秘め事(3)

 奥院の廊下で、深芳は一人ぼんやりと細く尖った月を眺めていた。千紫は今頃どうしているだろうかと思いを巡らせる。


 昔から夜が嫌いだった。そして今もそれは変わらない。何もかもを覆い隠す闇は、ともすれば自分の心さえ黒く塗り潰す。


 久しぶりに会った千紫は、相変わらず凛としていたが、少し痩せたように見えた。また、旺知あきともの顔色をいちいち窺う様子からは、彼女の今の状況が推し測られた。


 あれは男に食い物にされている顔だ。とてもじゃないが、幸せそうには見えなかった。


 そして夫である九洞くど旺知あきともは、深芳の大嫌いなを千紫に向け、あろうことかこちらにも向けた。


 深芳が初めて男を知ったのは十八の頃、相手は父親の元に学びに来ていた若鬼だった。

 新月の夜、何も見えない闇夜で無理やり女を奪われた。耳元で呪いのように「惚れている」と繰り返され、最後は「おまえの美しさが儂を狂わせた」となじられた。


 意味が分からない、と今でも深芳は思う。


 この惨めな思いは、私のせいなのか。だとすれば、私はどうすれば良かったのか。己の欲望の暴走をなぜ私のせいにするのだ。


 あの時の、男の目は忘れない。そして、出会う男のほとんどが、自分をそんな目でしか見ていないことに深芳は気づく。女を食い物にする男の目だ。


 母親は美しい人だった。それこそ朴念仁の父には不釣り合いな。

 父親が執院へ上がるようになり、鬼伯影親かげちかの目に母親の姿が止まるまで、そう時間はかからなかった。


 母親の美しさに魅せられた影親に、彼女を差し出すよう迫られ、父親は謎の死を遂げる。たまたまの事故だったのか、自死だったのか、それとも殺されたのか、それは未だに分からない。


 真相はどうあれ、かくして母親は影親のものとなった。その後、しばらくして母親は藤花を身籠みごもる。この短期間で身籠るなど、とても珍しいことだった。それが原因だったのか、母親は藤花を産んで死んでしまった。


 それからは、母親に代わり、深芳が幼い藤花を懸命に育てた。自分を見る影親かげちかの目が、時折、義父のそれでなくなることには気づかないふりをした。気づくわけにはいかなかった。


 所詮、男はみな同じ。女を食い物としてしか見ていない。


 深芳は、男という存在に吐きそうだった。


 そんな中、義兄の清影だけは違った。彼は、自分のことをただの「深芳」として見てくれた。薬草の本ばかり読んでいる自分を「変わっている姫」と笑いながらも、嫌な顔を一つせず話をずっと聞いてくれた。この方とずっと一緒にいたいと、そう思うようになった。


 清影を千紫に会わせたのは、ただただ純粋に単純に二人を会わせたかったから。大好きな千紫に大好きな清影を紹介したかった。


 まさか、清影が千紫を見初めるなどと、思いもしていなかった。


 だってそうではないか。男はみな、自分を見ていたのだから。


 だがしかし、皮肉にも清影だけが、自分を「女」として見ておらず、彼にとっての女は自分ではなく千紫だった。紫檀したんかんざしを挿す千紫を見て、心が散り散りになりそうだった。


 その千紫も今は九洞くど旺知あきともの妻となった。果たしてこれは、自分の望んだ結末であったかと、深芳は思う。

 千紫が去り、影親かげちかは、息子の相手として自分を望んだが、当の清影にその気はなく、結局残ったのはぽっかりと空いた心の穴だけだった。


(私が九洞くど旺知あきともの元へ上がれば良かったのだ)


 考えてもどうしようもないことを考える。

 自分は、見た目しか取り柄のない女である。千紫のような才知もなく、薬草の名をそらんじるぐらいが関の山で、だとすれば、あの粗野な男の骨の一つでも抜いた方が余程役に立ったに違いない。


 旺知の分を越えた振る舞いは、深芳の耳にも届いていた。そのことで、義父が苛立っていることも。彼の横暴を止める力はもはや鬼伯にないのは明白だった。


 そして、その足りない力を補うため、妹の藤花は人の国の伏見谷へ嫁がされることになった。大妖狐九尾の後ろ楯を得るためだ。


 無駄なことをと思う。


 そのようなことをしても、おそらく九洞くど旺知あきともは止まらない。あの男の野望に満ちた目を見たら分かることだ。

 九尾にしても、どこまで伯家に協力するかなど、実際のところ分からない。彼は、決して情だけで動く者ではない。穏やかな面差しの中に、時折見せるぞくりとするほどの冷たさを深芳はすでに気づいている。


「深芳、夜風に当たりすぎては体を冷やす」


 ふいに話しかけられて、声の主へと顔を向けると、そこに清影が立っていた。


「兄上様、今日のお務めは終わりましたので?」

「ああ、地守つちのかみが先程帰った」


 言って清影は、深芳から一間ほど空けてどかりと座った。以前のように彼女のすぐ隣には座らない。義父が二人の婚姻をほのめかして以来、二人の間には見えない線が引かれていた。


 この線を越えることはもうないだろう。寂しく感じながらも、どこかでほっとしている自分がいる。こうして穏やかな時間を共有できるだけで、もう十分なのだと深芳は思っていた。


地守つちのかみが、このように遅くまで……。どのようなご用向きで?」


 特に気になった訳でもないが、深芳は雑談ついでと聞いてみた。すると、清影が難しい顔を深芳に返した。


「深芳、土地を元気にする草はあるか?」

「土地を元気にですか?」

「そうだ。地守つちのかみが、肥沃な土地を確保するため月詞つきことを月に二度は歌って欲しいと。それで伯と言い争いになった」

「月に二度……」


 現在、地守つちのかみの役に就いているのは四洞家当主で、里外に広がる平野の開拓を主に任されている。四洞家当主は鬼伯の先妻の弟で縁戚にあたる。彼も月詞つきことを歌えるが、その声量は鬼伯や清影には遠く及ばない。当然、自然に与える影響も低くなる。


 痩せ枯れた北の地を、豊かな実りある地に変えたのは、伯家が持つ月詞つきことの力にるところが大きい。


 月詞は、自然の霊気を味方につけ、天地あまつちと共に生きる知恵だ。


 豊かに作物が実る土地は、当然ながら多くのあやかしが住み着き、力を肥やす。霊力の高い者たちが住み着けば、それが北の領全体の力となる。そうして北の領は、豊かな地を育んできた。


 月詞つきことは、誰でも歌えるものでもなく、伯家ほどに歌える一族も他にいない。

 しかし、だからこそ伯家は月詞を滅多に歌わない。自分達が特別であるために


「月に二回とは、また地守つちのかみも思いきったお願いをされたものですね」

「里外の土がけがれているのだ。にもかかわらず、父上は半年で何とかせよと言う。それで地守つちのかみも、ならば月詞つきことを歌えとなった」

「そうですか」


 深芳は思案顔で口ごもった。土に栄養を与える薬草がないわけではない。しかし、大地の息づかいそのものに影響を及ぼす月詞つきこととは本質的に違う。


「土地を元気にする薬草がないわけではありません。しかし、月詞と同じような効果を得るためには、膨大な清水と薬草、そして時間が必要となります」

「で、あろうな。……私は別に歌ってもいいと思うのだがな」

「父上様がお許しになりませんか?」


 深芳が言うと、清影が苦笑しながら、やりきれない目で庭を眺めた。


「……私は、不甲斐ないか?」


 彼が尋ねた。その遠い目を見て、彼の問いが自分に対してではなく、もう手の届かぬ千紫に対して発せられたものだと分かった。

 深芳の胸がずきりと痛む。しかし彼女は、それを悟られぬよう満面の笑みを浮かべた。


「何か手立てがないものか、一緒に考えてみましょう。次は、ぜひ私も地守つちのかみと話をさせてくださいませ」


 私が兄上様を支えなければ。伯家の姫として、そして家族として。

 深芳は、自分の思いを心の奥にしまい込み、清影に妹として大きく頷いて見せた。

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