16)産声~藤の花恋~
産声~藤の花恋~(1)
十か月はあっと言う間に過ぎた。
藤花は
その間、兵衛は深芳親子を人の国へと移住させた。
娘の紫月も以前のように端屋敷へは来れなくなる。
兵衛は、姉姫のことについて詳細を伝えずに、「紫月が人の国へ行きたがったから」だと誤魔化しておいた。
これで納得したかどうかは分からなかったが、藤花に余計な心労をかけたくなかった。
風呂は、ふらつく藤花を一人で入らせるのは危ないので、兵衛が一緒に入るようになっていた。
痩せ衰えた彼女の体を抱きかかえる度に、どうしてここまでして出産しなければならないのかと兵衛は思わずにはいられなかった。
ただ毎回、藤花がお腹に手を重ね、「動いておる」と嬉しそうに話すのを見るにつけ、そんな身勝手な思いを口に出すこともできず、一緒に笑うしかなかった。
春の気配を少しずつ感じるようになったある宵の口、兵衛はいつものように藤花の様子を見に寝間へと向かった。臨月に入ってからは、初音が毎日来てくれており、何かと助かっている。
「藤花様、もう夕食の準備ができます」
しかし、戸を開けると、呻き声を上げて布団にうずくまる藤花の姿が飛び込んできた。
「藤花様!」
「兵衛、初音を──」
苦しむ彼女の様子に、兵衛もすぐにその時が来たことを理解する。彼は慌てて初音を呼んだ。
「弟子殿は、至急式神を谷へ飛ばして──、いえ、いっそ、あさ美殿を迎えに行ってくださいませ!」
すぐさま初音が現れ、事前に準備していた奥の間へ藤花を連れていく。そして、そのまま慌ただしく出産の準備を始める。こうなると、もう初音の指示に従うしかない。兵衛は、先に式神を飛ばし、それを追いかけるような形で谷へ向かった。
大急ぎであさ美を連れて戻ってくると、奥の間から陣痛で苦しむ藤花の声が聞こえてきた。始めて聞く藤花の尋常ではない苦しそうな声に、さすがの兵衛も激しく動揺する。
「死んでしまうのではないのか?」
「それは、命がけですから」
あさ美が動ずることなく言ってのけ、「先生はここでじっとしていてください」と言い残して寝間へと向かった。
兵衛は、じっとすることもできず、かと言って何か手伝える訳もなく、ひたすら居間で立ったり座ったりを繰り返した。
藤花の苦しむ声は、ただひたすら続く。
奥の間では、
「さあ、藤花様。もうひと踏ん張りにございますよ。お子が下りてきております!」
「陣痛が来たら、それに合わせていきんでください!」
初音とあさ美が元気よく藤花に声をかける。藤花が疲労と苦痛で顔を歪めながらも、彼女たちに笑って応えた。
出産は激しい痛みが波のように襲ってくる。その長い痛みに耐え、産道が開いて子供が下りてくると、陣痛の間隔はさらに短くなり、例えようのない圧力が下腹部にかかる。
母親は、その痛みの波に寄り添うようにお腹に力を入れて、子供を外の世界へと促すのだ。
長い夜が終わり、東の空が白み始めた頃、
その声を聞いて、居間で待ち続けた兵衛は思わず立ち上がる。そして、大きく息をつくと、その場にどかりと座り込んだ。
しばらくして、あさ美が頬を紅潮させながら居間に現れた。
「元気な姫君です」
「藤花様は?」
「心配ございません」
奥の間では、赤ん坊を取り上げた初音が、その子を産湯に浸からせていた。頭にある一本の角と真っ白い雪のような肌は藤花から譲り受けたものだろう。そして、臀部には尻尾がひょろりと付いていた。
そこへ兵衛に一報を伝え終えたあさ美が、部屋に戻ってきた。
「まあ、尻尾ですか?」
「ええ。でもこれは、少々残念ですが、切ってしまいましょう」
初音が
「心配ございません。赤子のうちに切ってしまえば、
そして初音が、さっと懐から短刀を取り出し、一気に尾を切り落とす。
「あさ美殿」
「はい」
あさ美が切り落とされた尾を受け取って、さらしに包んで組み紐で封をする。初音は、別のさらしで赤子を包んだ。あさ美が谷の神社で清めてきたさらしだ。尾を切られ、ぎゃんぎゃんと泣いていた赤ん坊の機嫌が少しだけ直った。
あさ美と初音が、愛らしい赤ん坊を見て顔を
「目元は藤花様にそっくりですね」
「あらまあ、口をへの字に曲げて。これは藤花様ではなく──」
二人が顔を見合わせ笑いあった。
「藤花様、よく踏ん張られました」
「……あさ美、初音、ありがとう。礼を言う」
「さあ、後の始末をいたしましょう」
言って初音が赤ん坊を藤花の胸の上に乗せる。赤ん坊がもぞもぞと首を動かし乳を探す仕草を見せた。肌に感じる小さな命の温もり。
なんと愛おしく、尊い存在か。
震える手をそっと赤ん坊に添えて、藤花は溢れる喜びを噛みしめた。
二日後、兵衛からの報を受け、千紫が密かに
藤花は出産の疲れもあり、乳やり以外はずっと寝て過ごしている。産後の状態は決して良いとは言えず、客間まで挨拶に出てくることはできなかった。
しばらくして、紅梅柄のおくるみに包まれた赤ん坊が初音に抱かれてやってきた。初音が上座で待つ千紫に赤ん坊を渡すと、千紫は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「なんと愛らしい」
「……奥の方様、」
傍らに控えた初音が、遠慮がちに千紫に声をかけた。千紫が「なんぞ?」と眉を上げて首を傾げる。初音は、横目で兵衛を気にしつつ、両手をついて軽く頭を下げた。
「藤花様から、奥の方様より名を授かりたいと
「名か」
「はい」
千紫は少し考え込む。ややして、赤ん坊を見つめながら千紫が答えた。
「──伊万里と」
「伊万里?」
「人の国にある美しい器の名前じゃ」
千紫が言った。
「目元が母親によう似ておる。いずれ華やかで美しい娘に育つであろう。この子は器じゃ。すべてを受け入れる、美しい器」
赤ん坊がふにゃふにゃとあくびを一つする。
千紫は腕の中の赤子に笑いかけた。そして彼女は、優雅な、それでいて鋭い視線を兵衛に向けた。
「狐の谷に差し出す娘じゃ。恥ずかしくないよう育てよ。当然ながら、虫がつくなど言語道断。この子は、藤の花のようにゆらゆらと自由に揺れてもらっては困る。のう、兵衛?」
兵衛が視線を落とし、軽く頭を下げる。千紫は赤ん坊を初音に返すと、満足そうに立ち上がった。
「伊万里の父親は、世話役の男とでもしておけ。どこの誰かも分からぬというのは、さすがに聞こえが悪い」
「はい」
「今日からこの
兵衛と初音は緊張した面持ちで頭を下げる。それを確認してから、千紫はくるりと踵を返した。兵衛は、とっさにその背中に声をかけた。
「藤花様にお会いにはならないので?」
「……いい」
振り返ることもなく千紫が答えた。
「伝えたいことは全て伝えた。もう会う必要もない」
そして彼女は凛然とした面持ちで去っていった。
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