産声~藤の花恋~(2)
伊万里という名の姫君が生まれてから七日が経った。
藤花は、なんとか立って歩けるようにまで回復していた。そして今日は、彼女の出立の日である。
その日は、朝から
人の国へ行くのだ。どうせ、全てをあちらで買い揃えることになるだろうと兵衛は思っていた。
用意されたのは質素な
従者は若い六洞衆の二つ鬼一人だけだ。この従者にしても、
しばらくして、支度が整った藤花が門前に現れた。
艶やかな藤の小袖を着て、豊かな黒髪を後ろで束ね、ガラス細工の藤のかんざしを差している。このかんざしは、三百年たった今でも藤花の一番の宝物だ。
「人の国へ着いたら新しいものを買いましょう」
古びたかんざしを見て兵衛が声をかけると、藤花は「何を言う」と顔をしかめた。
「これが良いのじゃ。新しいものなどいらぬ」
そして彼女は、伊万里を抱いている初音を振り返った。
「初音、後は頼む」
「藤花様、どうか……」
初音が声を詰まらせ泣き始める。藤花は苦笑した。
「初音、伊万里を二代目様が惚れ込むような姫君にしておくれ」
「はい」
次に、重丸を見る。
「重丸、長きにわたり夫婦ともども世話になった」
重丸が厳しい顔で無言のまま頭を下げた。
最後に、藤花は伊万里と初音を一緒に抱き締め、愛娘の頬に口づけた。
「強く美しい
別れを惜しむ二人に兵衛が優しく声をかける。
「藤花様、そろそろよろしいですか?」
「うむ」
冬の終わりを感じさせる空気が
藤花は、ゆっくりと門の外へ足を踏み出した。幽閉されてから実に三百年ぶりの門外である。
「……」
地面の感触を確かめて、ふと空を見上げる。白い雲が筋のようにたなびいている空は、さっきと同じはずなのに、どこまでも広がり果てしない。
「藤花様?」
「少し、怖いの」
藤花がぽつりと呟いた。兵衛が笑いながら藤花の手を取り、網代車へと促した。
「なんの心配もありません。猿がお守りいたします」
「うむ」
藤花が車に乗り込む。
「兵衛、どこの筋を使うのか?」
東の山に入り、端屋敷もずいぶんと遠くなってから、車の中から藤花の声がした。車と並んで歩いていた兵衛がすかさず答える。
「東の山に新しい
「北山の筋は?」
「あそこはもう古くなって本筋は使えません。篠平の狐が脇筋を使っているようですが、」
「そうか」
と、その時。端屋敷の方角からドオンッという爆発音が聞こえた。
「なんだ?!」
思わず立ち止まり振り返れば、遠くの空に黒煙が上がっているのが見えた。
「あれは──?!」
「何事じゃ?」
車から不安げな様子で藤花が出てきた。そして、端屋敷の方角に煙が上がっていることに気がつくと、彼女は真っ青になった。
「兵衛、あれは端屋敷の方角じゃ」
まさか、自分と藤花がいなくなる機会を狙っていたのか? しかし、屋敷には重丸も初音もいる。
冷静に状況を判断しようとする兵衛に、藤花がすがり付いた。
「伊万里が──! 兵衛、屋敷へ戻れ!!」
「しかし──」
兵衛は躊躇する。ここに藤花を一人置いていくことも危険だからだ。
とは言え、一緒に連れて戻るには遠すぎる。
刹那、二つ目の爆発音が。
「兵衛、早くせよ!」
もう一刻の猶予もない。しかしそれでも
「私は大丈夫。ここで動かず待っておる。
「分かりました。すぐに戻ってきます。待っていてください」
兵衛は、随行している六洞衆の若鬼に向かって言った。
「しばらくの間、藤花様を頼む」
「は、」
そして再び藤花に目を向ける。
藤花がこくりと頷いて満面の笑みを見せた。彼女の細い指が兵衛の頬を優しく撫でる。
「兵衛、なんの心配もない。伊万里を頼む」
彼は力強く頷き返すと、端屋敷に向かって走り始めた。
兵衛は、もと来た道を大急ぎでとって返した。木々の間をすり抜け、森の中を駆け抜ける。あっという間に通い慣れた山道に出て、兵衛は端屋敷へと辿り着いた。
いつもと変わらない静けさが端屋敷を包んでいた。その、いつもと変わらない感じが、かえって兵衛を不安にさせる。
さっきの聞こえた爆発音は嘘のようで、上がっていた煙も今はもう見あたらない。
「重丸! 初音!」
兵衛は、門をくぐって大声で叫んだ。焦燥に駆られる気持ちを押さえながら庭へとまわる。
と、
重丸と初音が、庭先の縁側ですやすやと眠る伊万里を囲んで笑っていた。
「重丸……、初音?」
息を弾ませ現れた兵衛に気づき、二人はぱっと顔を上げる。重丸と初音の顔から、すっと笑顔が消えた。
「兵衛、よくぞ戻ってきた」
「……え?」
状況が見えず、兵衛は思わず周囲を見回した。
まるで夢の中に迷い込んだようだった。そんな戸惑う彼に対して初音が静かに告げた。
「鬼伯が藤花様の処分をお決めになりました」
「…………な──に?」
「奥の方様の再三の進言も及ばず、先の鬼伯の娘である藤花様を生かして野に放つことまかりならぬと、」
馬鹿な。
兵衛はとっさに踵を返した。しかし、そこに重丸が回り込んで立ちはだかった。
「おまえはもう、行ってはならぬ」
「どけ、重丸!……森の中へ一人置いてきたのだ。早く行かないと──!」
「きっともう、お発ちになりましたでしょう」
背後で、初音の静かな声が響いた。兵衛は初音を振り返る。
初音が伏し目がちに視線をさ迷わせ口を開いた。
「伯の決定は、藤花様自身、すでにご存じのことでございます。藤花様からは、このことを弟子殿に言ってはならぬと、きつく仰せつかっておりました」
「どこへ──行くというのだ……」
「……」
「初音!!」
「しかるべき所までは
兵衛の質問には全く答えず一方的に説明し、そして彼女は、懐から綺麗に折り畳まれた信書を取り出した。
「藤花様から弟子殿へ手紙を預かっております。姫様の最期のお言葉でございます」
言って兵衛に差し出す。震える手で彼はそれを受け取ると、急いで中を確かめた。
そこには、藤花の文字で短い言葉がしたためられていた。
「私を追ってはならぬ
誰も恨んではならぬ
ただ ひたすら子を思い 育てよ」
次の瞬間、兵衛は身を翻した。重丸が瞬時に動き、体を掴んで彼を止める。
「行くな、兵衛!」
「放せっ! 藤花様をお守りする!!」
「もう間に合わぬ!」
「行ってみないと分からんではないかっ」
「赤子を──伊万里姫をお一人にするつもりか!! 藤花様が命がけでお産みになった子ぞ!!」
兵衛の動きがぴたりと止まった。折しも、伊万里が大声で泣き出した。初音が慌てて伊万里をあやす。
重丸が、その大きな瞳で兵衛を真っ直ぐに見据えた。
「もう、誰にも覆すことができんのだ。子のため、おまえのため、全てを背負われ
呆然とした顔で兵衛がその場に膝をつく。
あらためて彼女の手紙を読み返す。そして彼は、手紙をくしゃりと握りしめ、地の底にまで響くような
兵衛が長い生涯の中で、涙を見せたのはただの二回。その最後の一回がこの時であると、分かる者はもう誰もいなかった。
* * * * *
月夜の里にも春が来る。
藤花が屋敷からいなくなって、もう一月が経っていた。
東の端屋敷の縁側では、愛らしい赤ん坊の声が鳴り響いている。
「どうした?」
兵衛が乳母に声をかけると、彼女は困った様子で首を傾げた。
「何をしても泣き止みませぬ」
「貸してみろ」
兵衛が乳母から伊万里を受け取る。庭先に出て、花を付け始めた木々を見せ彼女をあやす。彼の腕にすっぽり収まった愛らしい姫は、ようやく少し泣き止んだ。
ふいに門前の方から、若い女が姿を見せる。この屋敷に誰かが訪れること自体が珍しい。誰だろうと思い兵衛が目を向けると、里中の娘に扮した千紫だった。
兵衛は、固く真一文字に口を結んだまま視線を伏せるだけの挨拶をした。千紫が静かに兵衛の傍らに歩み寄り、ふにゃふにゃとむずがる伊万里の顔を覗いて笑った。
しかし、その笑顔は
「兵衛、藤花の行方が分かったぞえ」
「……いずこに?」
「人の国、篠平は
兵衛の頬がぴくりと動く。しかし彼はそれ以上表情を変えることはなかった。千紫が静かに目を伏せ、そして、震える声を絞り出した。
「山藤の実を胸に抱き、最期は自ら命を絶ったと」
そよそよと風が吹き、優しく頬を撫でた。柔らかな静寂が二人を包む。
兵衛はまぶたを固く閉じた。
目に浮かぶのは艶やかに笑う藤花の姿のみ。きっと最期も笑って
そして彼は、ひとしきり千紫の言葉を噛みしめた後、ゆっくりとまぶたを開いた。その鳶色の瞳には、もう悲しみも迷いもない。
「あの若造を──、伯子を早く儂の元へ連れてこい」
兵衛は千紫に言った。
「真の鬼伯に
「相分かった」
千紫が小さく頷く。そして、彼女はぽつりと付け加えた。
「……誰の仕業かは聞かぬのだな」
「聞いたところで、」
兵衛が感情のない声で吐き捨てた。
「聞けばきっと殺したくなる。ならば、何も知らない方がいい」
「まったく、その通りだ」
千紫が悔しそうに視線を落とす。彼女もまた、煮えたぎる怒りを腹に納めた一人だった。
大いなる霊気で満ちあふれる豊穣の地、阿の国・北の領。時に優しく、時に残酷に、誰もが生を謳歌し、力強く生きている。
艶やかに咲き誇る花は、新たな命を実らせ、そして散っていく。残された者は、その美しい面影を心の奥にしのばせて、何事もなかったかのように生きていくだけである。
十六年後、藤花の娘は二代目九尾の花嫁として狐の谷へ輿入れする。そしてそれは、また別の物語。
「第1話 藤の花恋」 了 2022.1.8
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