分相応(4)
藤花は部屋に戻ってから、明日はどうやって兵衛に会いに行こうかと考えていた。彼と一緒にいることになんの後ろめたさも感じないが、
すると、初音がお茶を持ってやって来た。
「姫様、お茶をお持ちいたしました」
初音が膝をついて藤花の前にお茶を置く。藤花はそぞろな気持ちを隠そうと、慌てて居ずまいを正した。
「うむ。寝る前に飲むゆえ、そのまま置いていっておくれ」
「はい」
初音が軽く頷く。しかし、彼女はすぐに立ち上がろうともせず、もの言いたげな様子でじっと藤花を見つめ返した。藤花が怪訝な顔をする。
「なんじゃ?」
「あのような男のどこが良いのです?」
初音が呆れた口調でため息まじりに言った。思わず藤花はたじろいだ。
「なっ、なんのことじゃ?!」
「この初音の目は誤魔化せません。一体、どこまで仲睦まじくなったのやら。口づけぐらいは交わされたので?」
藤花が顔を真っ赤にしながら目をあちらこちらに泳がせる。初音は「分かりやすいことで」と、わざとらしく頷いた。
「存外に手だけは早うございますな。頭の固そうな、地味で無愛想な男のくせに」
「じ、地味だが不愛想ではない。たまに笑う」
「たまに、ですか」
「そ、それに優しい」
「優しい、」
はんっと初音が鼻を鳴らす。
「つれない態度で優しく笑うは、男が良く使う
「兵衛はそんな男ではない」
「それも、男に騙された女が良く使う言葉にございます」
ぴしゃりと言われ藤花は肩をすぼめる。言い返したいが、倍になって返ってきそうで分が悪い。
初音は藤花にとって一番信頼できる侍女だ。こちらの意思は
すると、初音がつと藤花に膝を詰め、小声で彼女に告げた。
「弟子殿は明日の朝、出立されます」
「明日の朝?」
突然のことに藤花が驚くと、「しっ」と初音が口元に人差し指を立てた。
「出立の前までになんとかお時間を作ります。初音が手引きをいたしますので、弟子殿にお別れを」
「手引きなどと……大げさな。そのようなことをせずとも、私が一人で会いに行く」
「いいえ、姫様。今までのようにはもう会ってはなりませぬ」
初音が落ち着いた、それでいてきっぱりとした口調で言った。
「彼は人の国の者。お立場も考えることなく、人目もはばからず弟子殿にまとわりつくは、かえって弟子殿に迷惑です」
「どういう意味じゃ」
みるみる藤花の目が吊り上がる。しかし、初音は動じる様子もなく、「言葉通りです」と続けた。
「藤花様は鬼伯の娘、それ相応の御方ならいざ知らず、
「勝手なことを──」
藤花がにわかに腰を浮かせる。しかし、初音がそれを止めた。
「どこに行かれるのです? 浅慮な振る舞いはかえって弟子殿に迷惑がかかると言っておりましょう」
「初音!」
歯噛みしながら藤花が唸る。初音は「まずはお座りなさいませ」と、そんな藤花を真っ直ぐに見返した。藤花は憮然とした顔で初音を睨んでいたが、ややして、そっぽを向いたままどかりと座った。
「藤花様、」
落ち着いた声で初音が優しく呼びかける。藤花はそっぽを向いたままだ。
「ご自身のお立場を少しは考えてくださいませ。このことが伯の耳に届いた時に、なんとお伝えするつもりです?」
「……ありのままを話せばよい」
「反対されたら? いえ、十中八九、反対されますよ。私の家を見れば分かることでございましょう」
「反対など……、されぬ」
そう答えながらも、確固たる自信がないことに藤花自身も気づく。そして、兵衛にも似たような話をされたことを思い出す。藤花の瞳が自然と涙で潤んだ。
膝の上で固く握り締められた藤花の手を初音がそっと包み込む。
「姫様の誰かをお慕いする気持ちを初音は大切にしとうございます。やみくもに弟子殿とのことを反対するつもりはございません。しかし、だからこそ、表立っては分相応の振る舞いをしなければなりませぬ」
「悪いことは何もしておらぬ。なのに、隠せと申すか」
「その通りです」
言って彼女はにこりと笑った。
「どうぞ初音にお任せくださいませ」
侍女たちの朝は早い。
次の日、東の空が白み始めた頃、奥院の控え部屋に集まった侍女たちは、いつものとおり
ここで毎朝、奥頭がその日の仕事の割り振りを決める。待ち時間を持て余した侍女たちの小鳥のさえずりのような話し声がそこかしこで響く。
中でも、若い侍女たちは奥座敷に泊まっている「九尾様のお弟子殿」の話題で持ち切りだった。
「九尾様は遠いご存在だけど、お弟子殿であればお近づきになれるのではないかしら?」
「本当に! お泊まりになっている今、話す機会もあるというもの」
「どのような
「身の回りのお世話は、皆で順番じゃ」
言って彼女たちは途端に身なりを気にし始める。
初音は、そんなあけすけな会話を隣で聞きながらため息をついた。
よくもまあ、九尾の弟子というだけで、ここまで盛り上がれるものだ。
しかし残念かな、兵衛の好みは決まっている。彼女たちでは遠く及ばない。
さらに言うなら、彼女たちが彼の身の回りの世話をすることも絶対にない。
なぜなら──。
「
ふと一人が呟いた。(ようやく気づいたか)と初音は思う。しかし、奥頭はもう来ている。誰にも見えない襖の向こうで、そば耳を立てているだけだ。
初音の予想通り、足音も衣擦れの音もなく襖が開いた。
侍女たちのお喋りがぴたりと止まり、皆が一斉に両手をついて頭を下げる。
「おはよう」
落ち着いた品のある笑みをたたえ、一つ鬼の女性が入って来る。彼女は
「では、今日の仕事を」
皆が緊張した面持ちで
「まずは九尾様のお弟子殿ですが、今日お帰りになる」
言って、奥頭は初音と周辺の侍女たちを一瞥する。初音の周囲で侍女たちが色めき立ち、中にはにんまりと笑っている者もいる。
奥頭は淡々とした口調で言った。
「初音、お帰りになるまで身の回りの世話を頼む」
「はい」
「他の者は
念を押すように奥頭が周囲の侍女たちを睨みつけた。自分たちのもくろみを見透かされ、彼女たちはさっきまでの明るさが嘘のように青ざめて俯いている。
(仕事を決めるのは奥頭。品なくお喋りに興じるおまえたちに頼むわけがない)
大切なのは、さりげなく存在を示し、信頼を得ること。初音はほくそ笑んだ。
兵衛が身支度を終えた頃を見計らって、初音は
「おはようございます」
初音が顔を見せると、兵衛は硬い表情のまま頭を下げた。
昨日はそれなりに嫌味を言わせてもらった。大切な姫に手を出したのだから当然だ。それに、兵衛の反応も試したかった。これでくだらない言い訳や弁明をしようものなら、事の次第を九尾と鬼伯に報告し、切って捨てるつもりだった。だからと言って、平謝りするような男も駄目だ。信念のない男に姫は渡せない。
しかし、彼は否定もせず、肯定もせず、ただ奥院を去ることを初音に告げた。自分の立場を十分に理解している顔だった。ひとまず及第点だ。
「朝餉をお持ちしました」
「かたじけない」
言葉少なに兵衛が膳の前に座る。初音は、そんな彼ににこりと笑い返した。
「今日はいつ頃ご出立で?」
「
「分かりません。様子を確認し、後からお伝えします」
淡々と答え、初音は兵衛をちらりと見る。飄々とした風情の寡黙な男は、負けず劣らず淡々と朝餉を食べ始めた。
こちらが話しかけるまで世間話さえする気もなさそうだ。これが本来の彼の姿なのだろう。
(何がどうして恋仲になどなったのやら)
大方、我が姫の無邪気な押しに負けたのだろうが、あの華やかな姫にしてこの男とは、世の中、何が起こるか分からない。
しかし、今は初音も無駄な話をしている場合ではない。藤花の侍女として、彼女の願いを叶えるべく、ここからが腕の見せ所である。
(九尾様のご様子を確認、藤花様の身支度、途中でこちらの膳を下げ──)
頭の中でやることをひとつひとつ確認する。
「では後ほど」
初音は一礼するとさっと立ち上がった。
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