2)西の隠れ屋敷

西の隠れ屋敷(1)

 千紫が九洞くど家に宵臥よいぶしとして召し上げられてから、すでに一月ひとつきが経っていた。


 結局、家には戻されず、千紫は九洞家で毎日を過ごしていた。

 立場としては宵臥よいぶしであるが、少しだけ変わった。旺知あきともが、近々千紫を妻にめとることを家の者に公言したのだ。


 それにともない、千紫に対する九洞くど家の者の態度が変わり、彼女も当初より周囲に物が言えるようになった。

 ハルにも堂々と使いを頼むことができる。彼女は両親に手紙を書き、ハルに届けてくれるよう頼んだ。ついでに、家の私物を持ってきてもらった。


 ハルは、里中出身の孤児であるが、利発な娘だった。機転もきき、肝も座っている。


 千紫は、暇がある時は彼女に文字を教えて、教養を身に付けさせることにした。彼女の仕事は主に家事などの雑用であるが、侍女が担う家人の身の回りの世話などをすることもあった。

 それなら、ゆくゆくちゃんとした侍女として、身を立ててもらおうと考えたからだ。


 一方、自分の学びも忘れてはいなかった。書物だけが、彼女の気を紛らわせる唯一の物である。


 折しも御座所おわすところでは、もうすぐ御前会が開かれる。もともと千紫は、父親と「月夜つくよの歴史と人の国の影響」について考察した成果を御前会で披露する予定だった。


 このようなことになってしまっては、それも叶わぬと諦めていたところへ、旺知あきともから出席するよう命じられた。


 どうやら、妻にめとる女の才媛ぶりを大勢の前で自慢したいらしい。あの男らしいと千紫は呆れつつも、深芳に会えるかもしれないと嬉しくなった。


 しかし、夜の営みについては、多少慣れはしたものの彼女の心に重くのしかかっていた。


 ただの体の交わりだけならまだしも、旺知あきともは、突然思いついたように卑猥な行為を求めてくることがあり、それが彼女には耐えがたい苦痛だった。

 しかし、拒否をすると倍になって返ってくるどころか、毎日のように要求してくるようになる。結局、千紫は受け入れざるを得なかった。


 ハルも同じようなことをされたのかと気になった。しかし、そのようなあけすけな話をすることもできず、彼女は一人で思い悩むしかなかった。


 そして秋、御前会に出席するため、千紫は旺知あきともとともに御座所おわすところへと向かった。


 御座所おわすところには、鬼伯の一族だけが使う大礼門を筆頭に大小合わせて十二の門がある。千紫は今まで西方の十一といち門という、最も一般的な門を使用していた。ここは、いわば身分の貴賤に関わらず通行を許された者なら誰でも通れる気軽な門だ。しかし今日は、東方にある万洞ばんどう門を通る。この門は、洞家しか通れない門であり、車での通行も許されている。

 旺知あきともに伴って、立派な網代車に乗る。見事な装飾が施された屋根に半蔀はじとみの物見窓が付いている網代車ものだ。車寄せに車を付けると、下男が大入間おおいりままで二人を案内した。しばらくすると、物腰柔らかな一つ鬼の侍女が出てきて、「お待たせいたしました」と頭を下げた。

 入間いりまでどれだけ待たされても「お待たせした」などと言われたことがなく、この扱いの差の馬鹿馬鹿しさを千紫は思わず鼻で笑った。同時に、二つ鬼であるにも関わらず、一つ鬼と変わらない扱いを受ける旺知に驚いた。

 洞家とはかくも特別なものなのか。

 これは、一度与えられれば執着するはずだ。ともすれば、もっと欲しがるかもしれない。千紫はそう思った。

 

 御前会は、御座所おわすところでも一番格式の高い影霊殿の南庭で行われる。影霊殿中央のきざはしを降りた左右に洞家の席は設けられていた。九洞くどは末席となるので、右の一番下座となる。さらに離れた一角に敷物が敷かれてあり、洞家より格下の家元衆以下の者たちは、そこに雑多に座ることになっていた。

 千紫の父親秀明しゅうめいはすでに到着していた。そして、洞家専用の出入口から現れた娘と旺知あきともを高揚した面持ちで出迎えた。

山守やまのかみ様、此度こたびは娘をお召し上げいただき、ありがとうございました」

 開口一番、秀明が言った。旺知が軽く頷いた。

「うむ。今日の千紫との披露、期待しておるぞ」

「おまかせください。本日は、千紫に任せようと思っております」

 言って秀明しゅうめいは、きらびやかに着飾られた娘の姿に「綺麗になった」と目を細めた。千紫は「ありがとうございます」と笑顔を返す。しかし、ここまで派手な出で立ちは本来彼女の好みではなく、今日の御前披露にはまったく必要のないものだった。

 ちらりと旺知を見ると、彼はすでに洞家の席に集まる他の洞家衆を気にし始めている。これは、そうそうに切り上げねばと千紫は思った。

「父上、他の方にご挨拶もありますので、また後で」

 まだ何か言いたそうな秀明にきっぱり言い返し、千紫は旺知に目配せした。旺知は満足げに頷くと、さっさと歩き出した。千紫は慌てて彼の後につき従った。

「千紫、洞家の面々を覚えておけ」

「はい」

 今後の自分の立ち振舞いにも影響がありそうである。千紫は、今日の御前披露以上に緊張した。


 その時、

「千紫、」

 彼女を呼び止めるたおやかな声が会場に響いた。集まり始めた洞家、家元の群衆が、ざわめきながら道を開ける。するとそこに、華やかな紅葉柄の打掛うちかけを羽織った深芳が立っていた。

「深芳……」

「久しぶりじゃ」

 打掛の裾をたくし上げ、深芳は真っ直ぐ千紫に向かって歩いて来た。そして彼女は、千紫の目の前で立ち止まると、その切れ長の目を柔らかに細め、旺知あきともを仰ぎ見た。

山守やまのかみ、こうやって言葉を交わすのは初めてかと存じ上げる。深芳と申す」

 言って彼女はたおやかに腰を折った。緩やかにうねる栗色の髪が、陶磁器のように白い肌にはらはらとかかる。深芳に突然声をかけられ、さすがの旺知あきともも驚いて息を飲んだ。

(深芳の美しさにほうけておる)

 初めて彼女と話す者は、大なり小なり似たような顔をする。例に漏れず、旺知も似たような反応をして、千紫は少しばかり愉快になった。

 一方、深芳はと言うと、これで殿方に挨拶は済ませたとばかりに、旺知あきともから視線を外し、千紫に向き直った。千紫は苦笑した。

「このようなところに一人で。侍女衆が探しておるだろうに」

「千紫、おまえに会いたくて。聞けば、御前披露に出るそうな」

「父とな。のお披露目じゃ」

 千紫が答えると、その含みのある言葉に深芳が複雑な顔をした。そして、再び旺知を見る。

九洞くど殿、千紫は素晴らしい女性でしょう?」

「は。私には過分なにございます」

 この時、旺知あきともは初めて千紫を「妻」と言った。思いがけず「妻」と言われ、千紫は驚いた顔で旺知を見る。彼は特段気にする風もなく平然とした顔で笑った。

「わざわざ妻のために足を運んでいただき、ありがとうございます」

「千紫は私の最も大切な友人ですから」

 深芳が答える。そして彼女は、旺知に尋ねた。

「今日は、宵の宴には二人でいらっしゃるので?」

「はい」

「では、一晩千紫をお借りしても良いでしょうか? もう久しく話しておらぬゆえ」

 千紫はちらりと旺知あきともを見た。九洞くど家に宵臥よいぶしとして上がってから、毎日の行動にかなり制限を受けていた。少しずつ自由がきくようになってはいるが、それでも旺知あきともから離れて一晩を過ごすなど、今の千紫には考えられなかった。

 しかし旺知あきともは、躊躇ためらうことなく笑顔で頷いた。

「もちろん、積もる話もおありでしょう。深芳様のご迷惑でなければ」

「では、決まりです」

 深芳が嬉しそうに千紫の手を取り満面の笑みを浮かべた。そして彼女は、「後でまた」と千紫に耳打ちすると、遠巻きに様子を伺っている若鬼衆の視線をさらりとかわして去って行った。

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