端屋敷の日々~姫と猿の三百年~(4)二百と二十二年、冬の歌声

 兵衛は雪にすっぽりと包まれた端屋敷はやしきの前で、ふと足を止める。かつて黒髪を後ろで結び、小袖袴の出で立ちだった男は、髪も短くなり、着ているものもシャツとズボンと外套がいとうという現代風の格好になっていた。


 人の国では、世界中を巻き込んだ大戦の真っ只中、軍国主義が世の中を支配し、多くの人の命が国のために散っていっている。

 そんな人の国とは対照的に、二百年を過ぎても端屋敷は当時のままだ。正確には、二百と二十二年。今なお、月夜つきよの里は東の外れに、静かにひっそり佇んでいる。


 ただ今日は、庭先から可愛らしい歌声が聞こえた。独特の抑揚をつけた歌声に呼応し、屋敷を包む空気が震える。


 これは、月詞つきこと──。


 兵衛は驚いた。ここ二百年以上、藤花の月詞以外、彼は聞いたことがないからだ。いや、月夜つくよの里には、藤花以外に月詞を歌える者がもうおらず、月詞つきことは忘れ去られた歌となりつつある。

 しかし、庭先から聞こえてくるのは紛れもなく月詞である。


 兵衛は門をくぐり、積もった雪を掻き分けながら庭へと向かった。すると、縁側で見慣れない一つ鬼の少女が、藤花と狛犬の吽助うんすけに挟まれるように座っていた。


「兵衛、来たのかえ? 来るなら先に知らせよ」


 兵衛に気づいた藤花が、昔と変わらない小袖姿、いつも変わらない笑顔で彼を迎えた。

 少女はふっと歌うのをやめて、隠れるように吽助うんすけに身を寄せる。年の頃は十歳前後と言ったところだろうか。


 真っ直ぐな黒髪が肩のあたりで揺れ、その肌は雪のように白い。頬だけがうっすら赤く色づいて、まるで人形のような愛らしさだ。


 これはまた、なんと美しい姫君か。


 内心そう思いながら、兵衛は誰とも分からない少女に頭を下げた。少女は、見慣れない格好の兵衛の姿を上から下まで眺め回して、それから藤花にぽつりと言った。


「……外国とつくにの者?」


 鈴の音ような声だ。藤花が「そうじゃ」と笑顔で答える。


「こやつは、人の国の猿じゃ。人の国では、今はこのような格好が普通らしいぞ」


 少女が再び兵衛の格好を凝視する。兵衛は思わず苦笑した。


「藤花様、こちらは?」


 すると藤花が少女を促した。


「兵衛に挨拶を」

「……紫月と、申します」


 たどたどしい言葉遣いで少女が挨拶する。「紫月様、」と兵衛が繰り返すと、藤花が頷いた。


「姉様の子じゃ」


 兵衛はさらに驚いた。


 藤花の姉である深芳みよしが、旺知の兄の側妻そばめとなったことは彼女から聞いて知っていた。

 しかし、この事実を知る者は少なく、どこかの隠れ家で端女はしためのような扱いを受けていると噂されていた。


 月に一度、どこからか座敷牢に現れては義兄の世話をしていく。その姿からは里一と謳われた奥院の美姫の面影は消えて、正真正銘の端女はしためのようだったとも聞く。


 そして、その清影も今はもういない。誰にも看取られず、座敷牢でひっそりとこの世を去った。かつて伯子だった男の寂しい最期だった。深芳が身籠みごもったことを風の噂で聞いたのは、ちょうど同じ頃だ。


 深芳の懐妊に引きずられるような形で、旺知の兄・成旺しげあきの存在もおおやけのものとなった。

 彼はなし者である。なし者はゆえに、まつりごとの表に立つことも、正妻をめとることもない。子をなしたと聞いて、果たしてそれは望んだ子であったのかと、兵衛は思っていた。


「お名前は、深芳様がお付けになられたので?」


 兵衛が尋ねると、紫月はふるふると首を振った。


「奥の方様からいただきました」


 やはり。

 自らの「紫」の一字と月夜の「月」を名として与えるあたり、千紫の思い入れが感じられた。しかも、藤花に月詞つきことを習わせるなど、この娘に何をさせるつもりなのか。

 千紫は不思議な女で、冷徹な聡明さと不条理な情の厚さをあわせ持つ。紫月に対する思いは、冷徹か不条理かのどちらだろうと兵衛は思った。


 そんな兵衛の気持ちを察したのか、藤花が弁解するように彼に言った。


月詞つきことを、誰に教わるでもなく突然歌ったそうな」

「突然?……そんなものなのですか?」

「まさか」


 藤花が苦笑する。そして、彼女は紫月の黒髪を優しく撫でた。


「それで慌てた姉様が、私のところに紫月をよこしたのじゃ。今日、初めて歌を聞かせてもらったが──、この子はあらゆる気と同調するがある。もしかしたら、天地あまつち御詞みことを歌うやもしれぬの」

「……」


 天地あまつち御詞みこと、もはや幻となっている大地讃頌さんしょうの歌。


「叔母様、吽助うんすけと遊んできてもいい?」

「もちろん、好きに遊んで来やれ」

吽助うんすけ、行こう」


 阿丸より気難しい吽助うんすけが、鈴の音のような声に誘われ立ち上がる。変化がないように見えて、それでも少しずつ何かが変わっていく。

 藤花も同じことを感じていたらしい。


「少しずつ何かが変わり、少しずつ次に引き継がれていくの」


 吽助とじゃれ合いながら走っていく紫月を嬉しそうに眺めながら藤花が呟いた。




 夕刻、深芳の使いが迎えに来て、紫月は帰っていった。

 今日も兵衛と二人きりの夕食だ。そこに不満があるわけではないが、今日だけは紫月がいてくれたら少し賑やかだったのにと、藤花は残念に思う。


「姉様たちは何を考えておいでやら」


 夕食、ごはんを口に運びながら藤花はぼやく。

 姉からの短い手紙には、「今後、定期的に紫月を端屋敷に通わせる」と書いてあった。

 そして、それが内密であることは紫月の口から聞いた。仕方のないことではあるが、余計なことは一切書いていない手紙に若干の寂しさを感じる。


 深芳と会うことは当然ながら許されず、千紫もこの端屋敷を訪れたことはない。二人の意思を確認するすべがなく、それが歯がゆかった。


「今では、兄・成旺しげあきの存在も公のものとなり、側妻そばめとは言え、深芳様は以前よりずっと身が保証されております。紫月様も、そう雑な扱いを受けますまい」

「しかし、紫月に聞けば、月詞つきことを歌うことを禁じられているとか。せめて、ここでは自由に過ごさせてやりたい」


 小さな姫が端屋敷に通うようになることに嬉しさを覚えつつ、それが内密であることに引っ掛かりも覚える。とは言え、現在の里や御座所おわすところの状況も、姉の立場も分からない以上、自分は従うしかない。


 夜も更けてくると一層冷えてきた。早々に寝支度をして共に床に入り、兵衛と二人、互いの肌を温め合った。ただ今日は、少しだけ乱れてみた。


「どう、されました?」


 いつもと様子の違う藤花に触発されたのか、兵衛も普段より熱っぽく藤花を責め立てた。そして、彼の熱いものが体に入ってくると、藤花はさらに淫らな声で喘いだ。


「兵衛、」


 眩むような絶頂に思わず兵衛にしがみつく。体中が彼で満たされていくのが分かる。

 藤花は兵衛の逞しい首筋を噛むと、はっきりとその耳元で囁いた。


「子が、欲しい……」


 こんなにも愛されているのに。私だけできないなんて、不公平だ。


「藤花様、」


 兵衛が戸惑った様子で体を起こす。藤花は、乞うように彼を見つめた。


「もっと抱いて」

「体が壊れます」

「壊れてもいい」


 思わずそう返せば、兵衛は困った顔で笑い返した。


「抱けばできるというわけではありません」

「では、どうすればできる?」


 兵衛が無言で藤花の体を起こして抱き締める。

 まだ先程の余韻が残る体は、冬だというのにしっとりと汗ばんでいる。正直、何度でも抱いていたいと兵衛は思う。


 しかし、今夜はこれでしまいだ。これ以上は、何も満たされず、藤花の心が傷つくだけでしかない。


「今度、人の国の珍しいおもちゃでも紫月様に買って来ましょう」


 ひとまずそう言って、頭上の角に口づける。藤花は納得のいかない顔でふいっと兵衛から目をそらした。

 困ったな。

 それで兵衛が次の言葉を思案していると、藤花がぽつりと呟いた。


「……おもちゃは、長く使えるものを」

「は。長くですか?」


 兵衛が聞き返すと、彼女はこくりと頷いた。


「紫月の後、私の子にも使う」


 まるで姫を産むことを決めているような口振りだ。愛おしさが胸の奥からどうしようもなく込み上げる。


「藤花様、お子はまだその時ではないのでしょう」


 彼は言った。そして、あらためて愛しい姫を抱き締める。


「授かるべき時に必ずや授かります」

「他人事のように言う」


 小さく吹き出し、藤花が頭をことりと兵衛に預けた。


「兵衛、」

「はい」

「何だかんだと、長いこと一緒におるの」

「これからも一緒です」


 外では雪がしんしんと降り始めた。夜空から舞い散る白が、優しく端屋敷はやしきを包んだ。

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