続・市女笠(中)

 突然腕を掴まれて与平は驚いた。が、なんだと驚く暇もなく、与平はそのまま部屋に引きずり込まれ、どんすんとみっともなく尻もちをついてしまった。


「な──っ」

「し、」


 とっさに誰かが覆い被さってきて、彼の口元に華奢な指を立てた。


 ふわりと甘い沈丁花の匂いに包まれる。まず目の中に飛び込んで来たのは、紅梅柄の打掛と切れ長で優美な深紫の瞳。栗色のゆるくうねった髪が透き通るような雪肌の顔を縁取っている。


「お、落山の方様?!」

「静かにせよ」


 言って深芳は素早く立ち上がると、部屋の障子戸をぴしゃりと閉めた。


「ふう」


 彼女は大きく息をつく。そして、くるりと振り返る。目の前に突然現れた美女は、じっと与平を見つめて言った。


「与平、会いたかった」

「へ?」


 思わず与平はたじろいだ。もしかして、疲れすぎで歩きながら寝でもしたか? 夢としか思えない展開に頭がついていかない。


 そんな彼のことなどおかまいなしに、深芳は膝をついてするすると詰め寄ってきた。


「おまえに話がある」


 与平は無言のままこくこくと頷いた。部屋は六畳ほどの小さな部屋で、四方をきっちり閉めきられており、まさに二人きりだ。


 彼は、落ち着きなく視線を泳がせ、ごくりと生唾を飲み込んだ。この閉じられた空間では、その音さえも相手に聞こえてしまいそうだ。


 小さな花びらのような口元がゆっくりと開いた。


「十数年前、座敷牢で何があったのか知りたい」

「は、」


 いろいろな意味で与平は拍子抜けた。




 しんと静まり返る部屋。遠くで侍女が何か言い合っている声が聞こえる。

 ようやく冷静を取り戻した与平は、居ずまいを正して彼女に向き直った。


「座敷牢で何があったか知りたいとは……?」

「兄上様がなぜ死んだのか知りたいのじゃ」


 与平が問い返すと、深芳が真剣な眼差しを返してきた。

 ああ、そうだったのかと、与平は彼女が何も知らされていないことを初めて知る。しかし、清影の死は結局誰にも分からないまま終わったのだ。


それがしにも、誰にも分からないのです。門を覆うもやが晴れ、当番だった六洞りくどうの者が中を確かめたところ、すでにお亡くなりになっていました。目立った外傷も、呪詛をかけられた痕もなかったと聞いております」

「そのような、馬鹿な話があるものか」


 吐き捨てるように言って、深芳は唇を噛んだ。数日前、彼女は義兄に会っている。つまり、その時は彼が死んでしまうような様子は全くなかったのだろう。


 しかし、数日後に彼は死に、それだけが事実として残っている。


 与平は自分の知るありのままの事実を彼女に告げた。


「縁側で静かに眠るように亡くなっていたそうです。つい先ほどまでお茶を楽しんでいたのか傍らに茶碗が置かれていたと聞いております」

「お茶……」


 ふと深芳が顔を上げた。そして、ずいっとさらに与平との間を詰めた。


「土間に、茶葉の袋が残っていなかったか?」

「茶葉袋ですか?」

「そう。おそらくまだ使いかけの──、いや開封さえされていない物もあったと思う」


 与平はしばらく思案した後に深芳に答えた。


「いえ、そのような報告は聞いておりません」

「そんなこと……」


 深芳が言葉を失う。そして彼女は、呆然とした様子で視線をあちこちにさ迷わせていたが、ややして、その瞳から大粒の涙をこぼした。


「落山の方様?」


 与平はぎょっと驚き、慌てて彼女の顔を覗きこむ。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙は、まるで月の雫のようだ。止めどなく流れる涙に、彼女は両手で顔を覆った。


 どれぐらい経っただろう。かなり長い時間を費やした気がした。

 与平はただじっと彼女が泣き続ける姿を見ていた。本当なら、その細い肩を抱き寄せて慰めることができたならと思う。しかし、それは許されない。となれば、あとは見守るしかない。


 深芳はひとしきり泣くと、ようやく静かに顔を上げた。涙に濡れそぼった瞳が弱々しく揺らめいて与平の庇護欲を掻き立てる。しかし、そこをぐっと我慢して、与平は落ち着いた口調で深芳に話しかけた。


「お辛かったことでしょう」

「いや、娘の存在に助けられた。すまぬ、突然泣き出すなどみっともない真似をした」


 袖で涙を拭いながら深芳が気丈に笑顔を見せる。ふいに出てきた「娘」という言葉に、与平は今更ながら彼女が既婚者であることを思い知らされた。こんなに近くで泣かれても、自分は指一本触れることさえできない。


 すると、深芳が「ふふっ」と小さく笑った。


「変わらぬの。女が目の前で泣いているというのに、指一本触れぬか。何があっても言葉を決して交わさなかったあの頃と同じゃ」

「いえ、そういう訳では。ただ、落山の方様には成旺しげあき様がいらっしゃいます。みだりに触れることはできません」


 与平は神妙な口調で答えた。自分の心の中を覗かれたような気分だ。


 これ以上、ここに長居は無用である。誰かに見られでもしたら、いらぬ誤解を招きかねない。


 与平は深芳を促した。


「さあ落山の方様、これ以上話すことはございません。行ってください」

じゃ」


 不意に深芳が呼び方を言い直した。そして責めるような視線を与平に向けた。


「市女笠の女は、他人のように呼ばれるのは好きではない」

「や、しかし、他人ですし。それに、あなた様は成旺しげあき様の奥方で──」

「あの男とは何もない。それこそ他人、ただの同居人じゃ」

「──え?」


 突然飛び出した彼女の言葉に、思わず与平は聞き返した。


 一瞬、何を言われたのか分からない。

 次に、聞いてはいけない言葉を聞いてしまった気がした。


 というか、明らかに聞いてはいけない言葉だ。


 深芳がはっと気まずい顔をして目をそらす。

 ものすごく重い空気が流れ、与平の体から汗がにじり出る。ややして、彼女が呟くように付け加えた。


「今のはなしじゃ」

「なし?」

!」


 最後は怒り口調で念を押し、深芳が乱暴に立ち上がった。そして、ぱさりと打掛を翻し、逃げるように部屋から出て行った。


 後に残された与平は、ただただ呆け、動揺するしかない。


 いや、ちょっと、今のはどういう意味?


 「なし」と言われて、なしにできる訳もなく、そうか同居人なのかと思ったり、でも娘がいるじゃないかと思ったり、考えれば考えるほど与平の頭はこんがらがった。


 すると、考えが全くまとまっていないというのに、深芳が再び部屋に戻ってきた。


「与平!」

「は、はい」


 彼女が納得のいかない顔で与平を睨む。与平は困惑した顔をそのまま彼女に返した。


「何か、まだ?」

「こういう時は女を追いかけるものじゃ」

「え?」


 そこ?! 


 突然の要求に与平の頭はさらにこんがらがる。ようやく与平の口から出てきた言葉は、


「……いえ、追いかけませんから」


 だった。


 深芳がわなわなと体を震わせ、悔しそうに眉根を寄せた。


「里一の美女と呼ばれるこの私がわざわざ戻って来て追いかけろと言うておるのに、追いかけぬとな?」

「だって、駄目でしょう? 追いかけません。それより早く、どこかに行ってください」


 思わず素で事務的に答えると、深芳は目を吊り上げた。


「こっ、こんなに邪険にされたのは初めてじゃっ」


 最後はぷんぷんに頬を膨らませ深芳が早足に去っていく。あんな感情的な深芳の姿を見るのは初めてだ。


 沈丁花の残り香に包まれ、与平は徐々に冷静さを取り戻す。そして同時に、ある仮定が頭をよぎった。


 まさか、娘の父親は──。


下野しもつけ様、」


 騒ぎを聞きつけた下級吏鬼が何事かと現れた。


「お帰りになったのでは? 今、誰かと話していらっしゃったので?」

「……通りかかった女に、いいがかりをつけられた」


 湧き起こった疑念を心の中で飲み下し、与平は廊下の先を見つめながら、ぼそりと呟いた。

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