九尾との盟約(2)
ここは人の国、伏見谷──。
人里から遠く離れた山奥の、閉ざされた谷である。閉ざされた谷ではあるが、足を一歩踏み入れれば豊かな田園と家々が並ぶ集落が現れ、決してうらぶれた場所ではないことが分かる。
そしてその集落を見下ろす丘陵に、「
九尾は、屋敷の一室で、
阿の国、北の領には九尾に
そのため、九尾はこうして独自の手段で情報を手に入れていた。
先日の御前会にも、ある目的で出席した。そこそこ満足のいく収穫はあったのだが、今はそれをどう
ややして、廊下に兵衛が現れた。
「
「ああ悪いな、兵衛」
読みかけの手紙を傍らに置いて、九尾が顔を上げた。兵衛がちらりと手紙に目をやる。
「
「ん? ああ」
曖昧に答え、九尾が「それより」と、脇息を自身の前に持ってきて前のめりになる。
「兵衛、篠平へ行ってくれるか」
「篠平ですか?」
「何やら人間と揉めているらしい。橘家の者と一緒に行って収めてきてくれ」
橘家とは、この伏見谷の入り口に位置する地で神社を守る人間の一族だ。人間とあやかしが揉めている時は、こちらも人間を連れて行った方が話がすんなりいくことが多い。
「分かりました。いつから?」
「すぐにでも。できるだけ穏便にすませろ。時間はどれだけかかってもいい」
「どれだけかかっても?」
「そうだ。慌てずにゆっくりやれ」
最後の九尾の言葉が、妙に兵衛の耳に残る。しかし彼は、それ以上気にすることなく、一礼をして立ち上がった。
兵衛がいなくなってから、九尾は再び傍らに置いた手紙を見やる。
「さて、どうしたものか」
その手紙には、月夜の里で持ちきりとなっている奥院の末姫の
藤花の浅慮な行いを聞きつけた
そこへ深芳が割って入り、藤花を庇うと、今度は怒りが母親代わりの深芳へ向いた。深芳は影親の実子ではない。こうなると、一方的になる。
見かねた藤花が今度は姉を庇い、さらに影親が怒り出すという、収拾のつかない状態になった。清影が騒ぎを聞きつけ来てくれなかったら、どうなっていたか分からない。
その日から、藤花の世話は
今さらこんなことをしなくても、と藤花は鼻で笑った。昔から、自分は
それに兵衛はしばらく来ない。「いつ会える?」と尋ねた時、「そんなに早くは」と言葉を濁した。多分、いつ会えるか分からなかったのだろう。
初音は、この状況を兵衛に伝えているだろうか。藤花は思った。
彼女のことだから伝えているかもしれない。しかし、そうなると兵衛をまた追い詰めることになるなと、藤花は胸が痛んだ。
同時に、私を奥院に戻すからこんなことになるんだ、と恨みがましく思っている自分もいる。少しは私のことを心配すればいいのだと。
そんな自分のわがままさ加減に
いくほどの日数が過ぎただろう。
その日は朝から雨が降っていた。北山で兵衛と逢った日々がずいぶんと遠い昔に思えた。ほんの三か月ほど前のことだというのに。
藤花は障子戸を開けて廊下に出た。
雨の湿気を含んだ涼しい風が、夏の終わりを感じさせる。藤花は廊下に控える奥頭に声をかけた。
「
奥頭が少し思案顔になる。しかし、最初の頃のように何を言っても「駄目だ」の一点張りでもない。
ここ最近、奥頭の監視も少し緩くなってきた。当然だ、何も起こりはしないのだから。
「私の部屋につきっきりでは、おまえも自分の仕事ができないだろう」
藤花がさらに一押しすると、奥頭はしょうがないと頷いた。
「……では、しばらくの間」
「うむ。それと、お茶を頼む。初音にでも持ってこさせてくれ」
「かしこまりました」
奥頭が一礼をして下がっていく。ちゃんと初音が持ってきてくれるだろうかと心配しながら、藤花は奥頭の後ろ姿を見送った。
誰もいなくなってから、藤花は廊下に座った。雨は優しく降りそそぎ、軒下から落ちる雨垂れは、規則正しく地面を叩く。
藤花は、いつかのように雨垂れに合わせて
「見事にございます」
ふいに野太い声がした。
「誰かを思ってお歌いですか?」
藤花が歌うのをやめ、声のした方に顔を向ける。
ぎょろりとした目に太い眉、頭には二本の角。手には、その容貌には不釣り合いなお茶をのせたお盆を持っている。
「
そこに立っていたのは、初音ではなく、かの愚直な若鬼であった。
重丸は立ったまま深々と頭を下げた。
「お久しぶりにございます」
「なぜ、おまえがここに?」
「藤花姫がお茶をご所望だと、
藤花は内心(奥頭の奴め!)と思った。
しかし、それにしても姫の私室に殿方を通すなど普通はない。
奥頭の意図が読めず不審な顔をする藤花に重丸は苦笑した。
「伯のお許しは取ってあります。というより、実を言うと、伯に命じられてここに」
重丸が答えた。そして、「近くに座っても?」と付け加える。
藤花が拒める訳もない。また兵衛が気を悪くしそうだと思いながらも、藤花は彼に頷き返した。
重丸が笑みを浮かべ、緊張した面持ちで隣に座った。そして慣れない手つきで藤花にお茶を差し出す。
藤花は、すぐには差し出されたお茶を飲む気にもなれず、かと言って彼と話すこともなく、所在なく雨に濡れる庭を眺めるしかなかった。
ややして、重丸が遠慮がちに口を開いた。
「ずっと部屋に閉じ込められているとお聞きしました」
本当に言いたいのはそこではないだろう。藤花は小さく鼻で笑った。
「幻滅したか? 私が誰とも分からぬ男と寝たと聞いて」
藤花がずばりと返すと、重丸は気まずそうに笑った。
「ええ、まあ。幻滅というより……、悔しく思いました。私は、口説く間さえ与えられず、あなた様にふられた訳ですから」
してやられたとばかりに重丸が頭を掻く。しかしすぐに、その大きな瞳を力強く光らせ、藤花をまっすぐに見返した。
「噂は信じておりません。信じておらぬと言うのは──、その、誰とも分からぬ男という部分だけですが」
藤花はふふふと笑った。
「寝たところは信じておるのか」
「残念ながら。どの侍女に聞いても湯殿で見たと、」
その何とも言えない困った顔が、
「すまぬ。おまえの気持ちには応えてやれぬ」
「は、」
重丸が神妙な顔つきで頭を下げる。しかし、どちらからともなく笑い声が漏れた。
と、その時、庭木の影から蛙がぴょんっと飛び出した。そして、嬉しそうにゲコゲコと鳴く。
「蛙……ですか。この季節に」
「うむ、蛙だな」
藤花の胸がにわかに騒ぎ始める。ちらりと重丸に目をやると、彼はただ物珍しそうに蛙を見ているだけである。
これは偶然か? いいや、そんなはずはない。
目の前の蛙が誘いであると、藤花は確信した。すぐにでも蛙とともに飛び出したいが、重丸がいる手前それもできない。
「重丸、もうここはよい。下がりやれ」
藤花は、はやる気持ちを押さえつつ素知らぬ顔で言った。すると、重丸が再び頭を下げ、口を開いた。
「藤花姫には不本意でございましょうが、お部屋の警護を仰せつかりました」
「なんと。それを早く言わんか」
意味もなく父親が許すなど妙だと思っていたのだ。いや、そもそも、重丸に部屋の警護を任せると言うことは──。
藤花の思いを察したのか、重丸が苦笑する。
「姫の縁談も合わせて承っておりますが、そこは後日あらためて断らせていただきます」
「やはり、そうか!」
「しかし、仰せつかりました仕事については、一切の手抜きはしませぬゆえ、ご容赦を」
最後は重丸らしく真面目に締めくくる。
藤花の目の前で、季節外れの蛙はぴょんっと跳ねて、そのままどこかに消えてしまった。
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