14)子、宿る

子、宿る(1)

 春、新緑の香りに包まれた端屋敷はやしきの前で、兵衛はあ然と立ち尽くしていた。


 現代人の格好もすっかり板につき、彼のシャツのポケットには二つ折の携帯電話なんかも入っている。この人間が産み出した文明の利器は、万人ばんにんが使えるあたり、式神を飛ばすよりもずっと便利だ。ただし、ここ阿の国では、当然ながら圏外なので使うことはできないが。


 あやかしに比べ、短命な人間たちの進化は目覚ましい。人の国では、先の大戦も終わり、再び太平の世が訪れていた。今は、民主主義とかいう机上の空論のようなシステムで人の世の中は回っていて、大量にモノが作られ、そして捨てられる。ともすれば、ヒトさえも使い捨てだ。


 阿の国は、変わらない。その長寿ゆえの執着のなさと変化を嫌う気質から。ただそれでも、兵衛のような現代風のあやかしの姿もそこそこ増えた。変化は嫌うが、影響を受けない訳ではない。人という非力であるはずの存在の、影響力の大きさを知る。


 一方、端屋敷は三百年近く経とうというのに当時のままだ。月夜つきよの里は東の外れで、女主人を静かに囲っている──のはずだが、今日は少々違った。


 離れから聞こえてくるのは、間違いなく男女の色事の声。声色から、聞き慣れた女主人のそれではないとすぐに分かったが、「では誰が?」と混乱した。


 事の始まりは、里中での噂。またしても藤花の色事に関する噂だ。三百年の時を経ても、端屋敷の姫の噂は健在で、ここまで来ると、他に話題がないのかと怒りを通り越して情けなささえ覚える。


 今回の噂は「端屋敷の姫が、昼日中ひるひなかから男を引き入れて喜悦に興じている」というものだ。しかも屋敷近くを通った者の話だと、実際にその嬌声きょうせいを聞いたという。何がどうして我が姫が、儂以外の男と事に及ばなくてはならんのだと、もう少しで噂をしている男を斬りそうになった。


 しかし今、端屋敷を訪れて、噂が真実であることを知らされる。あらためて聞きたくもない声を聞くと、


 この声は──。


 門をくぐり、兵衛は庭から離れへ一直線に向かった。すると、その途中の縁側で、のん気に芋饅頭を食べる藤花と出くわした。


「兵衛、来るなら先に知らせよ」


 昔と変わらない小袖姿で、もぐもぐと口を動かしながら、平然とした口調で彼女は言った。離れからは、さらに高まる甘い声。

 兵衛は顔をひきつらせ藤花を睨んだ。


「ここはいつから逢引宿になったので?」

「ほんの少し場所を貸してやっているだけじゃ」

「止めてきます」

「野暮なことをするでない。可愛らしい声ではないか」


 まあ確かに、瑞々みずみずしく可愛らしい……いやっ、そうではなく!

 思わず納得しそうになるところをぶるりと頭を振るい、再び狙いを離れに定める。そんな兵衛のシャツの袖を藤花がむんずと掴んだ。


「やめよ。いいから座りやれ」

「藤花様!」

「ほれ、ここ」


 藤花が自分の横をぽんぽんと叩く。兵衛は大きく嘆息し、憮然とした顔でどかりとそこに腰を下ろした。


「里中で、藤花様が昼日中ひるひなかから男を引き入れて喜悦に興じているという噂が」

「毎度のことじゃ。いい加減、聞き飽きた。おまえも慣れよ」

「慣れません」


 ぶすっとした顔で言い返すと、藤花は肩をすくめた。


「私を囲って好きにしておるのは兵衛、そなたではないか。自分のことは棚の上かえ?」


 それを言われると痛い。思えば、藤花も良い声で鳴く。あまり意識したことなどなかったが、誰かに聞かれていたかもしれない。

 そう思うと、ここ三百年近くの反省の念が込み上げてきて、兵衛は一人で落ち込んでしまった。


 しばらくすると離れが静かになった。やれやれと兵衛はひと息つく。


「……それにしても、深芳みよし様はこのことをご存知で?」


 兵衛は、離れにいる者が誰であるかを聞くこともなく、藤花に尋ねた。

 この端屋敷はやしきを気軽に使える者など限られている。そして、あの鈴の音ような澄んだ声。声の主は、明らかに藤花の姪である紫月だ。


「姉様か? まあ、知っていよう」

「左様で」


 兵衛はさらに考えを巡らせた。親が公認ということは──、これまた相手が誰か察しがつく。つい数か月ほど前に、紫月が宵臥よいぶしとして床に上がった相手しかいない。

 ただ、なぜこの場所なのかは分からないが。


「奥院には無駄な部屋が腐るほどあるでしょう」

「ゆっくりできぬではないか。そもそも、紫月は者の成旺しげあき様と姉様の間にできた訳ありの子じゃ。他の姫君と違い、公の場にろくに顔を出したことがないと紫月本人も言っていた。無下に扱われることはないだろうが、奥院は何かと窮屈であろう」

「だからと言ってここですか? 屋敷の結界を強化して、相手の男は門を通れなくします」


 藤花が興ざめしたように顔をしかめた。そして、庭に咲く春の野花を眺めながら、ため息混じりに言った。


「思うように会えぬのは、出会った頃の私たちと似ておる」

「私たちは誰かの屋敷にやっかいになってはおりません」

「それは、外で事に及んでいたからの」

「外でって──」


 またまた痛いところを突かれ、兵衛はむすっとして目をそらす。藤花がくすくすと笑った。


「お互い若かったの。ん?」


 確かに、あの頃はいろいろと若かったように思う。長い年月を共に生き、お互いに少しだけとしをとった。笑った彼女の目尻に小さな笑いじわが出来るようになったのはいつの頃からか。自分の顔にもしわが増えた。しかし、それでもなお、藤花の美しさは変わらない。


 兵衛は、すっと目元に指を滑らせた。


「では、たまには外でやりますか?」

「外で?」


 言っておかしそうに笑う藤花の顔はまんざらでもなさそうだ。


 しかし刹那、


 二人の頭の上に、お盆の底が情け容赦なく落ちてきた。がつっと叩かれ、兵衛たちは思わず頭を抱え込む。


「何を年甲斐もなくとち狂ったことを話しておいでか。お二人にまで事に及ばれては、噂の収拾がつきませぬ」


 仁王立ちした初音が、いい加減にしろと言わんばかりの顔で兵衛と藤花を睨んでいた。兵衛は渋い顔で初音を見返した。


「初音、来ていたのか?」

「弟子殿より、私の方がよほどこちらに来ております!」


 ふんっと鼻を鳴らし、初音が空になった皿と茶わんを片付ける。そして、静かになった離れをちらりと見ると、藤花に「後のお世話は姫様がなさいませ」と言い残し、足音も荒く下がっていった。どうやら、初音もこの状況に呆れ返っているらしい。


 藤花が軽く嘆息する。


「お子を二人も育てた母は怖いのう」


 二百年ほど前に「左近」という名の男の子を産んだ初音は、あれから「右近」という名の女の子も産んだ。そして、子供二人が成人してしまった今では、ちょくちょく端屋敷に藤花の世話に来ている。


 するとその時、離れから足音がして、一人の若い二つ鬼が現れた。色素の薄い茶褐色の長い髪を後ろで一つに束ね、女のような綺麗な顔立ちである。しかし、精悍な目元やきゅっと結ばれた口元が決してそうだとは感じさせない。


 彼は、兵衛の姿を見つけると一瞬ぎくりとした顔をしたが、その現代風の格好に目をまたたかせた。


「人の国──。もしや、あなたは猿師えんしか?」

「……いかにも、猿にございます」


 兵衛は、当たり障りのない笑顔を返す。

 こうして言葉を交わすのは初めてである。しかし、目の前の若鬼がどこの誰であるかは一目で分かる。鬼伯・旺知あきともと奥の方・千紫の子、伯子・碧霧あおぎりだ。

 兵衛も遠目にその姿は見たことがあり、紫月とは従姉弟いとこ同士となる。


 兵衛は皮肉げに口の端を歪めて離れに目を向けた。


「このようなあばら家に、わざわざご苦労なことですな」


 碧霧が決まり悪そうに目をそらした。兵衛は小さく鼻を鳴らし、藤花が「いい加減にせよ」と彼を睨んだ。


「私は紫月を見てこよう。碧霧様は、ここで兵衛と話でもしていてくだされ」


 碧霧を半ば強引に座らせて、藤花が立ち上がった。

 藤花が去ると、男二人がぽつんと残された。なんとなく所在のない時間が過ぎる。

 しかし、碧霧が思いきった様子で口を開いた。


「猿師、一度会って話がしたいと思っていました」

「……だが、ここに来たのは儂に会うためではないでしょう?」


 嫌味たっぷりに言い返すと、さらに気まずそうに碧霧は口をつぐんだ。

 いい気味だ、若造が。と兵衛は思う。

 藤花の噂の代償はこんなもんでは済まない。

 すると、鈴の音のような澄んだ声が響いた。


「先生、をいじめないで」


 すっかり美しい姫に成長した紫月が廊下に立っていた。肩の部分だけ鮮やかな鴇色ときいろに染められた白の小袖は、まだまだ初々しい彼女にとても似合っている。

 そして、短く切り揃えられた両側の髪が薄紅に上気した頬にかかり、いつもより艶っぽい。いやはや女になったもんだと、兵衛はしみじみと感じ入る。


 ちなみに「葵」とは碧霧の幼名だ。


「紫月様、お久しぶりです」

「その久しぶりの挨拶が葵に対する嫌味だなんて、あんまりだわ」


 両手を腰にあて、今風の言葉遣いで紫月は言った。

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