九尾との盟約(3)

 その日、藤花は欝々うつうつとした夜を過ごした。せっかく現れた蛙はどこかへ消えてしまい、部屋の前にはあろうことか六洞りくどう重丸。


 奥頭おくがしらは任が解けてせいせいしているだろうが、藤花の方はたまらない。頭の固い重丸は、一切の手抜きなしだ。


 これは今まで以上に絶対に抜けられないな、と藤花はがっかりした。蛙が消えてしまったのも、きっと無理だと思ったからに違いない。

 夕餉ゆうげを終えると、藤花は早々に床に就いた。起きていてもやることがないからだ。


 しかし、布団に入ってもなかなか寝つけず、藤花は何度も寝返りをうった。そして、ようやくそれも疲れてウトウトとし始めた頃、再び蛙の鳴き声が庭先から聞こえた。


 来た──!


 藤花はぱちっと目が覚めた。しかし、重丸がいるので顔を出すこともできない。

 外では蛙が急かすように鳴いている。


 ゲコ、ゲコ、ゲコ──。ゲコ、ゲコ、ゲコ──。

 ゲコ、ゲコ……。


 蛙の声はうるさいくらいだ。

 いや──、いくらなんでも鳴きすぎだ。


 ここまで鳴いたら、さすがの重丸も不審に思うはず。なのに、外はしんとしており、重丸が動く気配すら感じない。

 そもそも、蛙の鳴き声以外、何も聞こえない。


 藤花は外の様子を確認するため、そろりと障子戸を開けた。


 いつもと変わらない庭。しかし、何かが違う。戸を開けて、すぐ傍らには重丸がぐっすりと寝入っている。

 警護中に寝てしまうような者ではないだろう。


 試しに彼の肩を揺すってみたが、彼は固く目を閉じたまま起きる様子もない。彼だけではない。草木も虫も、何もかもが眠っている。そう、今、起きているのは自分だけだ。


「これは──?」


 ようやく藤花が異変に気づいたその時、


「姫、」


 庭木の影から蛙を手にのせ、兵衛が現れた。灰茶色の小袖に裾の擦りきれた藍の袴をはいたその男は、藤花と目が合うと、鳶色の瞳を優しく和ませた。


「兵衛!」


 藤花は、裸足のまま庭に下りて、兵衛に飛びついた。兵衛が藤花を受け止める。彼の手から蛙がぴょんっと飛び出して、ぽとりと地面に着地した。


「会いたかった──。もう来てくれぬかと……」

「なぜ?」

「いっぱいおまえを困らせた」


 言いながら藤花は彼の首に両腕を絡ませ、その胸に頬を寄せた。


 しかし刹那、


 寄せた頬に言い表せない違和を感じ、藤花は思わず顔を上げ、兵衛の体を押しやった。


「おまえは──、誰じゃ?」

「……やれやれ、こんなに早く気づくとは、」


 ため息混じりに目の前の兵衛が答える。兵衛であってそうでない者は、可笑しそうに顔をかしげた。


「ふうむ。抱き心地でも違ったか?」


 次の瞬間、兵衛の姿がぼんやりと崩れ、そこから新たな男が現れる。

 亜麻色の長い髪をさらりと揺らし、薄墨色の瞳、それは彼のあるじであり、大妖狐と呼ばれる九尾その者だった。


 藤花は目を見開いて驚きながら後ずさった。しかし、すかさず手首を掴まれ、引き戻される。


「残念だが、兵衛はしばらく来ない。儂が厄介な仕事を任せたからな」

「九尾様──! なぜ……」

「なぜ? 古今東西ここんとうざい、狐は誰かを化かすもの」


 藤花の問いをはぐらかし、九尾は口の端を皮肉げに上げた。そして彼は、藤花のあごを持ち上げて、鋭い目で彼女を射抜いた。


「その愛らしく無邪気な顔で、うちの兵衛をそそのかしたか? ん?」

「そそのかしてなど──」

「じゃあ、どういうつもりだ?」


 藤花の言葉を九尾が厳しく遮った。初めて見る彼の横柄な態度に藤花は戸惑う。大妖狐と呼ばれる狐は、ひやりとする瞳の奥にうっすらと怒気をはらませた。 


「分かっているのか? このことが露見してみろ、手を出した兵衛はただではすまない。おまえにその気がなくても、状況がそうさせる。もちろん藤花姫、おまえは粗野な男に乱暴された可愛そうな姫君だ。同情されこそすれ、とがめられることはない」

「……」


 そんなことはない、そう否定しようとし、否定することができず、藤花は黙り込んだ。

 泣きそうな顔で俯く藤花の首に、九尾の手がするりと回る。月明かりもなく、風もなく、虫の音も聞こえない。今この空間は完全に九尾の支配下に置かれていた。


「さて、どうしたものよ。今の状態では、おまえが兵衛のためになるとは思えない。むしろ邪魔だな。兵衛にとっても、伏見谷にとっても。まこと、迷惑なことをしてくれたものよ」


 藤花の首に添えられた彼の手に力が入る。藤花が冷静な顔で九尾を見返した。ただ、九尾から浴びせかけられた「邪魔」と「迷惑」という言葉が辛かった。


「九尾様、私を殺しますか?」

「儂としては、このままくびり殺してもいいし、この闇夜の庭に永遠に閉じ込めてもかまわない。が──」


 そこまで言って、九尾は手を緩めた。


「そのようなことをしては、兵衛が苦しむ。おまえがどうなろうが、儂の知ったことではないが、兵衛が苦しむことはしたくない。あれは、儂が拾い、儂が育てた。血はつながらずとも、大切な家族だ。儂がいなくなった後は、兵衛が谷を守ってくれるだろう。だからこそ、できる限りのことをしてやりたい」


 最後は独り言のように九尾は言った。まるで、もうすぐ死んでしまうような彼の物言いがひっかかったが、彼は藤花に問いかける余地を与えなかった。

 そして九尾は、含みのある笑みを藤花に向けた。 


「藤花姫、ひとつ儂と取り引きをしないか?」

「取り引き……」

「そうだ。伏見谷にとって邪魔で迷惑でしかないおまえが、一転して価値ある存在となれる。決して悪い話ではないと思うがな?」


 底の知れない薄墨色の瞳が藤花を捉える。目の前のあやかしを今ほど恐ろしいと思ったことはない。

 彼は「取り引き」と言ったが、まっとうな「取り引き」など、あるはずがない。あるのは応か否の二択であり、運命の選択であることを藤花は感じた。


 藤花はごくりと生唾を飲み込む。九尾が何を要求してくるのか、まったく分からなかった。それでも、万に一つ、兵衛を自分の元へつなぎとめておけるのであれば、応じない手はない。


「それは、いかなるものです?」


 覚悟を決めた藤花が、まっすぐに九尾を見返す。すると、九尾は満足そうに頷いて、腰に差した妖刀・焔に手をかけた。





 兵衛が篠平から戻ってきたのは、およそ一か月ほど経ってからだった。

 篠平では、あやかしが集まりだしたことに恐怖を感じた人間たちが討伐隊を出し、あやかしと小競り合いとなっていた。この手の騒ぎは珍しくない。あちこちで大なり小なりあることだ。


 問題は、どう収めるか。相手を完全に排除しようとすると、争いも長引き犠牲も大きくなる。なので、お互いが相手に向けた刃を収め、干渉し合わない約束事を取りつけること──、これが一番現実的な解決法だ。


 しかし、この約束事が難しい。人間はあやかしを信じておらず、あやかしも人間を信じていない。信頼関係がない両者に約束をさせるのだから、時間がかかる。そして、これに個々の思惑や利害が絡むと話がさらにややこしくなる。


 兵衛は、通常なら二、三か月はかかる交渉を一か月でやってのけて帰ってきた。九尾には「ゆっくりやれ」と言われたが、兵衛はゆっくりするつもりはなかった。

 ずっと、藤花のことが気にかかっていたからだ。

 宴の夜、離れたがらない藤花を「もう行かないと」と無理やり引き離して部屋に置いてきた。

 我ながら酷いことをしたと思う。もしかしたら、彼女はもてあそばれたと思っているかもしれない。


 篠平からも御化筋おばけすじは通っているので、月夜に行くことは可能だった。

 しかし、さすがに任務の最中に藤花の元へ行くことは躊躇ためらわれた。となると、あとは急いで役目を果たして帰るしかない。


 帰り道、同行した橘が「大坂に寄ろう」と言い出したのにも、苛々とさせられた。しかし、小間物屋で珍しい硝子細工の藤のかんざしを見つけ、密かにそれを買った。女のために何かを買うなど初めてだった。


 彼女は喜んでくれるだろうか。


 兵衛は、和紙に包まれたかんざしを大事に懐へ忍ばせた。


 伏宮本家に到着し、まずはあるじへ報告に向かう。九尾は、いつもの書斎でくつろいでいた。


御屋形おやかた様、ただいま戻りました」

「兵衛、思いのほか早かったな」

「は、橘がいてくれて助かりました」

「で、首尾は?」


 兵衛は、篠平でのことの次第を詳しく九尾に説明した。兵衛を報告をじっくり黙って聞いていた九尾が、最後に満足そうに頷いた。


「ご苦労だった。よく短期間で、そこまで話を詰めれたな。少し、強引に進めたのではないか?」

「大丈夫かと。多少の強引さは、この手の交渉にはつきものですし」

「ふうむ」


 九尾が思案顔で頬をさすった。そして彼は、少し間をおくと、あらたまった様子で口を開いた。


「兵衛、おまえに大事な話がある」

「なんでしょう?」


 兵衛が怪訝な顔を返すと、九尾は軽く頷き返した。


「つい先日、月夜の里に行ってきてな。そこで、影親かげちかと盟約を交わしてきた」

「はい」

「藤花姫を我が伏宮本家にもらい受けることにした」

「……え?」


 思わず兵衛は聞き返した。あるじが何を言っているのか、一瞬理解できなかった。九尾が「どうした?」といった風に片眉を上げ、兵衛は慌てて表に出た驚きを隠す。


「今、なんと……?」


 震える声を押さえつつ再び問えば、九尾は落ち着いた口調で兵衛に言い渡した。


「儂が死んだ後、妖刀・焔を受けぐ者──二代目九尾に、藤花姫をもらい受ける」


 兵衛の懐で藤のかんざしが、かさりと動いた。

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