続・市女笠(上)

 下野しもつけ与平は、真面目な堅物で知られ、だからこそ周囲の信頼も厚い。

 八洞やと家に長く仕え、吏鬼りき(執院に務める文官)として働きながら、六洞りくどう衆の部隊長という異例の立場であり、本来であれば家元として独立し、洞家を下賜かしされてもおかしくない。


 当然ながら、この将来を約束された有望な男には家元はもちろん洞家からの縁談がたびたび持ち上がる。しかし、当の本人はなぜか頑なに固辞し続けていた。


 どこかに好いた女でもいるのだろうかと周囲は訝しがったが、浮いた噂一つない。最後は、真面目な堅物だからかと、なんだかよく分からない理由で周囲も納得するしかなかった。


 与平は、御座所おわすところは執院の一室で裁決を必要とする書簡に囲まれながら「はあ」と大きなため息をついた。


 今日は朝から執院の誰もが皆そわそわと浮わついている。


 原因は、落山の方──、つまり深芳の半年ぶりの昇殿である。先日、奥院では待望の元気な男児が誕生した。鬼伯旺知あきともと奥の方千紫の子だ。


 今日は、その出産祝いのための来訪である。落山の方の来訪が決まってからというもの、執院では誰が彼女を出迎えるかで大議論となった。


 そして、「与平は一度迎えたのだから、もういいだろう」と言われ、早々に話から外された。どうせ役目が当たっても誰かに譲ろうと思っていたので好都合だ。 


 なぜならこの半年間、与平はずっと激しい自己嫌悪と後悔にさいなまれていたのだから。


 半年前、深芳と十数年ぶりに再会を果たした。まさに与平としては二度と会えないと思っていた「市女笠の女」との再会である。


 あちらもすぐに気づいてくれて、驚いた様子で与平は声をかけられた。そこまではいい。「私が誰だか分かるか」という問いに、「市女笠の女」になぞらえて答えたのも、まあ良しだ。

 しかし、その後がいけなかった。「市女笠の女の言伝ことづて」として彼女からお礼を言われ、不覚にも舞い上がってしまった。


 何事もなく先へ行こうとする深芳を引き止め、あろうことか「またどこかに出向くことがあれば、この与平が案内する」などと吐いてしまった。


 これでは、「あなたの側には、この与平がいる」と言ったも同じだ。

 相手は、鬼伯の兄の側妻そばめという立場である。兄成旺しげあきはなし者で、正妻をめとることはないので、彼女は事実上の正妻となる。


 独り身の姫に対してもくだんの発言は身の程知らずも甚だしいのに、夫人に対して吐いてしまうなど、斬って捨てられても文句は言えない。


 あの時、深芳は笑っていたが、きっと呆れ返っていたはずだ。その日の夜、与平は恥ずかしさのあまり一睡もできなかった。


 という訳で、彼は半年間悩み続け、もう彼女に二度と会わないと決めていたのだ。


 すったもんだの話し合いの末、出迎えの役は次洞じとう佐之助の息子に決まった。


 彼はこの日のために上等の衣服を羽織り、朝から車寄せで待ち続ける気合いの入れようだ。綺麗に結んだ頭を何度も撫でつける彼の様子は、端から見ていても滑稽の何物でもなく、半年前の自分もこんな風だったのではないかと思い、与平はげんなりしてしまった。


 それで、とにもかくにもこれ以上は関り合いになるのはやめようと、今日は朝から黙々と机に向かって仕事をしているのである。


 昼前、執院がなにやら慌ただしくなり、遠くで「いらっしゃったぞ!」という声が聞こえた。どうやら参上したらしい。


 不真面目な吏鬼たちは、いつの間にか机から消えていた。残った真面目な吏鬼たちも、訴えるような目を与平に向ける。与平は返事するのも面倒臭くなり、彼らに向かって手をひらひらと振った。


「ありがとうございます! ひと目見たら戻りますゆえ!」

「もう昼だ。そのまましばらく休みとしよう」


 与平もこの喧騒の中で仕事をする気になれず、筆を置いた。


 誰もいなくなった部屋で一人ごろんと後ろに仰向けになる。

 目を閉じると、深芳が多くの鬼に見守られながら悠然と廊下を進む姿が自然と瞼に浮かんだ。今日もさぞかし美しい姿であろう。


 今でも、垂衣たれぎぬの隙間から彼女の姿を見た時のことを思い出す。その姿を垣間見て以来、与平は彼女の幻影に取り憑かれていると言っていい。いや、実際はその前からだ。

 二百年間ただひたすら座敷牢へ通い続ける「市女笠の女」に、顔形は分からずとも心奪われていたのだと今になって思う。


 当然ながら与平も男である。女を知らない訳ではない。面倒な縁談は全て断っているが、それ以外であれば実はそれなりに発散していたりする。しかし、どんなにいい女を抱こうとも、市女笠の女の幻影は消えないのだ。

 ここまで来ると、もう病気か呪いかと思ってしまう。


 なんにせよ、はっきりと分かっているのは、これは許されない思いだということだ。相手は元伯家の姫で、今は鬼伯の兄の側妻そばめだ。


 しばらくして、若い吏鬼たちが賑やかに戻ってきた。そして、その中心に深芳を出迎えた左之助の息子がいる。彼は、皆に取り囲まれながら興奮気味に報告した。


「なんと落山の方様が、笑いかけてくだされた!」


 男たちが「おおお」と感嘆の声を上げた。


「間近で見たら、どのようじゃ?」

「それよ!」


 佐之助の息子がいかつい顔にいかつい体で、なよなよと深芳の所作を真似ながら答えた。


「そりゃあもう、肌は透き通るがごとく白く、切れ長の目は吸い込まれそうじゃ。そしてあの儚げで美しい髪がさらさらと肩から零れ落ちるのよ。あの髪の毛一本一本がな、きらきらと光っておる」


 そんな訳あるか。何をじろじろと見ているのだ若造が。あれは、うねった髪に光が反射して光っている様に見えるのだ。


 心の中で与平は突っ込む。一方、若い吏鬼たちは「それで?」と佐之助の息子に先を急かした。彼は、よくぞ聞いてくれたとばかりに鼻の穴を大きく膨らませ、自慢たらしくにやりと笑った。


「儂が『お待ちしておりました』と挨拶をしたら、優しい顔でにこりとお笑いになって──。もう、天にも昇る思いよ」


 小さな執務部屋は「おおお~」という野太い声でいっぱいになる。与平はその汚い声に耳を塞ぎつつ、(ふん、儂は声をかけられたぞ)と内心毒づいた。


 しかしすぐ、はたと冷静になって虚しくなる。何を若造相手に張り合っているのかと。


 思わず与平は周囲の目をはばからず大きなため息をついてしまった。大騒ぎしていた若鬼たちがびくりと与平を一斉に見た。


下野しもつけ様、どうなされました? ひどく疲れた様子」

「そうです。朝からずっと根詰めて仕事をしていらっしゃったからではないですか」


 少し騒ぎ過ぎたという引け目もあってからか、若い吏鬼たちが心配そうに口々に言った。与平は慌てて「大丈夫」と片手を上げた。


「すまぬが、所用を思い出した」


 言って彼は立ち上がった。こんな日は、早く帰って寝るに限る。


「裁決が必要な書類はおおむね片づけたから、後は報告をまとめておいてくれ」


 そう手短に部下に頼むと、与平はさっさと執務の間を後にした。


 執院の廊下をぼんやりと歩く。うららかな陽気に包まれる執院は、普段の静けさを取り戻していた。


 ふと甘く爽やかな匂いが鼻につき、与平はどきりとして立ち止まった。庭に目をやると、沈丁花が咲いていた。


 儂は会いたいのか、会いたくないのか。


 揺れ動く自身の心をせせら笑う。

 二度と会わないと思いながら、全く吹っ切れていない自分がいる。


「さりとて、どうにもならんのだがな」


 最初から手の届かない御方だと分かっていれば、市女笠の女に懸想などしなかったものを。


 与平は自嘲まじりのため息をついた。

 刹那、

 脇の部屋の柱の影から、突然にゅっと手が伸びてきて与平の腕を掴んだ。

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