9)九尾との盟約
九尾との盟約(1)
次の日の朝、藤花の部屋を訪れた初音は、藤花のありさまに呆れた。
「
美しい藤の打掛がもぞもぞと動く。高価なそれは、ところどころ土で汚れ、見るも無惨な状態だ。どうやったらこんなに汚れるのかと、初音は内心嘆息した。
「せっかくの打掛を、一晩でものの見事にまあ──」
昨夜は大勢が入り乱れる宴の夜。そんな中、藤花が中座して奥院へ向かうところを初音は見逃しはしなかった。
当然ながら、兵衛とは事前に式神で連絡を取り合っていた。「いつもの庭で待つように」と伝えたのは他ならぬ初音だ。
後は、あの辺りに誰も近寄らないよう、さりげなく侍女として采配した。
まあそもそも、宴の日に誰も近寄るような場所ではないのだが。
「姫様、まずは顔をお見せくださいませ」
なかなか起き上がらない藤花に再び声をかける。すると、ようやく藤花が気だるそうに半身を起こした。
しかし、藤花の泣きはらした顔を見て、初音は驚いた。
「……どう、なされたのです?」
膝をついて、彼女の顔を覗きこむ。夜遅くまで兵衛と過ごし、ただの寝不足だと思い込んでいた。
「弟子殿と、喧嘩でもなさったのですか?」
「違う」
「では──」
汚れ果てた打掛を見ながら初音はその目をつり上げた。
「まさか無理やり、乱暴でもされたので?!」
「違う。早とちりするでない。それは……、私が許した」
藤花が戸惑いながらも、すかさずきっぱり否定する。
「私が望み、兵衛はそれに応えてくれただけじゃ」
「ならば、何を──?」
「……嘘を、ついた」
独り言のように呟いて、藤花は悲しげに顔をそむける。初音が「嘘?」と怪訝な顔をした。
そう、兵衛は最後に嘘をついた。
その気もないのに自分を「人の国へ連れて行く」、と。
兵衛はできないことを「できる」とは決して言わない。自分たちの関係でさえ最初から終わっていると、はっきりと言っていた彼が、最後の最後で嘘をついた。
私が、つかせた。
兵衛と体を重ね、一つになり、永遠が手に入ると思っていた。
あの濃密な時間が幸せであったからこそ、何ごともなかったように身なりを整え、「戻ろう」と口にした兵衛に
離れられないと思ったのに、なぜ?
やっぱり彼は去っていくのかと、全てを否定されたような気持ちになった。
自分は何も分かっていなかった。
「藤花様、湯浴みの用意をします。体を流せば、いくぶんか気持ちも落ち着かれましょう」
落ち込む藤花に初音が優しく言った。そして小声で付け加える。
「不都合があるようなら、人払いをし、私だけがお世話いたします」
初音らしい気遣いだ。そう言えば、兵衛も別れ際に似たようなことを言った。
湯浴みや着替えは初音に頼むように、と。
「ふふ、」
自嘲的な笑いが自然と口から漏れた。
果たしてこれは、誰に対する気遣いか。ここまで私を好きにして、いいだけ体に自分の
だとしたら、なんとずるい男か。
「藤花様?」
「……いや、障りない。いつもどおり入る」
「かしこまりました」
何も知らない初音は、ほっとした顔で一礼すると、急いで部屋を出て行った。
しばらくして、準備ができたらしく初音が呼びに来た。
「藤花様、お召し物があまりに汚れております。こちらで先に着替えましょう」
「かまわぬ。面倒じゃ、あちらで脱ぐ」
そう言って、藤花はさっさと湯殿へと向かい始める。初音はやれやれと後を追った。
湯殿には、数人の侍女が藤花が来るのを待っていた。朝から湯浴みの準備をさせられて少々迷惑顔な彼女たちも、藤花が登場すると
藤花が打掛を脱ぎ捨てる。初音はそれを受け取りながら、彼女の脱衣を手伝った。
が、しかし、彼女の着ている物を脱がそうとして、その白い肌が露になった時、初音は思わず脱がしかけたものをとっさに元に戻した。
「……き、消えておらぬではないかっ」
唸るように小声で吐き捨て、初音が衣の
「どうした。早く脱がしやれ」
「姫様、なりません」
完全に油断をしていた。いつも朝になったら消えていたから。藤花が「障りない」と言ったから。だから、いつものとおり痕は消えていると思っていた。
どういうことだと藤花を問いただしたいが、他の侍女の手前、それもできない。
「かまわぬ。おまえがしないなら、一人で脱ぐだけじゃ。やましいことなど、何もしておらぬ」
完全に覚悟を決めた顔の藤花が、「早う」と初音を急かす。他の侍女たちは、怪訝な顔で何やらもたつくこちらを見ている。
もう、逃げ場はない。
初音は、大きく息を吐き出してから、ゆっくりと静かに、藤花の着ている物を脱がした。
その場にいた全員が藤花の体を見て、あっと息を飲む。
無数につけられた、みだらな
全裸の藤花が全く意に介する様子もなく湯船に向かう。
初音が、立ち尽くす侍女たちを叱咤した。
「ここは、私一人で十分じゃ。他の仕事にまわれ!」
「初音、怒るでない」
藤花が初音をたしなめる。そして彼女は、満足げに湯船に浸かった。
何もなかったことになどさせない。
私は間違いなく兵衛のものになったのだから。
その日、奥院は藤花の噂で大騒ぎになった。
湯浴みを終えてしばらくすると、血相を変えた
「千紫様、昨夜はお泊まりだったので? 少しは姉上と話ができましたか?」
あの
「そんなことは、どうでもよい! 湯殿でのこと、大変な噂になっておる!」
藤花は「ああ、あのこと」と鼻を鳴らした。
「噂好きな者が多いことで。何がおもしろいのやら」
「何を悠長な──」
そして深芳は、部屋の隅に控える初音に厳しい目を向けた。
「初音、おまえは何をしておったのじゃ!」
「も、申し訳ありませぬ」
初音が恐縮して頭を畳に擦りつける。そんな姉姫を藤花が止めた。
「昨夜、初音は客人の世話をしていたではないですか。だいたい、今回のことに初音は関係ない」
「藤花!」
「深芳、落ち着きなされ。藤花の言うとおりじゃ」
千紫が落ち着いた口調で深芳をなだめる。そして彼女は、藤花を見た。
「相手はどこの誰か? 名のある方であれば、まだ手の尽くしようもあるというもの」
「名のある?」
藤花が口の端に皮肉げな笑みを浮かべる。
「部屋へと帰る道すがら、たまたまつまんだ男ですので、どこの誰やら」
深芳が「は?」と絶句する。
「どこの誰かも分からぬと?」
「はい。私のことを美しいと言ってくれましたゆえ」
「おまえは酒でも飲んで酔っておったのか?」
そして彼女はそのままよろめき、倒れそうになったところを千紫に支えられた。
「深芳、あなたは少し休んだ方がいい。あとは私が藤花と話をしよう。初音、深芳を部屋で休ませてくれますか?」
「はい」
初音に支えられ深芳が部屋を出ていく。そして、誰もいなくなってから、千紫はあらためて藤花に向き直った。
「藤花、相手は誰か?」
「知りませぬ」
藤花がしつこいと言わんばかりにそっぽを向く。千紫は小さくため息をつくと、今までより少し優しい口調で言った。
「聞き方が悪かった。お相手は、おまえがお慕いしている御方かえ?」
藤花は答えない。しかし、彼女は満足そうに笑った。千紫が小さく頷いた。
「ならば、何も言いますまい。深芳には私から適当に話そう。伯には、なんと申し上げるつもりじゃ?」
「別に。行きずりの男をつまんだと」
「それでは納得されるまい。それに、噂も簡単には収まらぬ」
「噂も何も、事実ですから」
藤花が悪びれず答えると、千紫は「確かにそのとおりじゃ」と苦笑した。
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