宵臥の姫(5)

 寝間へ案内され、小さな明かりが灯る中、千紫はじっと待ち続けた。

 正直、あの夜がまた再現されるのかと思うと、手の平にじっとりと汗がにじんだ。


 遠くから聞こえる宴の賑やかな喧騒は、いつまでも続くかのように終わりない。しかしそれも、徐々にたち消えていき、いつの間にか静かになった。


 そしてしばらくたって、旺知が寝間に現れた。綺麗に敷かれた布団の傍らで、千紫は両手をついて頭を下げた。


「いちいち堅苦しい真似はよせ。顔を上げろ」


 言われて彼女はそろりと顔を上げた。

 顔が強張っているのが自分でも分かる。旺知が、面白くなさそうに千紫の顔を覗き込んだ。 


「儂に抱かれるは不本意か?」

「そのようなことは──」

「ふん、まあいい」


 旺知あきともが千紫を抱き寄せ、腰紐に手をかける。そして彼は、不遜な笑みを口の端に浮かべた。


「今日からおまえは正式に儂のものだ。今から言うことは、今後のために覚えておけ」

「……はい」


 家訓のようなものだろうか。そう思いながら頷き返した千紫の寝間着を旺知が前触れもなく引き下ろした。

 彼女の華奢な裸体が一気にあらわとなる。てっきり話が始まるものだと思っていた千紫は、思わず小さな叫び声を上げた。


「何を──? 今から話があるのでしょう?」

「寝間ですることは一つであろう? しながら話す」

「お、お待ちくださいませ」


 のし掛かってくる彼の胸を押し戻し、千紫は脱がされた寝間着を胸元に掻き寄せると、彼に対して深く頭を下げた。


「お話を先にお願いしとうございます。こ、事に及びながらまともな話などできませぬ」

「儂がまともな話ができぬと申すか」

「違いますっ。私が聞くことができぬと申し上げて──」


 刹那、千紫は片方の角を掴まれ、ぐいっと頭を引っ張られた。強引に顔を上げさせられると、苛立ちをはらんだ旺知の顔がそこにあった。


「ならば、それはおまえの問題だ。しかと聞けば済む話だ」


 千紫はごくりと息を飲んだ。

 こちらの言葉が通じない──、たったそれだけのことが、これから先の二人の関係を十分に指し示していて、彼女は絶望的な気持ちになった。


 胸元で握り締めていた寝間着はあっけなく奪い取られ、脇へと放り投げられた。旺知の抵抗しがたい厚い胸板が千紫に覆い被さる。


「では、よく聞け」


 彼女の体をまさぐりながら旺知あきともが話し始める。

 千紫は、旺知の言葉に必死に答えようとするも、だがしかし、彼女の返事はすぐに淫らなそれへと変わった。




 次の日、九洞家であてがわれた部屋で、千紫はぶつぶつと一人呟きながら文机に向かって筆を動かしていた。


 いつもは綺麗に結い上げている髪も、今日はゆったりと後ろで束ねているだけである。

 そして、書いているのは、昨夜旺知あきともに言われた「約束事やくそくごと」だ。


「一つ、話を途中で止めてはいけない。一つ、同じことを二度聞いてはいけない。一つ、決定ごとに異を唱えてはいけない……」


 震える手を懸命に動かしながら、丁寧に昨夜言われたことを書いていく。

 決してこれを忘れてはならない。忘れれば、寝間で説教をされることが目に見えていた。


 宵臥よいぶしは、が終われば家に帰されるのが習わしである。しかし、千紫はそのまま九洞家に留め置かれていた。


 寝間と続きになっている部屋は、すでに千紫が住むことが決まっていたのか、鏡台や小物入れが置かれ、衣服をはじめ昨日身に付けてきた物もそこに片付けられていた。


 このまま、なし崩し的にここで住むことになるのだろうか。毎夜、あの男の相手をして。


 旺知と関わりあってからこちら、千紫の自尊心はずだずたになっていた。

 意思に反して体を差し出す行為は、彼女にとって謂わば隷属の儀式に近かった。

 それでもなんとか己を奮い立たせ、なけなしの自我を保つため、出来ることを考える。自分は考えることしか取り柄のない女である。考えることを止めれば、きっとそこで終わりだ。


「話は最後まで聞けば、意見を言えるかもしれない。二回聞けないのであれば、言い方を変えて同じことを違う風に聞いてみる。異を唱える場合は、決定する前に……」


 負けるわけにはいかない。これはもう戦いだと千紫は思った。

 ここで自分が自分であり続けるために、策を練らねばならない。


 ふと、深芳のことが頭に浮かんだ。


 彼女ならどうするだろうか。


 いや、そもそも、彼女であれば、旺知あきともはもっと可愛がっていたのではないか。そう思うと、自分の不甲斐なさに涙がこぼれ、千紫は小袖で目頭を押さえた。


 その時、庭先で誰かの怒鳴り声が上がった。


 何事かと、そろりと部屋から顔を出して庭の様子を見る。すると、昨日から自分の世話をしていた下女が男に蹴り飛ばされうずくまっていた。


「このっ、とろい女め! 使いにやってどれだけ時間がかかるんだ!!」


 千紫は慌てて部屋を飛び出した。


「何をしておる。乱暴はやめよっ」


 廊下から声をかけると、二つ鬼の男がふんと鼻を鳴らしながら千紫をじろりと見た。


「使えぬこやつをしつけておるだけです」

「蹴らずとも言えば分かる話ぞ」

「こうすれば、もっと分かる!」


 言って彼は下女の背中を踏みつけた。昨夜、自分がされた仕打ちと重なる。やり方は違っても、言っていることは同じだ。


旺知あきとも様は、かようなことを許しておいでか」

「儂は、この屋敷の雑用のまとめ役を任されております。宵臥よいぶしの姫は、引っ込んでいてもらいたい」


 男が下卑た目で、千紫とその体を舐めるように見る。彼女は奥歯をぐっと噛み締めた。


 小さく息をついて、乱れた気持ちを整える。そして千紫は、あらためて居ずまいを正すと、威圧的に顔を上げた。


「確かに宵臥よいぶしであるが、こうしてお役御免にもならず、この屋敷に留め置きとなっておる。旺知あきとも様は私を妻にと言っておいでじゃ。そなたのことは、いやらしく舐めるように私を見ていたと、に言っておく」


 下働きの男が途端に顔を青くさせた。そして男は、怒りの収まらない目をひとしきり泳がせると、最後は大きな舌打ちとともに去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る