分相応(3)
藤花が真っ直ぐに兵衛を見据える。
「何が失態というのか?」
「分別もなく、あなたに触れてしまったことです」
「意味が分からぬ」
藤花の鋭い眼差しが兵衛を射抜く。その瞳が悔しさで揺らいでいるのが手に取るように分かる。
「あの夜、私は兵衛に包まれ酔いしれた。おまえは、それを失態と申すか」
「酔いしれたなどと、男の前で軽々しく言うものではありません」
誰にはばかることなく思ったことを口にする。その奔放な物言いを彼女らしいと感じると同時に、では、さらに自分を注ぎ込めばどうなるのかと心の奥が色めき立つ。
そんな兵衛の気持ちを知ってか知らずか、藤花が口を尖らした。
「兵衛の前でしか言わぬ」
「あなたは──」
その仕草ひとつ、口振りひとつが男の欲を
「藤花様、」
兵衛はあらたまった口調で言った。
「我らあやかしとて身の程というものがあります。鬼伯の娘であればなおのこと、その振る舞いが問われます」
「鬼も猿も、何も変わらぬ」
つまらぬ話だと言わんばかりに藤花が鼻を鳴らす。
「
「ならば、その役割を」
兵衛がすかさず返した。
「姫としての役割を全うせねばなりません。少なくとも、ここで私に甘えていることではありますまい」
どの口が、と兵衛自身も思う。己の役割を見失い、先に触れたのは自分である。我ながら説得力の欠片もないなと内心せせら笑った。
しかし、さらに反論してくるかと思われた藤花は顔を曇らせた。
「姫の役割とな──」
にわかに膝の上で両手を握り締め、藤花がうつむき眉根を寄せる。そして呻くように声を絞り出した。
「私に、他の男に抱かれよと申すか」
「そのような……、あからさまな話を誰がしておりますか」
「おまえが言うておることは、つまりはそういうことじゃ!」
藤花の荒れた声が部屋に響く。
いつになく怒りをぶつけてくる彼女に兵衛は驚き、それに気づいた藤花が気まずそうに口をつぐんだ。
兵衛の胸がずきりと痛む。
今、目の前の鬼姫を傷つけているのは、まぎれもなく自分である。
兵衛はぐっと奥歯を噛みしめ、藤花に対して頭を下げた。
「全てはこの猿の浅慮な行いが原因、お許しください」
「……
「え?」
藤花の口から突然出てきた「宵臥」という言葉に、兵衛は眉根を寄せる。藤花が独り言のように言葉を続けた。
「姉様と同じように慕っている御方が宵臥になられると、」
「……宵臥、ですか」
藤花はこくりと頷いた。そして、そのまま彼女は黙り込んだ。
宵臥とは、
兵衛は、「姫の役割」という言葉に藤花が突然声を荒げた訳を理解した。同時に、それが彼女自身の話ではないことにほっとする。そして、ほっとしている己の身勝手さに呆れ返った。
藤花が迷い猫のような目をあちらこちらにさ迷わせている。安心させてやりたいが、彼女に対して「自分がいるから」などと気軽には言えない。
兵衛は悩んだ末に無難な言葉を口にした。
「宵臥と言えど、良縁もあります。姫にもきっとふさわしい御方が現れましょう」
「……それは、男の屁理屈じゃ。おまえの口から聞きとうもない」
納得のいかない顔でぽつりと言われ、彼の言葉はあっけなく否定される。
当然の結果ではあるが、困ったなと兵衛は嘆息した。すると、藤花がそっと手を伸ばし兵衛の袖口をきゅっと摘まんだ。
「藤花様、」
「私は兵衛が良い」
言って何かをねだるような目で見上げてくる。兵衛は彼女の視線を受け止めながら彼女に言った。
「藤花様、私はあなたが思っているほどきれいな男ではありません。奪えるものは奪い、誰かを傷つけることも
そう、自分は彼女に
「あなたの目の前にいる男は、評するに
藤花が戸惑った様子で目をそらし考え込む。ややして、彼女は言葉を選ぶように慎重に口を開いた。
「兵衛は今、九尾様に仕えているではないか。兵衛は
少し困った顔で、藤花がしおらしく兵衛に向かって彼自身を庇う。兵衛は苦笑した。
(ああ、本当に)
この姫にはかなわない、と兵衛は思う。彼女はどこまでも真っ直ぐで、愛おしさが込み上げてくる。
その時、
「膳を下げに参りました」
廊下で女の声がした。にわかに緊張が走る。
今、部屋には藤花がいる。入って来られるのはまずい。
「いや、まだ──」
藤花を庇い、とっさに兵衛が嘘をつこうとしたところ、藤花が「大丈夫」と彼を止めた。
「この声は初音じゃ」
言って彼女は「入りやれ」と部屋の外に声をかける。すっと障子戸が開き、一つ鬼の侍女が現れた。
年の頃は藤花より少し上といった感じだろうか。利発そうな顔立ちのその侍女は、兵衛と並んで座る藤花の姿を一瞥し、ため息混じりに口を開いた。
「姫様、
「兵衛の体調が心配だったのだ」
「ならば、押しかけるような真似はお控えなさいませ。それこそ、弟子殿の体に障ります」
ぴしゃりと言って、初音は膝をついて中へ入ると部屋の外を指差した。
「さあ姫様、他の者に見つからないうちに自分のお部屋へお戻りください」
「しかし、」
「
決して譲らない侍女の態度に藤花はしぶしぶ立ち上がる。名残惜しく兵衛に目をやると、彼も「これにて」と言わんばかりに頭を下げた。
藤花は頬をぷうっと膨らます。そして、「まだ話の途中であったのに──」とぶつぶつ言いながら出ていった。
藤花の足音が聞こえなくなって、戸口で座っていた初音がようやく立ち上がった。
「では、お下げいたします」
「かたじけない」
「……姫様は、」
かたんと膳を下げ、視線を合わせることもなく、初音が淡々とした口調で切り出した。
「身分や出自などを気にしません。誰に対しても分け隔てなく接されます。この部屋へ目を盗んでやって来たのも、奥頭の小言がうるさいからというだけで、それ以上でもそれ以下でもございません。そもそも何かを隠す気などないのです」
そこで初めて兵衛に含みのある目を向ける。
「自由な姫様の振る舞いは、さぞ迷惑でございましたでしょう。どうかお許しくださいませ。下手な噂が立っては、弟子殿も困るでしょうし」
初音の嫌味な物言いに兵衛は軽く頭を下げた。
気安く藤花に近づくなという苦言であろうが、しかし、兵衛は驚きも怒りも感じない。なぜなら、これが猿に対する普通の対応だからだ。いや、客人としての礼を取っているだけましな方だ。
兵衛もまた初音を真っ直ぐに見返した。
「明日の朝には出立できると、鬼伯と
「承知いたしました」
淡々と頷いて初音は膳を持って立ち上がった。
しかし彼女は、
「明日、出立前に時間を作ります。どうか姫様にお別れを」
「その必要は──」
「勘違い
初音が素っ気なく答える。彼女の表情からは、その真意は読み取れない。そして初音は、何事もなかったかのように部屋を出ていった。
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