5)分相応
分相応(1)
藤花は、何を考える間もなく
「父上、九尾様! 何があったのでございます?!」
「藤花、引っ込んでおれ」
影親がちらりと藤花を一瞥し、立ち止まることもなく言葉を返す。しかし、藤花はそんな二人のあとを追いかけた。
「これは兵衛でございますね?」
九尾の肩にぐったりと担がれたままの猿を見る。九尾が少しうるさそうに頷いた。
あっという間に奥座敷に到着し、九尾が無遠慮に入っていく。奥座敷には侍女が数名控え、すでに布団が敷かれてあった。しかし、侍女たちは九尾の抱えた猿を見ると、あからさまに顔をしかめた。
「おそれながら、このような獣に布団を使うので?」
藤花は、彼女らの頭の角を掴んでグリグリと振り回したくなった。そこをぐっと我慢して部屋の外を指差す。
「ぬしらは無用じゃ。出ていきやれ」
「しかし姫様、」
「黙りゃ! 早くせよ!」
藤花の
兵衛の体は下半身がどす黒く変色し、もはや
「九尾様、これは一体──?!」
「呪詛と毒矢にやられておる。馬鹿者が、油断し罠にでもはまったな」
「兵衛は油断などしないでしょう?」
「では、何か考え事でもしておったのだ」
九尾が腹立たしげに吐き捨てた。しかし、その目は動揺で乱れ、彼が兵衛のことを心配していることが伝わってきた。
影親が兵衛の状態を落ち着いた様子で確認する。
「このままだと足が腐り落ちる。毒矢に塗ってあった毒はきっと
「父上、怨水とは?」
「
手短に藤花に答え、影親は部屋の外に向かって声をかけた。
「深芳はいるか」
すると、いつの間に参じていたのか、廊下から深芳の声が返ってきた。
「はい、これに。父上様、なんでございましょう?」
「おまえは薬草に詳しい。今から言うものを揃えてもらいたい」
「承知いたしました」
「手に入りにくいものもあるが、早急に頼む」
「なんの問題もございません」
深芳がその優美な顔を和ませつつも力強く頷いた。
そして、影親から必要な薬草の名を聞くと、さっと身を翻して急ぎ足で廊下の向こうへ消えていった。
影親が藤花に向かって、あごで「出ていけ」という仕草をした。藤花はきっと影親を見返し首を横に振る。
「嫌です。私もここにいます」
「姫、」
すると、父の命に従おうとしない藤花に、少し落ち着きを取り戻した九尾が薄墨色の目を向けた。
「兵衛はこの姿を誰かに見られることを極端に嫌がる。こやつを心配する気持ちだけいただこう」
藤花は眉根を寄せて首を傾げた。
「……なぜ、嫌がるのです? 猿が猿の姿になっているだけじゃ」
「こやつは猿になれなかったのだ」
九尾が複雑な顔で兵衛を見ながら答えた。
「猿になるには知恵があり過ぎ、人となるには世間を知らず、霊力を持て余し、名もなく、山奥で独り凍えておるのを儂が拾った。ほんの二十年ほど前のことだ」
「名も、なかったので?」
「そうだ。
「……」
名もなく生きるとは、どれほどの孤独だろうか。
初めて聞く兵衛の過去に藤花はひどく胸が痛んだ。
「部屋からは出ませぬ」
あらためてぐったりと目を閉じたままの猿を見る。今、言われるままに部屋を出ていくことは、兵衛が背負ってきたものに蓋をしてしまうことのように思えた。
「兵衛が起きた時に、おまえは立派な猿で、あやかしだと伝えまする」
言って彼女は、兵衛の大きく長い手を取ると、ぎゅっと握りしめた。
遠い、昔のことを思い出していた。深い深い闇夜の森で、人の姿を模した年若い猿は寒さに凍え、独りうずくまっている。
ああ、あれは昔の儂だ。兵衛は思った。まだ、名もなかった頃の自分。
腹も減っているが、もう食べるものがない。先日久々に見つけた死肉は、すでに食べ尽くしてしまった。草でも
自分が猿なら、と思う。大勢で群れ、体を寄せて温め合い、食べ物も分け合えることができる。しかし自分は猿ではない。猿の姿をした何かだった。だから、大勢で群れることも、体を寄せて温め合うことも、食べ物を分け合うこともできなかった。
ならば自分が人なら、とまた思う。家族を作り、寒さをしのぐ衣を身につけ、温かな汁をすすることができる。しかし自分は人でもない。人の姿をした何かだった。
猿でもなく、人でもなく、では自分はいったい何者なのか。
世に嫌われ、世を恨み、生きることに意味など見いだせぬ毎日。近づく者からは全てを奪い、女はただの欲のはけ口。そうやって誰かを踏みにじって生きてきた。
そう、狐の
九尾に拾われ、名をもらった。そして世間を知り、知恵の使い方を覚えた。この御方に自分の全てを捧げると誓った。それ以外は何もいらないと、そう思っていた。
どこからか、柔らかな声が聞こえる。
まるでそよ風のような優しい声は、兵衛の重たい体にじんわりと沁みた。体の芯がほこほこと温かくなり心がふわりと軽くなる。
ぼんやりと目を覚ます。見慣れない天井の格子が目に入った。ゆっくりと目だけを動かし辺りを見回すと、北の領の連峰が描かれた大きな襖絵が目の中に飛び込んで来た。
次に自分の体を見る。着たこともない上質の白い寝間着を着ていた。
(毒矢にやられ、猿の姿となったはず……)
記憶が徐々にはっきりとしてくる。不覚にも
悪童が弓矢のような技術を要する道具を使えるわけがないが、確かにそれは飛んできて、兵衛の足に刺さった。そして、激痛と悪寒が傷口から一気に広がり、意思に反して猿の姿になったところまでは覚えている。
しかし今は人の姿に戻っている。どうやら、命は助かったらしい。
そんなことをぼんやり考えている間も、心地の良い歌がずっと耳に届く。
それが聞こえる方、外の光を感じる障子へと目をやると、戸口のそばに藤花が独り座り、ぼんやりと庭を眺めながら
ぽつり、ぽつりと呟くような、鼻歌まじりの月詞。藤花の口から紡がれる言葉が、淡い光の粒となって宙を漂い消えていく。
その天に祈りを捧げるような彼女の面差しは、見惚れるほどに美しい。
なんと清らかな、我が──
「姫、」
思わず口に出た。久しぶりに喉を使うからか、声が上手く出ずカラカラだった。その掠れた声に、藤花がびくりと振り向いた。
「兵衛……?」
「それは、なんの
「馬鹿者!!」
藤花が這うようにして横たわる兵衛の元へすり寄ってきた。目頭を赤くし、心配そうにこちらを窺う顔には疲労の色が見える。
ずっと側にいてくれたのだろうか。
そう思うと、心が震えた。
「……ご心配をおかけしました」
「死ぬかと思うたぞ」
藤花が瞳に涙をいっぱいためて笑った。そして、労るように何度も何度も彼の額をなでる。
「九尾様が大きな毛皮を担いで現れたときには何かと思った」
「……私は猿の姿でしたか」
兵衛が少し顔を曇らせた。どうやら、猿の姿を見られたくないというのは本当らしい。
藤花はそんな彼の顔を両手で包み込んだ。
「兵衛、」
猿の姿を恥じる必要などどこにもない。そう言いかけて、だがしかし、藤花は言葉を飲み込んだ。
彼が目覚めたら、「おまえは立派な猿だ」と言うつもりでいた。しかし、こうして彼を目の前にして、そんな言葉になんの説得力もないことに気がついた。
まじまじと彼の顔を見つめる。みっともなく伸びた
「こんなにボロボロになりおって──」
今はただ、目を開けてくれたことを喜びたい。
藤花は兵衛の胸の上に倒れ込むと、そっと頬を寄せ目を閉じた。
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