猿と蕾(4)

 深芳に連れられ客間に行くと、千紫が二人を待っていた。

 いつものとおり髪を結い上げて紫檀したんかんざしを差し、品のいい薄紅色の打掛を羽織っている。頭に二つの角を戴く姫は藤花を見てにこりと笑った。


「藤花、お久しゅう。深芳がここ数日は落ち込んでいると心配しておったが、変わらず愛らしいの。いや、少し綺麗になったのではないか?」

「千紫様、」


 藤花は恥ずかしそうに笑った。彼女に「綺麗になった」と言われると素直に嬉しい。千紫は藤花にとって数少ない世辞を言わない者の一人だ。


 しかし、千紫の笑顔は心なしか元気がない。藤花は深芳と並んで座ると、「何があったのか」と姉を見た。すると深芳は、そんな藤花の視線を受けて、そのまま気遣うような眼差しを千紫に向けた。


「今日は、来るなり深刻な顔をして。千紫、大切な話とはなんぞ?」


 言われて千紫は口ごもる。

 いつも明瞭な物言いの千紫らしくない。ややして、彼女は意を決した顔で口を開いた。


「実は、宵臥よいぶしの話が来ておる」

よい……ぶし、」


 藤花は思わず言葉を繰り返した。

 宵臥とは洞家にみられる慣習で、もともと男子が成人する時に夜の相手として女を一人あてがうものだ。今では、成人の時に限らず当主就任など、必要に応じて行われており、政治的な駆け引きに使われることも多い。あてがわれる女も良家の姫から侍女のような身分の者までさまざまだ。


 ただ、結婚とは違い、宵臥には妻という身分が保証されていない。良家の姫なら宵臥は婚約とほぼ同義となるが、正妻ではなく側妻そばめ扱いで終わることもある。身分の低い娘に至っては、一晩でお役後免となることも少なくない。いわば女の「つまみ食い」だ。

 それでも、玉の輿を狙う娘の中には千載一遇の好機だと思う者もいる。どちらにせよ、女を政治の道具としか見ていない悪習だ。


「どういうことじゃ?」


 千紫の口から突然出てきた「宵臥」という言葉に深芳が動揺を露わにした。

 無理もない。千紫は彼女の親友であり、何より清影きよかげの想い人でもあるのだから。

 藤花は遠慮がちに千紫に尋ねた。


「お相手をお聞きしても?」

「……九洞くど旺知あきとも様じゃ」

山守やまのかみ──」


 思わず深芳と顔を見合わせる。博学子の娘である千紫には申し分ない相手である。しかし、彼はすでに年齢も百を超え、今さら宵臥もくそもない。

 深芳が怒りに満ちた様子で眉根を寄せた。


「今さら宵臥などと、何を考えておる? 千紫を望んでいるのであれば、求婚するのが筋というもの。だいたい、そのような話を兄上様が──」

「清影様には言ってはならぬ!」


 千紫の鋭い声が深芳の言葉を遮った。深芳がごくりと残りの言葉を飲み込んだ。千紫がさっと笑顔を浮かべ、深芳と藤花を交互に見る。


「たかが宵臥、されど宵臥じゃ。山守やまのかみでもある九洞くど家の申し出を、たかが博学子はくがくしの父上が断ることなど出来ぬ」

「私が父上様にかけ合ってみる。そうすれば、断ることも出来るやもしれぬ」

「いいえ」


 千紫がすかさず否定する。そして彼女は、複雑な顔をして目を伏せた。


「……もう、私は旺知あきとも様の御手付おてつきになっておる」

「え?」


 深芳と藤花は言葉に詰まった。一瞬、「御手付き」という言葉に思考が止まる。深芳がさらに困惑した顔をした。


「すでに御手付きとは、どういう意味じゃ?」


 それは宵臥とは言わない。ただの夜這いだ。


 深芳と藤花は、いつも理路整然としている千紫の、順序もくそもない説明に何をどこから聞けばいいのか分からなくなった。

 千紫が口元をかすかに震わせながらも優美に笑う。


「突然のことで驚きはしたが、優しくしてもらえた」

「千紫様、先ほどの話では宵臥の話が来ておるだけではなかったのですか? なぜ、御手付きになっているのです?」

「……体の具合を先に確かめたいと、」

「具合とは──!」


 吐き捨てるように言って、深芳が全身を震わせた。


「なんと下卑た物言い。千紫を愚弄ぐろうするにも程がある! やはり父上様に申し上げる」


 蒼白に歪んだ美しい顔は、毒花のような凄味さえ感じる。しかし、そんな深芳に対し、千紫が「やめよ」と冷静な声で言った。


「鬼伯になんと申し上げるつもりじゃ? 私が山守やまのかみに体の具合を確かめられたと?」

「それは──」

「深芳は私に恥をかかせるつもりかえ?」


 千紫が静かな口調で深芳を諭した。


「宵臥も夜這いも、よくある話。私とて、何も分からない娘という年でもない。これはもう、決まったことなのじゃ」


 すでに全てを諦め、受け入れている表情だった。


 深芳が納得のいかない顔で俯いた。そして、まだ何か言い募ろうとして口を開きかけたが、しかし、言葉にならず押し黙った。千紫の毅然とした態度が、これ以上の反論を許さなかった。

 そして千紫は大きく息をつくと、「さて」と立ち上がった。


「最後に会えて良かった。これで心残りもない」

「千紫様、そのような言い方は止めてくだされ。また、人の国の話を聞きとうございます」


 藤花が泣きそうな顔で千紫に言う。彼女は藤花の頭を優しくなでた。


「今までのように自由はきかぬ。旺知様は、ゆくゆくは私を妻にと言ってくださっておる。もう、娘のように気ままに出歩くことはできぬ」

「……本当に兄様には、何もお話しにならぬのですか?」

「言う必要がない。それに、清影様には深芳がおる」


 言って千紫は深芳を見た。


「あの方はお優しい方ゆえ、側にいてあげて欲しい」


 深芳が眉根を寄せ、泣きそうな顔を震わせながら首を横に振る。


「兄上様は私など見ておらぬ。千紫以外、誰も目に入っておらぬ。私に千紫の代わりが務まるはずもない。それとも、私がこのようなことを望んでおったとでも?」

「まさか」


 千紫が苦笑した。そして彼女は、ふと思い出したように深芳に言った。


「深芳、私との約束は覚えておるか?」

「約束?」

「そう、約束。それを守ってさえくれれば良い」


 二人にしか分からない言葉のやり取り。それを藤花は黙って見ているしかなかった。ややして、深芳が神妙な顔で千紫に頷き返した。千紫が満足げに笑った。


「では、これにて」


 優美に頭を下げ、千紫がくるりと踵を返す。自身の進む先を見つめる横顔は、もういつもの彼女だ。なんと美しい女性かと藤花は思う。同時に、その女性が誰かの物になってしまうことに、なんとも言えない寂しさを感じた。


 千紫を見送り、深芳と藤花は客間に力なく座り込んだ。

 藤花がちらりと姉姫の様子を見ると、彼女は怒りと悲しみをごちゃ混ぜにしたような顔で呆然と畳の目を見つめていた。


「こんな終わり方があろうはずがない」


 誰に訴えるともなく深芳は呟いた。本当にその通りだと、藤花も思う。

 藤花は、ふいに兵衛との口づけを思い出した。兵衛にしてみたら子供のままごとのような口づけだったかもしれない。しかし藤花にとっては、兵衛に酔うには十分で、あのようなことを彼以外の男とするなど、考えるだけでゾッとした。


(しかし、いつかは私も千紫様のように、どこぞの殿方へ嫁がされる)


 そしてその相手は、少なくとも兵衛ではない。彼は人の国のあやかしで、九尾の弟子にすぎないのだから。


 最初から分かっているはずなのに、その容赦ない現実に愕然とする。


 自分はそれを受け入れられるだろうか。そして、兵衛はなんと言うのだろうか。当然のことだと言われてしまうのか。

 だとしたら、


「なぜ口づけなど──」


 その時、


 複数の派手な足音がどかどかと廊下で鳴り響いた。そのただならぬ音に藤花と深芳はびくりとした。


 何事かと、二人は驚きながら廊下に飛び出した。その足音は慌ただしく近づいてきて、ややして影親かげちかと九尾が険しい顔で現れた。

 九尾は激しい怒りで顔を歪め、その口からはくすぶる火炎が漏れ出ている。


(あの九尾様が、あのようにお怒りになるなんて……)


 本気で怒っている九尾を藤花は初めて目にした。そして、そんな彼の肩に、大きな毛皮が担がれていた。


ひひじゃ」


 深芳がそれを見て怪訝な顔でぽつりと呟いた。藤花は全身から血の気が引いていくのが分かった。

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