続・市女笠(下)

 伯子誕生から一年が経った。

 奥院では、小さな伯子がよちよちと長い廊下を歩き始め、そこに侍女がぞろぞろと続くというのが日常の風景となっていた。


「もうあんなにしっかりと歩きなさる。千紫に似て、利発なお子じゃ」


 奥院の客間に千紫と並んで座りながら深芳が笑った。碧霧が生まれてから奥院に遊びに来るのはこれで四回目だ。


 その度に奥院は大騒ぎになり、毎回出迎える鬼武者が変わる。今日出迎えてくれたのは……、もうどこの誰かも深芳は忘れていた。


 千紫が我が子の元気な姿に目を細めつつ、深芳に尋ねた。


「紫月は変わらず野山を駆け回っておるのかえ?」

「まあ、そんなところじゃ」


 深芳はため息まじりに頷いた。紫月は一年ほど前から、ちょっとした反抗期だ。もともと感の鋭い子だったが、大きくなって色々見えてきたのか、自分と成旺しげあきとの仲を疑うようになっていた。


 無理もない。本来、彼とはなんの仲でもないのだから。


 真実を語ることはできない。しかし、彼女が感じる違和を拭い去ってやることもできない。となると、後は娘が家に近寄らなくなったという訳だ。


 行く場所は決まっている。藤花のいる端屋敷はやしきだ。心配はいらないが、なんとなく罪悪感を感じる自分がいる。娘に隠し事をし続けることが、こんなに辛いことだとは思わなかった。


 千紫は次世代の希望のためという強い信念の元に子を産んだ。誰と愛し合っているかと、子の出生は彼女にとって別物だ。だからなんの迷いもない。深芳は、そんな風に割り切れる彼女を羨ましく思った。


 そして密かな悩みがもう一つ。下野しもつけ与平とのことである。


 一年前、深芳は吏鬼が通りそうな廊下に面する部屋で待ち伏せして与平を捕まえた。元牢番であった彼に清影の死の真相を聞きたかったというのが大きな理由である。


 その時、不覚にも彼の目の前で泣いてしまい、みっともない姿を晒してしまった。まあ、それはこの際どうでもいい。与平が自分に指一本触れず黙って側にいてくれたことも、彼らしいと思った。


 問題はその後だ。彼の態度に物足りなさを感じ、少し距離を縮めようと余計なことをあれこれ勢いで口走ってしまった。そのせいで、最後は彼に「早くどこかに行ってくれ」と言われてしまったのだ。


(あのようなこと、言われたことは一度もない!)


 自分が「里一の美女」と呼ばれている自覚はある。まがいなりにもそう呼ばれている以上、深芳もそのように振る舞って来たつもりだ。


 それをあの男は、「あっちに行け」と言ったのだ。思い出すだけで、深芳は怒りで体が震えた。


 その後、彼女は名誉挽回のため与平に再び会うことを試みた。

 ところが、深芳が来る日に限って与平がいない。前々回は所用、前回は急用。そして今回は野暮やぼ用──、深芳ははっきりと「避けられている」と自覚した。


(皆、私をひと目見ようと今日に合わせて昇殿するというのに──!)


 今まで、男から待ち伏せされたことはあっても、避けられたことなど一度もない。もはや里一の美女の自尊心はずたずただ。


 これは、どうやってでも彼に会って問いたださなければならない。


「のう千紫、」

「なんだ、与平のことか?」


 まだ一言も発していないのに、千紫が見透かしたように答えた。深芳はたじろぎながら千紫を見返した。


「まだ何も言ってない──」

「顔にそう書いておる。だいたい、来る度に与平はどうしたと聞くではないか」


 千紫が呆れた様子で言った。そして、決まり悪くそっぽを向く深芳に含みのある目を投げる。


「あやつの家は家元たちの屋敷が立ち並ぶ西部の外れ、里中近くじゃ。今だにそこで老いた母親と二人で暮らしておる」

「誰もそのようなこと、聞いておらぬ」

「おや、会いたいのかと思うての。なんなら、もっと詳しく場所を教えるが?」


 これまた千紫が、深芳の気持ちを見透かしたように笑った。




 その日の夕刻、深芳は西部の外れにある粗末な屋敷の前に立っていた。当然、目立たないよう市女笠を被っている。


(ここが与平の家……)


 六洞りくどう衆の一部隊を束ね、上級吏鬼として働く男の屋敷ではないなと、質素な造りの門を眺める。これなら下級吏鬼の方がよほど贅沢をしているに違いない。


 深芳は意を決して門をくぐると、玄関前で中に向かって声をかけた。


「もし、」


 返事がない。今度はもう少し大きな声で呼びかける。するとがたがたと音がして、年老いた二つ鬼の女が出てきた。


「息子はおらぬでまた来てもらえるか。おんらは分からんよって」


 両目が真っ白に濁っている。おそらく、ほとんど何も見えていない。深芳は市女笠を取って老婆の目線まで膝を折った。


「突然申し訳ございません。玄関で待たせてもらってもよろしいでしょうか?」


 すると老婆は少し驚いた顔をした。そしてすぐ、彼女はおろおろと頭を下げた。


「どこのどなたか存じませんが、お声とお話し方から、どこぞの姫君様か奥方様かとお見受けします。ささ、どうぞ。今お茶をお出ししましょう」

「いえ、私が好きに待つのです。おかまいは無用です」


 その時、


「こんなところで何をしておいでです?」


 その声に振り返ると、驚いた顔の与平が門前に立っていた。

 母親がほっとした顔をする。


「おお与平、帰ったか。おまえにお客様だ」


 しかし彼は、それに答えることなく周囲を見回し、それから乱暴に深芳の手を引っ張って、玄関の中に彼女を引き入れた。そして厳しい目で深芳を見据えつつ、傍らに立つ母親に言った。


「かか、儂が相手をする。向こうへ行っておれ」

「上がってもらえばええ」

「いらん。すぐに帰る」


 苛々とした口調で息子に言われ、母親は深芳を気遣いながらも家の奥に姿を消した。その様子を見ながら、深芳は情けなさで泣きそうになる。


 玄関先で追い返されるなど、私はどれだけ嫌われているのか。


 しゅんと落ち込む深芳に向かって与平が静かに口を開いた。


「何をしにいらっしゃいました?」

「おまえと話をしに……」

「話?」


 与平が眉根を寄せて怪訝な顔をする。しかし彼は、すぐに「ああ、」と意を得た顔をした。


「一年前、『なし』と言っていた話のことでございますか。もう一年も前の話です。誰にも話すつもりはありませぬゆえ、ご心配には及びません」

「そうではない」

「では、なんの話です?」


 再び問われ、深芳は言葉に詰まる。そこで初めて、話すことなど何もないことに気づく。

 黙り込む深芳に与平が淡々と言った。


「落山の方様、何もなければもうお帰りを」

「……深芳だと言っておる」


 唯一言えるとしたらこれだけか。消え入るような声で言い返せば、彼の小さなため息が返ってきた。


「奥方様に対して、そのような馴れ馴れしい口はきけません」


 こちらが夫人であることをいちいち強調してくるのにも腹が立つ。深芳は恨めしげに与平を睨んだ。


「奥方などと──。もう気づいているのであろう? 私の娘は──」


 刹那、


「口に出してはなりません」


 深芳の言葉を与平が厳しい口調で遮った。そして彼は、真っ直ぐ深芳を見返した。


「それこそ、全てをにするおつもりか」


 思わず深芳はすがるような目を彼に向ける。


「一人で黙っているのは辛い。それなのに口に出してはならぬと申すか」


 そんな彼女に対し、与平は揺るぎのない顔で頷いた。


「あなたがそれを選んだのです。隠し通すお覚悟ではなかったのですか。少なくとも、言うのは今ではないはずだ」

「……」


 はっきりと突き放されて、深芳は力なく俯いた。


 そうか、自分はこの男に甘えたかったのか。


 彼女はようやくその思いに辿り着く。しかし、彼はそれを許すような男ではなかった。


(本当に話すことがなくなってしまった)


 身勝手で独りよがりな気持ちに気づき、深芳はため息まじりに笑った。与平は、さぞかし迷惑だったに違いない。これは避けられて当然である。深芳はたどたどしく与平に頭を下げた。


 その頼りなげな深芳の姿に与平の胸がずきりと痛む。少しきつく言い過ぎたと思った。きっと誰も頼れず、誰かに頼りたく、ここに辿り着いたのだろう。


 そして、深芳が弱々しい足取りで踵を返したその時、


「お待ちください」


 とっさに与平は彼女の手を取った。


 我ながら何をしているのかと思う。


(儂に、いかほどの覚悟があるというのか)


 心の中で自問しつつ、それでも感情が抑えられない。


「この与平も同じく口を閉ざしましょう」


 思わずそう告げると、深芳が驚いた様子で戸惑いがちに顔を上げた。彼は少し躊躇ためらった後、彼女の手を握りしめた。


「さすれば、あなた様と同じ責めをそれがしも負うことになります」


 重なり合った手から伝わる互いの温もり。二人はしばし時を忘れて見つめ合った。




 日もすっかり落ちた頃、落山の屋敷に戻ると、紫月が珍しく先に帰ってきていて、深芳は玄関で出迎えられた。


「どこか行ってたの?」

「うむ、ちょっとな」

「ふーん」


 紫月がじっと深芳を見つめる。ややして、彼女はにっこり笑った。


「私、今日の母さまの方が好き」

「え?」

「いいと思うけどな。つんけんしてなくて。母さまは、もう少し可愛くなった方がいいと思う」


 今風な言葉遣いでそう言って彼女はぱっと身を翻し、ぱたぱたと廊下を駆けていった。

 今、自分はどんな顔をしているのだろう。考えるのも恥ずかしく、深芳は思わず顔を伏せた。



続・市女笠(了)

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