう」と笑い返した。藤花の言葉を素直に受け取っている訳ではなく、ただただ、藤花の気遣いに対して感謝しているようだった。そんな彼女の態度に、藤花は何とも言えないもどかしさを感じた。


 すると、千紫が「それより、」とあらたまった顔をした。


「今日は、そなたの腹の子の話をしに来たのじゃ」

「はい。しかし、先に兵衛が伝えた通りです。これと言って話すことはありませぬ」


 そんな彼女に千紫は探るような視線を向けた。


「最も肝心なところを聞いておらぬ。誰の子か?」


 藤花は、軽くため息をつく。そして、千紫に対し「さあ?」と大げさに首をかしげて見せた。


「あちこちで男をつまみましたゆえ、どこの誰やら分かりませぬ」

「藤花、」

「まさか、そのようなくだらない話をなさるために来たので?」


 鋭く千紫を見返して、彼女の問いを退ける。千紫が苦笑した。


「すまぬ。質問が悪かった。腹の子は、愛する者の子か?」


 藤花がふいっと視線を外した。そして彼女はお腹を両手で撫でながら、満足そうに、そして力強く笑った。その様子に、千紫は小さく目を伏せた。


 言っても聞かぬは、この姫の常。ならばもう、好きにさせるしかない。


「相分かった」


 きっぱりとした口調で言って、千紫は真剣な眼差しを藤花に向けた。


「腹の子は必ずや二代目九尾に届けよう。安心せよ」

「ありがとうございます」

「しかし、」


 千紫が一度言葉を飲み込む。そして、ゆっくりと静かな口調で藤花に言った。


「そなたには、それ相応の対価を払ってもらわねばならぬ。この月夜つくよに居続けることはかなわぬ」

「それは、当然のことかと」


 藤花がなんでもないという顔で頷いた。すでに何もかも覚悟ができている表情に、千紫は胸が抉られようだった。

 そして、千紫の話を一通り聞いたあと、藤花は彼女に尋ねた。


「……この腹の子の世話は誰が?」

「私の息のかかった者を。初音の出入りは自由にさせよう。守役は、当然ながら兵衛じゃ」

「分かりました」


 藤花は千紫に対し頭を下げた。ほぼ満足のいく回答だった。

 千紫がその凛とした瞳に悔しさをにじませる。


「これが私にできる精一杯じゃ。許しておくれ」

「何をおっしゃいます」


 藤花が艶やかに笑った。


「子を成すは、女にとって戦のようなもの。今、愛する者の子を腹に宿し、私はもう勝ったようなものにございます。だから千紫様、」


 藤花が、今にも泣きそうな千紫の顔を優しく撫でた。


「どうか昔のように笑ってくださいませ。藤花は阿の国一番の幸せ者、何を悲しむことがありましょう?」


 千紫が眉根を寄せながら、それでも精一杯の笑顔を作る。そして二人はしっかと抱き合った。


「藤花、さらばじゃ」

「はい」


 千紫の温もりを感じながら、藤花は笑顔を浮かべて力強く頷く。


 時は来た。今こそ、己れの為すべきことを為さねばならない。


 そのために、九尾と盟約を交わし、愛する者との時を手に入れたのだから。

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