5)叶わぬ恋
叶わぬ恋(1)
落山の屋敷には、徒歩で案内された。
真夜中の車も通ることが出来ない小道は、雪でさらに細くなっている。そこを鬼火だけで進んでいく。すると、森に囲まれた屋敷が姿を現した。
門前で波瑠が立ち止まり振り返った。
「ここには、
「兄……。九洞旺知に兄がいるなどと聞いたことがないが」
兄の存在もさることながら、一人で住んでいるということ自体にも深芳は驚いた。
「はい。なし者ゆえ、隠されております」
「なし者──」
深芳はさらに驚く。同時に、さっき旺知が「千紫がおまえになしの世話をさせる」と言っていたのはこのことかと納得した。
「では、参りましょう。どうせ書院でうたた寝していると思いますので、起こしても差し支えありません」
波瑠に続き、深芳は門をくぐる。前を行く波瑠は、慣れているせいか玄関もずかずかと入っていく。さすがに深芳が
それから小さな客間に案内された深芳は、波瑠でここで待つよう言われた。
本当になしの世話をさせるつもりなのだろうか。
早く千紫に会って話がしたい。そう思っていたところへ、部屋の外から波瑠の声がした。
「
「分かった」
深芳はすかさず返事をした。本当のところ、これ以上知らない誰かと言葉を交わす気になれななかった。
しかし、自分はすでに囚われの身である。あちらの言うことに従うしかない。
波瑠の後に続いて廊下を歩く。しばらく歩くと、庭に面した広い部屋に着いた。
「成旺様、お連れしました」
「ん。ありがとう」
波瑠に促され、深芳は部屋に入った。そして目の前の男に一礼する。
そこに、小袖を着流しただけの頭に角がない男が書物に囲まれ座っていた。
「
脇息にもたれ掛かり、片ひじをつきながらなし者の男は穏やかな笑みを浮かべた。
「深芳と申します」
深芳は両手をついて静かに一礼する。すると、成旺が「これが噂の里一の美女か」と感心する様子で彼女を眺め回し、面白そうに目を細めた。
「美濃の深芳野の深芳か」
「……左様にございます」
深芳は不躾な視線にあからさまに顔をしかめながら頷いた。
しかし、内心では驚いていた。「美濃の深芳野」と言われたのは、千紫を除いて初めてだったからだ。
「父君はどういうつもりでその名を?」
「単に音が気に入ったからだと聞いております。後は虫除けと」
「なるほど。いらぬ混乱を招きたくなくば、そなたに手を出すなということか。では、旺知は上手く逃げたな。戦利品にならぬとは」
「逃げるも何も、私を扱いかねたのでしょう」
戦利品と呼ばれたことに不愉快さを感じながらも平然と深芳が答えると、成旺が「ははは、」と笑った。
「これが千が何よりも大切だと言っていた友人か。面白い」
「……」
深芳はぴくりと片眉を上げた。成旺が千紫のことを「千」と愛称呼びしたのを聞き逃さなかった。いや、気に入らなかった。
「私は、何ゆえこちらに移されたのでしょうか?」
用心深く尋ねれば、成旺が「さあ」と肩をすくめる。
「私は、戦利品になるだろうと千に言ったのだがな。思った以上にそなたに執着があるらしい」
「そのような話を千紫としていらっしゃいますので?」
「千からは何かと相談を受けておるのでな」
「左様で」
深芳は、静かに立ち上がった。
「なんとなく分かりました。後は千紫本人から聞きまする」
言ってくるりと成旺に背を向ける。慌てて波瑠が止めようとしたが、それを成旺が止めた。
「それがいい。そなたも納得がいくだろう」
そのもったいぶった物言いも腹が立つ。深芳は打ち掛けの裾をぱさりと翻し、書院を出ていった。
結局、千紫が落山の屋敷を訪れたのは、朝も明けてすっかり日が昇ってからだった。客室で待ち続け、待ち疲れてそのまま寝てしまい、波瑠が
見慣れない部屋の天井に、これが現実であると再確認する。
あの嵐のような一夜から、まだ一日も経っていないことが信じられなかった。
食事も終わり、波瑠が膳を下げて行った後、小さな足音が気忙しく近づいてきた。刹那、
「深芳、」
障子戸がばっと開いて千紫が現れる。昨日と同じ打ち掛けと小袖を着て、結い上げた髪は少し乱れていた。目の回りが落ち込み、彼女が一睡もしていないことが見て分かる。
二人は、どちらからともなく手を取り合った。
「すまぬ深芳、」
開口一番千紫が言った。そして、彼女の頬を申し訳なさそうに撫でた。
「痛かったであろう。旺知に対し、あんな
「なんの。旺知の骨の一つでも抜いてやろうかと思うての」
深芳は笑いながら答えた。久しぶりに会った千紫は、さらに線が細くなっている。彼女は千紫の体を撫で回した。
「また痩せた。苦労ばかりしておるのだろう?」
「私のことはよい」
「よくない。それに、父上様と兄上様がどこかに連れていかれた。兄上様は喉を斬られ、怪我をしておる。あと、藤花がここにおらぬ。無事か?」
深芳が心の不安を一気にぶちまけると、千紫が何度も頷き、彼女をなだめた。
「
「逃げた……」
深芳は絶句した。まさか、そんなことになっているとは思いもしなかったからだ。同時に千紫の指揮で連れ戻されたことに納得しかねた。
「なぜ連れ戻したのじゃ? そのまま人の国へ見逃せば──」
「ダメじゃ。旺知が許さぬ。下手をすると
「今は?」
「奥院の自室で休んでおる。折を見て、
「そうか……」
深芳が落ち込んだ声で頷いた。分かっていることとはいえ、妹が実際に幽閉されると聞くと胸が
千紫がすまなさそうに頭を下げる。
「すまぬ。これ以外に助ける手だてを考えつかなかった」
「では、私は?」
深芳はさらに尋ねた。幽閉というのであれば、自分も同じ。藤花と同じ場所に閉じ込める方が効率的だ。なぜ自分は、旺知の兄の屋敷に移されたのか。
千紫が深芳を気遣うように笑った。
「藤花と違い、おまえは
「それで、ここに?」
「うむ」
千紫が目を細めてはにかんだ。
「
「そのようなことはどうでもよい。誰じゃ、あの成旺という男は?」
楽しそうに話し始める千紫の様子に、にわかに腹が立ち、深芳は彼女の言葉を遮って問いただした。千紫が戸惑った顔を返した。
「旺知の兄上様じゃ。波瑠から何も聞いておらぬのか?」
「聞きたいのはそこではない」
深芳は彼女に鋭い視線を向けた。
「あの男は、おまえのことを千と呼んでおる。可愛いらしいの?」
嫌味たっぷりに問い詰めれば、千紫が気まずそうに口をつぐむ。
そして、彼女はあちこちに視線をさ迷わせた後、
「成旺様は、私が……お慕いしている御方じゃ」
「お慕いとは、いかなる意味じゃ」
「言葉の通り。もう──、男と女の仲じゃ」
最後はきっぱりとした口調で千紫が告白する。深芳は、昨夜から続く一連の出来事の中で最も驚いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます