分相応(2)

 藤花の温もりを胸に感じながら、兵衛は仰向けの体勢のまま身動きが出来なくなっていた。彼女から漂ってくる甘い花の香りが、目覚めたばかりの兵衛の思考をさらに鈍らせる。


 彼女の背中に手を回し抱き締めたい、と思う。


 そして、そのまま布団の中に引き込んで、その柔らかく白い肌と花の香りを心のままに堪能して──。

 しかし兵衛は、そんな甘い誘惑と己の粗野な衝動をぐっと押さえ込み、「こほん」と小さく咳払いをした。


 藤花がはっと体を起こした。


「す、すまぬ。体に障ったか?」

「いえ、」


 実際、精神的にいろいろと障りがあるが、目の前の鬼姫があまりに真面目なので、それ以上は言わないことにする。

 兵衛は、話題を変えて藤花に尋ねた。


「私は、どのくらい寝ていましたか?」

「まる五日、九尾様におまえが運び込まれて今日で六日目じゃ」

「そう、ですか……」


 嘆息しつつ兵衛は目を閉じた。五日は寝過ぎだ。どのような状況になっているにせよ、今回のことは自分の失態だった。


 すると突然、藤花が兵衛の顔を両手で挟んでぎりぎりと押さえつけた。


「いっ──。何を?!」

「何が気に入らなんだ?」

「え?」

「なぜ、カラスを寄越さなかったのじゃ?」


 戸惑う兵衛を藤花がめ付ける。毎日の報告をしなかったことへの怒りだ。今、ここで問いただすことではないだろうと思いながらも、兵衛は気まずくなって目をそらした。

 そんな彼の態度に藤花がむうっと口を尖らせる。


「会いに来いと言うたのが煩わしかったのか? それとも──」


 彼女は一度言葉を飲み込んで逡巡し、それから泣きそうな顔になった。


「それとも……。お、女として物足りなかったか?」

「──は?」


 たかが軽く口づけを交わしただけで、なんでそうなる?

 思わず兵衛は顔をしかめた。すると、藤花は目をあちこちにさ迷わせ、悔しそうに唇を噛んだ


「女として、いろいろ足りぬ部分があるのは分かっておる。だが、私は子供ゆえ、それくらいは大目に見るのが大人の男の寛容というものじゃ」

「……」


 しばしの沈黙、そして次の瞬間、兵衛がぶっと吹き出した。


「兵衛!」


 藤花が涙目で顔を真っ赤にさせる。兵衛は顔を両手で覆い、肩を揺すり声を殺していたが、堪えきれずに「ははは、」と笑いだした。


「参ったな、面白すぎます」

「私は全く面白うないっ!」


 藤花が怒りでわなわなと体を震わせた。

 しかし、その姿さえ愛らしい。

 この姫は、どこまでも真っ直ぐで純真だ。だからこそ愛おしく、そして大切にしたいと思う。

 兵衛は皮肉たっぷりの笑みを浮かべ、藤花に答えた。


「足りぬも何も、つまんだ内にも入りませぬゆえ」

「わ、私はつまんだ内にも入っておらぬのか?!」


 藤花が信じられないと目を見開く。そして彼女は憤然と立ち上がると、「もう知らん!!」と言い残し、足音も荒く部屋を出ていった。


「やれやれ、相変わらず騒がしい」


 小さくなっていく足音を聞きながら、兵衛は独りごちた。

 でも、これでいい。つまらない男にからかわれたと、笑い話で済ませることができるのであれば。


 藤花が「兵衛が起きた」と報告したからか、にわかに部屋の外がざわざわと騒々しくなる。しばらくして侍女が慌てた様子でやって来た。


「鬼伯と御屋形おやかた様に報告をしたい」

 兵衛は体を起こすと、口を真一文字に結び、顔をきゅっと引き締めた。





 藤花の「もう知らん」は、夕方までしかもたなかった。

 怒って部屋を出たものの、兵衛が起きてくれたことが嬉しいのと、彼のことが気にかかるのとで、夕方には「もう一度、様子を見に行こう」という気持ちになった。


 兵衛が食事を終えた頃を見計らい、藤花は彼がいる奥座敷を訪れた。そっと障子戸を開けて、そろりと隙間から顔を覗かせる。


「兵衛、夕餉ゆうげは食べたか?」


 湯浴みを終えた兵衛は、ひげも剃って身なりも整え、すっきりとしていた。膳の食事を全て食べ終え、お茶を飲んでいた彼が少し驚いた顔をする。


「藤花様、」

「しっ」


 ちらちらと周りを気にしながら彼女は素早く部屋に入る。そして、障子戸をぴしゃりと閉めると、お茶を飲む兵衛の隣に座った。


「おまえが起きた途端、奥頭おくがしらがうるさいのだ」

 藤花がつまらなそうに口を尖らせる。奥頭おくがしらとは、奥院で働く侍女たちを取り仕切る上役のことだ。


「もう気安く部屋に入ってはならぬと」

「それは、まあ、そうでしょう。にもかかわらず、いらっしゃったので?」


 兵衛が至極当然だと顔をしかめる。藤花は「おまえまで──」と頬を膨らませた。

 しかし、藤花が不機嫌なのには実は兵衛も知らない訳がある。兵衛が目覚めてからこっち、侍女たちが「九尾様のお弟子殿」と騒ぎ立てているのだ。


 そんなだから、「殿方の部屋に若い姫が出入りするなどはしたない」という奥頭おくがしらの小言も、藤花は素直に受け入れられない。

 担ぎ込まれた時は獣だのなんだのと散々な言い様だったくせに、これだから女は油断ならない。


 藤花は疑わしげに兵衛を見た。


「兵衛、誰ぞの口を拭ったりはしておらぬであろうな?」

「……なんの話ですか」

「おまえは人の口をよく拭うではないか」

「それは、藤花様が口元によく食べ物を付けておいでだからです」


 兵衛に痛い所を指摘され、藤花は慌てて「言われるほど付けておらぬ」と弁解する。自分が振った話題ではあるが、なんだか分が悪い。


 一方で兵衛の素っ気ない口調に、彼の調子が少しずつ戻ってきていると感じてほっとする。だが、まだ顔は青白い。藤花は兵衛の顔を覗き込んだ。


「兵衛、まだ顔色が悪い。父上たちと長く話していたであろう?」

「報告せねばならぬことがありますから」


 兵衛が「心配ない」と笑って答えた。


 あの後、兵衛が目覚めたと報を受け、影親かげちかと九尾がすぐにやって来た。兵衛は自分の記憶がある部分まで二人に事の次第を説明した。


 気になったのは、悪童わんらの統率ある動きだ。集団で行動する悪童だが、組織だった動きをする輩ではない。もっと好き勝手にまとまりなく動くはずなのに、兵衛の相手をした悪童わんらはずっと組織立っていた。


 そして毒矢。短刀を振り回すぐらいが関の山の悪童が扱う武器としてはあり得ない。そもそも、どうやって蠱毒こどくを手に入れたのか。

 悪童は駆けつけた九尾が、怒りにまかせてその甚大な火力で焼き払ってしまったらしい。兵衛はあるじに助けられたことを情けなく思うとともに、主が出てきたことで話が大きくなってしまったと嘆息した。


 そして御化筋おばけすじ──、九尾は気づかなかったと言っていたが、確かにあった。現在、北山の一帯は九尾が暴れ回ったおかけで封鎖され、山守やまのかみの直轄になっている。


(封鎖は好都合だが、もう一度、確かめに行かねばならんな)


 兵衛は藤花がいることも忘れ、あれこれと考え込む。

 すると、


「兵衛、そのように難しい顔をするな。体に障る」

 彼の難しい顔を見かねて藤花が言った。そしてそっと兵衛に身を寄せると、ことんと彼の肩に頭を預けた。

 兵衛がわずかに顔を強ばらせる。


「誰かに見られます。離れてください」

「別にかまわぬ」


 藤花はすかさず言い返した。そして、拗ねた様子で兵衛を睨む。


「どうせ私は女として見られておらぬゆえ」


 兵衛が困った顔を返した。藤花はつんっとそっぽを向く。「つまんだ内にも入ってない」と言われたことを少なからず根に持っている。


 兵衛が小さくため息をつく。ややして、彼は躊躇ためらいがちに口を開いた。


「あの夜のことは──、猿の失態です」

「……失態?」


 藤花が眉根を寄せ、兵衛に預けていた体を起こす。そして彼女は彼に向き直った。


「おまえは、あの夜のことを失態と申すか」


 藤花が怒りを滲ませた目で兵衛を睨んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る