分相応(5)
帰る準備などさしてなかった。半死でここに担ぎ込まれたのだから当然だ。兵衛は
「お待たせいたしました。九尾様のお部屋へ案内いたします」
兵衛は小さく頷いて立ち上がる。
昨日、この侍女は藤花に会わせるなどと言っていたが、その素振りも気配もない。気が変わったのか、やはり無理だったのか。
どちらにせよ、兵衛は少しほっとしていた。どうしたところで、藤花を傷つけてしまうとしか思えなかったからだ。
歩き慣れない広い廊下を初音について進む。時折すれ違う侍女たちの好奇の目が
「初音殿、私は庭先で待ちましょう。いつもの場所でと
最初からそうすれば良かったと思いながら兵衛は初音に言った。
初音が振り返り「なりません」と首を振る。そして、ちらりと誰もいないのを確認してから彼女は静かに口を開いた。
「先に申しておきますが、姫様とのことを私は反対してはおりません。むしろ、藤花様の思いを尊重したいと思っています」
このまま何もないだろうと思っていたら、初音は藤花のことを話し出した。しかも反対していないと言う。
にわかに信じられず、兵衛は訝しげな視線を彼女に返した。
「……なぜ?」
「私は、元洞家の娘です」
唐突に初音が言った。そのような素性の者とは知らず、兵衛がほんのわずかばかり驚きの色を浮かべる。彼女が笑顔を返しながら言葉を続けた。
「我が一族は、ほんの十数年前に
なし者とは、角を持たない鬼のことだ。鬼の象徴たる角がないことから、なし者は貴賤に関わらずひどい扱いを受けると聞く。
初音は「時間がありませんので歩きながら」と言って兵衛を促した。先ほどとは違い、二人は並んで歩く形になった。あくまでも感情を抑えた口調で初音が話し続ける。
「他の洞家の娘であった母親はもともと一つ鬼で、角もちゃんと頭にありました。しかし私を
「生えていた角が抜けるなどと、そんなことが?」
「本当にごくごくまれに」
初音が小さく笑う。
「当時は私を産むことも大反対され、母親は蔵に閉じ込められました。しかし母親は誰にも頼らず私を産み、その後、
「それだけで
「それだけと言うよりも、ちょうど二つ鬼をどこかの洞家へ登用したいと考えていた鬼伯にとって、
「……」
この手の話は
しかし、だとしても、温情的な
「よく、侍女として奥院へ上がれたものだ。なし者への風当たりの強さは、いろいろと耳にする」
「だからでございましょう」
初音が自嘲的に口の端を歪める。
「我らから
そこまで言って初音は足を止めた。そして、綺麗に手入れされた庭を見る。
「でも私は藤花様に出会いました。なし者の娘として
初音、おまえはなしが
「姫様は、私を『貴重な存在』と言うてくださったのです」
初音が勝ち誇ったように笑う。
「今、弟子殿のことを否定するは、私を『貴重な存在』と言った藤花様を否定するも同じ。なればこそ、私はお二人の味方です」
そして彼女は、ぐるりと周囲を確認してから、「こちらへ」とすぐ脇の細い廊下に入った。入ってすぐのところに板戸があり、彼女は素早く引手に手をかけた。
「お時間は、ほんの少しお話をされる程度にございます」
戸が開く。背中を押されるようにして兵衛が中に入ると、そこに藤花が待っていた。
「兵衛!」
藤花が胸に飛び込んできたのと、板戸がさっと閉まったのとが同時だった。とっさに彼女を受け止めて、兵衛が戸惑いがちに藤花を見る。
「藤花様、このようなところで何を?」
まさかあの流れで藤花と会うことになるとは想像もしておらず、兵衛は思わず彼女に言った。部屋は
藤花がもぞっと顔を上げ、無邪気な様子で満足そうに兵衛を見返す。
「何やらいろいろとうるさいゆえ、これからは初音の手引きで会うことにした。これなら問題なかろう?」
「問題大ありです」
兵衛が呆れた顔で嘆息する。そんな彼を藤花はじっと見つめた。
「次はいつ会える?」
「いつ、と申されましても」
答えに窮し、兵衛が口ごもると、藤花がつまらなそうに頬を膨らませた。
「ちゃんと約束せねば、ここから出さぬ」
「……では、また近いうちに」
「本当に?」
「はい」
確証があるわけではなかったが、
しかし藤花はまだ不安げな様子で、彼の身ごろをきゅっと掴んで放さない。ややして、彼女が呟いた。
「証しが欲しい」
「証し?」
「必ず会いに来てくれるという証し」
言って藤花がねだるような目を兵衛に向けた。兵衛が戸惑いがちに目を伏せる。
その眼差しの意味が分からないはずがない。
兵衛は
しかし藤花は恨めしげに兵衛を睨み、唇を震わせた。
「やはり私は物足りぬか」
「誰がそのようなことを申しておりますか」
「だって、してくれぬ」
最後の方は半べそ声だ。
兵衛は困り果てた。こちらは必死で節度をもって接しているのに、彼女はそんなことを
これ以上進んでしまえば戻れない。しかし、進んだところで行き止まりだ。
「藤花様、私たちがどのような関係になろうとしているか、あなたは分かっておいでか」
兵衛が真剣な目で藤花を見つれば、彼女が「当然だ」という目を返す。
「分からぬほど子供ではない」
「……いいえ、分かっていない」
半ば投げやりに言い返し、兵衛は藤花のあごをすくい上げた。大きな宝玉のような深紫の瞳が不安げに揺れた。
ほらやっぱり、分かっていない。
兵衛はゆっくりと顔を近づけると、彼女の唇に自分の唇を重ね合わせた。それを二度ほど繰り返し、あごを捉えた手でぐいっと彼女の口を開ける。そして、彼はその可憐な唇に深く自身のそれを絡ませた。
深く、深く──。強引に舌を入れると、藤花の体がびくりと震えた。
しかし構わず彼女の口の中をかき乱す。彼女の舌がおずおずと答え、重ね合う口の端から熱っぽい吐息がどちらからともなく漏れた。
ひとしきり舌を絡ませあった後、二人はゆっくりと唇を離す。だがしかし、鳶色の瞳と深紫の瞳は、まだ絡み合ったままだ。
「藤花様、この先には何もありません」
「知っている」
「どうだか、」
兵衛は彼女の唇を親指で優しく拭うと、そのまま彼女を抱き寄せた。
「会いに来ます」
耳元で囁いて、その可愛らしい耳たぶを噛む。
藤花から吐息にも似た声が返ってきた。潤んだ瞳が女の色をまとい、もう後戻りできないことを知る。
折しも部屋の外で初音の遠慮がちな咳払いが聞こえ、名残惜しく二人は離れた。
何事もなかったかのように兵衛が廊下に戻ると、初音もまた、何事もなかったかのように歩き始めた。長い廊下の先、
「何かあるときは私へ。もしもの時も、私と弟子殿が疑われるだけにございます」
兵衛はそれに応えることなく、初音の前をすり抜け主が待つ部屋へと向かった。
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