宴の夜(3)
夜空に浮かぶ月が、西に傾き始めていた。兵衛は、自分の身なりを整えながら藤花に声をかけた。
「藤花様、お召し物を。お体が冷えてしまいます」
「……」
藤花から返事はない。上等な藤の打掛の上に座り込み、ぼんやりと風に揺れる花房を見ている。小袖を羽織ってはいるが、帯も閉めずにはだけたままで、そこから覗く白くなめらかな乳房が美しい。いいだけ味わったはずなのに、再び体の奥が熱くなるのを兵衛は感じた。
とは言え、もう時間がない。際限のない己の欲に半ば嫌悪を感じながら、とにかく彼女を送り届けなければと気持ちが焦る。
ことが終わってから、持っていた
体中に付けた
「狂え」と言われ、狂ってみた。いや、藤花に手を出した時点で、すでに何かがおかしくなっている。腕の中、
すべてが済んだ後、
ずっとこうしていたいと思った。しかし、そんなわけにもいかず、「もうそろそろ戻らねば、」と藤花に声をかけると、彼女にひどく恨めしい顔をされた。
どうして彼女がそんな顔をするのか分からなかった。ただ、胸の奥がずきりと痛んだ。
甘く濃密な時間の後に残ったものは、ほんの少しの満足感とひどい自己嫌悪だ。しかし、それもこれも「これは彼女が望んだことだ」と言い聞かせ、誤魔化した。
「藤花様、もう戻らねばなりません」
兵衛は再び藤花に声をかけた。そして、はだけた衣をきちんと順に重ね合わせ、両脇を持って彼女を立たせると、さらに身なりを整えた。
黙ってされるがままになっていた藤花が、ややして、ぽつりと呟いた。
「まるで何ごともなかったかのように振る舞うのだな」
「そんな訳ないでしょう」
兵衛は打掛を拾って土を払った。すっかり敷物代わりになっていたそれは、見るも無残な状態だ。それでも藤花に羽織らせれば、愛らしい姫ができあがった。
藤花の乱れた髪を指で
「結び方が気に入りませんか?」
「……気に入らぬ」
藤花がむすっと口を尖らせ兵衛を睨んだ。
「いちいち女の扱いが上手い。どこぞの女に、同じように小袖を着せ、髪を結んでおるのか?」
「……私は、なんだかんだと藤花様の倍は生きております」
苦笑しながら否定も肯定もせず、彼女の頭上の角に口づける。
そして、兵衛は再びエイを出すと、彼女の手を引いた。
「さあ、戻りましょう」
しかし、藤花はふいっと顔をそらし、泣きそうに眉根を寄せた。
「……よくも戻るなどと平気で──。そうして私を奥院へ押し込めるのか?」
「藤花様?」
刹那、藤花が兵衛にすがりつく。
「次はいつ会える? 明日? 明後日?」
「そんなに早くは──」
「では、帰らぬ。ここに住む。兵衛といる」
いきなりそう言って、藤花は兵衛の胸に顔を埋めた。兵衛は慌てた。
「子どものような駄々を──。帰らねば、大騒ぎになります」
「帰ったら、また一人ではないか。私と大騒ぎと、どちらが大事なのじゃ」
「また、会いに来ます。待っていてください」
「いつまで? そのうち来なくなったら? おまえは人の国のあやかしで、伏見谷の者で、阿の国にも
最後は責めるような口調で、藤花がまくし立てる。その瞳に涙が溢れる。
「どう、なされた?」
兵衛はただただ戸惑った。つれない態度をしたつもりはもちろんない。
二人でおもむくままに愛し合い、ついさっきまでその余韻に浸っていた。
それなのに、彼女は、まるで捨てられる子猫のようだ。
「藤花様、遊びであなたを抱いたわけではありません。もちろん、命令されたからでもない」
「分かっておる」
震える声で答えながら藤花が唇を噛む。
「でも、不安が消えぬ。私を抱いても、兵衛、結局おまえは帰ってしまう。今度またいつ会えるか分からないというのに」
言って彼女は涙で潤んだ瞳をさ迷わせた。
「もう、これ以上、何をすればいいのか分からぬ。一つになったはずなのに、一つにならぬ」
「……」
自分はどれだけ愚か者なのか、彼は思った。
男女の交わりなど、最初から刹那的で永遠ではない。
そんな当たり前のことでさえ、この無垢な姫は知らない。そして何も知らない姫は、そこに永遠を求め、永遠がないことに気がついた。
本当に寄り添うべきは、彼女の心だというのに。こんな簡単なことにも気づかずに、欲するままに彼女を抱いた。
どうして、自分は傷つけることしかできないのか。
兵衛は藤花を抱き締めた。
「藤花様、泣かないでください」
瞳からこぼれ落ちる涙は、まるで月光の
「兵衛、一緒にいたい。ずっと、ずっと」
「はい」
「帰りとうない。離れとうない」
「はい」
「藤花様、いつか人の国へお連れしましょう」
できるあてもないことを、兵衛は思わず口にする。
藤花がゆっくりと顔を上げ、まじまじと兵衛を見た。
「私を、人の国へ?」
「はい。ですから、今宵は帰りましょう。待っていてください」
藤花が、戸惑った様子で目をそらしうつむいた。
ややして、
「……分かった」
と彼女は呟いた。
ひとまずほっと胸をなでおろしつつ、兵衛は藤花を抱き上げた。そして涙で濡れる頬に唇を寄せる。
いつもなら、くすぐったそうにはにかむ藤花なのに、今夜の彼女は悲しげな表情を浮かべるだけだった。
二人を乗せたエイが夜空高く舞い上がった。
奥院と執院をつなぐ
少々酒を飲みすぎた、と彼は思った。こんな時は、夜風にあたり月を眺めるに限る。
宴はひとまず終わったが、まだ広間には大勢の鬼たちが酒を
兵衛とはいつもこの場所で落ち合うことにしていた。
ただ、いつもなら、必ずと言っていいほど先に待っているはずの男が、今日に限っていなかった。
まあ、こんなこともあるだろう。
すると、奥院の方から兵衛が現れた。
「遅れました。申し訳ありません」
「なあに、儂も今来たところよ」
言って九尾はちらりと兵衛の様子を確認した。
珍しい方向から来たと思った。奥院は、鬼伯とその家族のいわば私邸だ。
普通の私邸と違うのは、侍女や侍従など、一族の日常生活を世話する者も大勢ここに住んでいることだ。
(暇に飽かせて、どこぞの侍女でもつまんできたか)
この愛弟子は、地味顔で通っているが、腹が立つほど女にもてる。先日、大けがで奥院に運び込まれた時も、最初こそ敬遠されていたが、帰る頃には気位の高い奥院の侍女たちの間でお世話の取り合いになっていたと聞く。
そのくせ、当の本人は飄々としたもので、執着もなく後腐れもないから始末が悪い。
(やれやれ、困ったものだ)
そう思いながら、「では行くか」と兵衛を促した時、ふと甘い匂いが鼻についた。
どこかで覚えのある匂い──。
ああそうだ。これは、ここ最近、兵衛がよくつけてくると思っていた匂いだ。
(なんだ、そうか。これと同じ匂いか……)
頭にかかっていた
と同時に、九尾はにわかに混乱し始めた。「どこかで嗅ぎ覚えがある」と言ったのは兵衛にではない。かの奥院の末姫だ。
なぜそうなる?
「
立ち止る九尾に兵衛が怪訝な顔をする。
「……兵衛、」
「はい」
「いや──。なんでもない」
兵衛を問いただそうとし、しかし、どう聞けばいいか分からなく、九尾は言葉を濁して口ごもった。
しかし後日、月夜の姫の醜聞が九尾の耳に届くことになる。
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