宵臥の姫(6)

 男の姿が見えなくなって、千紫は大きく息をついた。

 半分は本当で、半分ははったりだ。これは本当に妻にしてもらわないといけないなと千紫は思った。


 そして庭に降りると、地面に丸まってうずくまる下女に声をかけた。


「大丈夫かえ?」


 女がのろのろと顔を上げた。頬に赤黒いあざができていた。


「怪我をしておる」

「大丈夫です。明日にもなれば元通りになります」

「まあ、そうかもしれぬが……」


 藤花と同じ年の頃と思われる女の顔は、とりわけ美人というわけでもないが、しっかりとした顔立ちは愚鈍な女には見えない。

 何より、昨日から千紫の世話を彼女はしてくれている。てきぱきとした働きぶりは、千紫自身が知っている。


「名は?」

「ハルと言います」

「ではハル、どうして使いが遅くなったのか?」


 先ほどの暴力は咎められてしかるべきであるが、だからと言ってハルの怠慢が許されるわけではない。

 すると、ハルは少し言いよどみながら、それでもしっかりとした口調で答えた。


「帰りに、里中の仲間に会いに行っていました」

「里中の仲間とは?」

「この屋敷に連れて来られる前に一緒に暮らしていた仲間です」

「……」


 なるほど、孤児か。千紫は、ただ静かに頷いた。

 阿の国では、孤児はさして珍しい存在でもない。種を繋ぐ発想がなく、子を産みっぱなしの輩も多い。人の国の文化や人間の暮らしを真似ているのは、上級のあやかしのみである。


「どうして、旺知あきとも様に連れて来られたのか」

「それは……」


 ハルが上目遣いにちらりと千紫を見た。


「私が……遊女あそびめだからです」

「遊女、」

「いえっ、でも──! 今は見向きもされず、ただの下女です。私も、こちらの方が気が楽で、給金も里中で体を売るよりは……だから……」

「よい、別に気にしておらぬ」


 旺知の色事については、呆れはしても怒りは感じない。

 それより、この女は解放されたのかと、千紫は羨ましくさえあった。


「仲間に会いに行ったということは、里中に戻りたいのか?」

「いえ、ここで下女として働けば食べるものにも困らないし、給金ももらえます。里中の仲間に会いに行ったのは、貯めた金子を渡すためです」

「仲間の暮らしのためか」

「はい」


 血が繋がらず仲間と呼んではいるが、きっと家族のようなものなのだろう。自由気ままに生きてはいても、そこに情がないわけではない。阿の国とは、そういう国なのだ。


「ハル、今度は私の使いで行っておくれ。そうすれば、里中でもっとゆっくりできるであろう」


 ハルの顔がぱっと明るくなり、彼女は嬉しそうに頭を下げた。千紫はにっこり笑いながらも、含みのある目でハルを見返した。


「その代わり、少し聞きたいことがある」


 ハルが「なんでしょう?」と首を傾げた。




 その日、千紫は結局帰してもらえず、そのまま夕餉ゆうげを自室で食べて夜となった。そして、昨日と同じ時分にハルが寝間着を持って現れた。


「今夜の御召し物にございます」

「ありがとう。着替えは自分でするからよい」

「分かりました」

旺知あきとも様の今日のご様子は?」

「はい、いつも通りにございます」


 ハルが手短に答え、一礼とともに部屋を出ていった。千紫は大きな深呼吸を一つする。また、あの男と対峙する夜が来た。


 夜も更けてしばらくすると、千紫の待つ寝間に足音が近づいてきた。足音が部屋の前でぴたりと止まり、障子戸が大きく開く。

 それに合わせて千紫は両手をつくと、現れた主人に対し深々と頭を下げた。


「おかえりなさいませ」

「ふむ、今日は何をしていた?」


 旺知あきともが傍らにどかりと座り、千紫を抱き寄せた。その手が彼女の腰紐にかかり、固く結んであった紐がするりと緩んだ。


「昨日お聞きした約束事を書き留めておりました」


 はだけた胸元をさりげなく掴みながら千紫は慎重に答える。

 本当ならすぐにでも家に帰せと詰め寄りたい。しかし、昨日のような真っ向から挑むような真似はしないと、千紫は心に誓っていた。


 昼間、ハルから旺知あきとものことをいろいろと聞き出した。夜の相手をしていたことがあるのなら、彼の気性も少なからず分かっているはずだと思ったからだ。そうしてハルから話を聞いて千紫が出した結論は、とにかく旺知に服従の意を示すことだった。


 今まで彼女は誰とも対等だった。父親譲りの聡明さとあふれる知識がそうさせた。

 しかし、旺知あきともには、それが通用しない。絶対的な暴力でこちらを支配しようとしてくる。

 どれだけ理をもって接しても、意味がないのだ。そいう存在が本当にいるということを彼女は身をもって学んだ。


 だとすれば、今までとは違うやり方で相手と交渉するしかない。まずは、この男に物を言える立場にならねばと、千紫はそう思った。


 彼女は、従順な態度を取りつつ言葉を続けた。


「同じことを二度聞いてはいけないということでしたので、忘れないように書き留めていたのです」


 旺知が文机に目をやり「ふん……」と興味なさげに鼻を鳴らした。そしてふと、思い出したように千紫に言った。


「そう言えば、伯子が我らの婚姻を聞いて驚いておった。もう半月は前の話になるがな」

「……清影様がですか?」


 そうか、知られてしまったか。そう思いはしたが、意外と胸が痛まず、そのことに千紫自身も驚いた。さして顔色を変えない千紫の様子を旺知がじっと見つめる。


は、おまえに懸想けそうしていたと聞いたがな」

「奥院へ入った義妹の友人が二つ鬼であることが珍しく、気にかけてくださっていただけにございます」


 何をどこまで知っているやら。


 旺知あきともの下世話な話に呆れつつ、伯子を「清影」と呼び捨てにする物言いに引っかかりも覚える。

 自分が幼い頃からの友人である深芳を呼び捨てにしているのとは訳が違う。明らかな、対抗意識だ。


「もう儂の手付きとは知らず、可哀想なことをしたものよ」


 小馬鹿にした口調で旺知が言った。

 千紫はさすがに戸惑った顔を返すしかなかったが、そうこうしているうちに、彼女は腰紐を解かれ寝間着を脱がされた。


「おまえの鳴き声を清影に聞かせてやりたいものだ」


 そう言って、まるで勝ち誇ったように旺知は笑った。千紫は内心ばかばかしいと嘆息した。


(私を得たことで勝ったつもりでいるのだろうか)


 しかし、そういう物の考え方をする男を千紫は旺知あきとも以外にも大勢知っている。

 そして何より、深芳の想い人である清影にかんざしを贈られて、いい気になっていたのは他ならぬ自分自身だ。


 今思えば、なんと愚かしいことかと我ながら笑いが漏れた。


「どうした?」


 珍しく笑いを漏らした千紫に、旺知が怪訝な顔をした。


 彼女は、ここぞとばかりに旺知にすり寄った。


 こちらに話す機会が与えられたのだ。この機を逃すわけにはいかない。


「お願いがございます」


 旺知あきともの体に乳房を押し当てると、彼の手がそれを遠慮なく掴んだ。こんな男にと虫酸むしずが走るのに、撫でまわされると体が反応する。


 自然と彼女の声にも熱がこもった。


「早く、私を妻にしてくださいませ。今日、下男に宵臥よいぶしの女だといやらしい目で体を舐め回すように見られました」


 自分の地位を手に入れるため、彼女は旺知に、いや男に対して初めておねだりをした。


 旺知がぴくりと片眉を上げた。彼の指が千紫の白い肌の上をすべり降り、彼女は跳ねるような声を上げる。


 家にある書物はハルに取りに行かせよう。千紫はそんなことを考えながら、旺知を受け入れた。

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