子、宿る(2)

 紫月は小さい頃から端屋敷はやしきに通っていたこともあり、大きくなってからもよく遊びに来ていた。


 藤花が彼女のことを自由にさせていて、窮屈な屋敷よりよほどゆっくりできるのだろう。当然、兵衛とも親しくなり、彼女は兵衛のことを「先生」と呼んでいる。


 確かに、紫月にとって兵衛は、人の国の珍しいこと、目新しいことを教えてくれる先生だ。人の国の本もよく読む彼女は、普段の言葉遣いはすっかり今風となっていた。


「葵が先生に会いたいって言うから、ここで待つことにしたの」

「なら、待っていれば良いでしょう。わざわざ乳繰ちちくり合う必要がどこに?」

「兵衛、若い娘に向かってそのような下世話な言い方を。いい加減にせよ!」

「と言われましても、若い娘の行動とは思えませんでしたので」


 兵衛も長年の気安さから、ついつい横柄な態度になる。そもそも、色声を聞かれて平然としているなど、年頃の娘としてどうなのかと思ってしまう。


 藤花がここで好きにさせているから、母親譲りの慎ましやかな容貌とは反して、こんなあっけらかんとした性格になったのだと、兵衛は嘆息した。


 いずれにしても、今日は目の前の若者と何かを語る気は削げた。

 兵衛は碧霧に向き直ると、あらたまった顔で言った。


「今日は何かと日が悪い。話があるのであれば、次の機会に話しましょう。今日はもうお帰りを」


 穏やかではあるが、有無を言わせない口調で言うと、碧霧は神妙な顔つきで立ち上がり頭を下げた。


「今日は失礼いたしました。お許しください」


 兵衛が黙ったまま頷き返すと、彼はきゅっと口を結び直した。

 そして踵を返して、その場を後にする。紫月が慌てて彼を追いかけた。


「葵、待って。昔から気難しいの。私からも謝っておくから気を悪くしないで」

「いや、悪いのは俺だから」


 なるほど、普段は紫月と同じようにあんな風に喋るのか。


 伯子と言えど、今時の若者らしい。兵衛からすれば、年齢もまだ百に達していない二人は、見た目も人でいうところの二十半ばあたりで子供のようだ。


 あの頃は自分もあんな風に頼りなく見えていたのだろうかと思いながら、その後ろ姿を見送っていると、藤花がやれやれと嘆息した。


「碧霧様は、千紫様に似て、志高く聡明な御方じゃ。旺知あきともには欠片かけらも似ておらぬ」

「説得力がありません。紫月様が招いたとは言え、他の家で堂々と事に及ぶなど、神経を疑います」

「そこは紫月に惚れ込んでおるからの。良いではないか、そもそも私が許しておる」

「そういう問題ではありません」


 兵衛はふんと鼻を鳴らして藤花の言葉を一蹴した。しかし、内心では碧霧と話せなかったことを少し残念に思っていた。


 旺知あきともが鬼伯となり、もう三百年近くが経とうとしている。その間、彼の伯座を脅かす者は現れてはいない。しかし、強さだけを求めたまつりごとは、北の領を疲弊させ、ここを離れるあやかしも多い。


 気に入らなければ、ここを去るだけ──。


 かつて千紫が言った言葉を思い出す。

 それに加え、ここ最近では御座所おわすところの情勢も少しずつ変化してきていた。それが息子である碧霧の存在だ。


 有望な後継ぎと言えば聞こえが良いが、伯子・碧霧が成長するにつれ、父と子で意見の違いが出てくるようになっていた。碧霧は千紫の厳しい教育を受け、武は重丸から学び、まるで伯座に就くために生まれたきたような存在だと言われていた。


 特に、重丸をはじめとした六洞りくどう衆は、碧霧を慕う者も多い。口添えをしてきても従順な妻とは違い、何かにつけて意見をしてくる息子を鬼伯は煙たがっているという噂も聞く。


 あの千紫が手塩にかけて育てた息子がいかなる者か、少なからず興味があった。しかし、下手に関わって月夜つくよの政争に巻き込まれるようなこともしたくない。自分はあくまでも人の国の者だ。


 そんなわけで、兵衛は鬼伯親子の状況を外側からじっと静観していた。どちらにせよ、今日の碧霧の印象は最悪だが。


 ふと藤花が体をぽすんと寄せてきた。兵衛は、急に甘えてきたのかと彼女の顔を覗く。すると、藤花の顔が真っ青になっていた。


「どうされました」

「饅頭を食べ過ぎた。胸が悪い」

「食べ過ぎたって──、どれだけ食べたのですか?」

「十個……」


 言って彼女はうっとえずいた。


「藤花様っ」


 兵衛は藤花をかかえ、慌てて背中をさすった。


「大丈夫ですか? 気持ちが悪いのなら吐いてください」

仔細しさいない」


 そう答える声は弱々しい。兵衛は藤花を抱き上げた。


「部屋で横になってください。今、初音を呼びます」

「うむ」

「初音っ、来てくれ」


 端屋敷がにわかに騒がしくなった。




 初音がすぐに寝間に布団を敷いてくれ、兵衛は藤花を寝かしつけた。基本的にあやかしは病いにかかることが少ない。仮にかかったとしてもすぐに治る。


 あまり心配する必要はないが、それでも目の前で苦しそうにされると心配になる。


「なぜ、饅頭を十個も──」

「うまかったから……」


 すると、初音が「違います」と否定した。


「最近、甘い物を特にお好みになり、食べる物が偏りがちに。一人の時は、魚や肉はほとんど食べていないようで」

「力がつかんではないか」

「そうは言っても、無理に食べてもこのように胸が悪くなるらしく、」

「では、好きで食べていた饅頭でなぜ胸が悪くなる?」

「……兵衛、落ち着きやれ。初音を責めるな。少し寝ていれば楽になる」


 藤花がうるさそうに顔をしかめ、吐息混じりに兵衛に言った。彼女にたしなめられ、兵衛はむうっと口をつぐむ。決して納得している顔ではない。

 藤花は、そんな兵衛に向かって笑顔を作った。


「こんな時もある。心配するな」


 すると、「どうしたの?」と碧霧を見送り終えた紫月が吽助うんすけとともに部屋に現れた。吽助はこの端屋敷はやしきの狛犬だが、すっかり紫月になついて、紫月の狛犬になっている。


「ご気分でも悪いの? 叔母様」


 紫月が心配顔で藤花を見た。藤花が「大丈夫」と笑顔を返す。


「紫月、何か歌っておくれ。おまえの声を聞くと、体が楽になる」

「ええ、そのくらいいいけれど。何がいいかな……」

「ひとまず、恋する乙女の気持ちでも歌いやれ」


 藤花が茶化し気味に言うと、紫月が「ええ?」と顔を赤らめた。そして恥ずかしそうに笑いつつ、それでも小さく咳払いをして歌を披露するために居ずまいを正した。


「では、」


 紫月が歌い始める。独特の抑揚をつけた調子に、瑞々しい声がのる。春の、咲き誇る花たちの喜びが直接伝わってくるような月詞つきこと──。体の奥がじんわりと暖かくなり、胸の苦しさが少し和らぐ。


 紫月の歌声を聞きつつ、藤花は深い眠りに落ちた。




 不思議な夢を見た。

 淡い光に満たされた空間に藤花は立っていた。ここはどこだろうと辺りを見回す。

 すると、少し離れた場所に乳白色の薄絹うすぎぬまとった少女が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。


 おまえは誰か、そう尋ねようと藤花が口を開きかけた時、少女が先に口を開いた。


「お別れを言いに来ました」

「お別れを……?」


 初めて会ったというのに不思議なことを言う。藤花は少女に尋ねた。


「おまえは誰か」

「私は、荒ぶるやいばを鎮める者。刃が刃であり続けるため、傷ついたそれを癒す者」

「……焔の、鞘か」


 藤花は驚いた顔で彼女をあらためて見た。鞘にも別の意識があったとは、思ってもいなかった。


「鞘、私と別れどこへ行く?」


 そう問えば、少女は「ふふふ」と嬉しそうに笑った。


「新たに私を引き継ぐ者のところへ」

「新しい宿り主と申すか」


 少女が満足げに目を細めこくりと頷いた。



 はっと藤花は目が覚めた。

 部屋の中は薄暗く、すでに夜になっていた。あのままずっと寝続けていたらしい。向こうの部屋からは、兵衛と初音の話し声が聞こえる。


 今のは、夢?


 確かに夢だった。藤花は少女とのやり取りを頭の中でゆっくりと反すうする。そして、彼女は一人、お腹に両手を当てて笑った。

 体の奥から喜びが満ちてくる。


 宿った──。


 それは、直感というより、確信に近かった。

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