胡蝶の野望、千紫の計略(上)

 奥院では、伯子碧霧の成長が目覚ましい。

 武芸は六洞りくどう重丸が直々に稽古をつけ、学問は千紫が自ら師となり教えている。今年で十五、まだまだ少年であるというのに、すでに上に立つ者の風格さえ感じられるともっぱらの噂である。


 一方、ここは奥院の側妻そばめ胡蝶の部屋。赤茶色の波打った髪に一本の角を生やした夫人は今日も衣服選びに余念がない。色鮮やかな打ち掛けを部屋一面に並べさせ、あっちがいいかこっちがいいかと頭を捻っていた。


「奥の方様は、何着かあるものを大切に着回していらっしゃるというのに……」


 側に控える侍女の一人が揶揄やゆする声が耳に入ったが、胡蝶は聞こえないふりをした。


 そんな貧乏たらしい真似ができるものか。だからあの女は男のようなのだ。


 伯子が生まれて以来、千紫はさらに存在感が増した。

 旺知あきともが絶対的な権力者として君臨していることには変わらないが、彼女はその旺知に進言できる唯一の女性である。女を対等の相手と見ていない旺知にとっては異例なことと言える。


 でも私だって──。と、胡蝶は思う。


 才知に溢れる意見はできないが、可愛くおねだりするのは大の得意だ。どんなおねだりも、旺知は聞いてくれる。私は愛されている。


 碧霧が生まれた頃は、千紫が奥院に引っ込んでいたこともあり、深芳が御座所おわすところに度々遊びに来た。あの頃、胡蝶はどん底だったと言っていい。


 旺知に、深芳との会見の場での態度を叱責され、しばらく放っておかれた。お渡り(夫が寝室に訪れること)もめっきり少なくなり、院外へ放逐されるのも時間の問題だと思えた。そういう女を何人も見てきたからだ。


 しかし、千紫が執務に復帰すると、深芳はぱたりと来なくなった。


 千紫がたまに落山へ遊びに行っているらしいが、そんなことはどうでもいい。目障りなあの女が奥院に来ないことが重要で、胡蝶はせいせいしたと思っていた。


 所詮はなし者の側妻そばめ、公の場にはそぐわない。里一の美女だかなんだか知らないが、落ちぶれた女がでしゃばるからだ。ざまあみろ。


 その後、旺知が再び渡ってくるようになり、胡蝶は寵妃として復活を果たした。

 かつてのように自分を慕って取り巻きの侍女も集まってくる。そして今、彼女の腹の中には子供がいる。ようやく子宝に恵まれたのである。


 まさに順風満帆じゅんぷうまんぱんとはこのことだ。子が生まれたら自分の子にも次期鬼伯としての権利が十分にある、そう胡蝶は思っていた。


 彼女は、目に入った一番派手な打ち掛けを手に取ると、先ほど嫌味をこぼした二つ鬼の侍女に言った。


「今日はこれにするが、気に入った物がない。新しい物を作る」

「新調なさるので?」


 侍女が驚いた顔をする。胡蝶は当然だと頷いた。


「これでは鬼伯の前に出ることができぬ」


 有無を言わせない口調で言うと侍女が呆れた様子で頭を下げ、好きにしろとばかりに部屋を去っていった。あれは玉緒とか言う千紫に懐いている古参の侍女だ。


 いつも世話をしてくれるのは阿紀という侍女だが、三日に一度ほどこの玉緒に変わる。きっと千紫が私の様子を盗み見させているに違いない。


 しばらくすると阿紀が部屋にやってきた。


「まあ、素敵な打掛にございます。今日はそちらになさるので?」

「仕方なくじゃ。近々新調する」

「左様でございますか。生地は、いつもの反物商でよろしいですか? あの男は胡蝶様の美しさに酔いしれている様子ですし、呼ばれれば飛んで参りましょう」

「うむ、そうしてくれ。あれは、反物商にしておくにはもったいない男じゃ」

「ええ」


 阿紀がにこにこと笑って答えた。彼女は、今の奥院では珍しい一つ鬼の侍女だ。もともと里中出身の卑しい身分であるのが不満だが、同じ一つ鬼として胡蝶は彼女を優遇していた。


「先ほど打掛を新調すると玉緒に言ったら、しかめっ面をされた。頭の固い女は嫌いじゃ。奥の方を思い出す」


 吐き捨てるように胡蝶が言うと、阿紀は困った顔で笑った。


「しかし、奥の方様は卑しい身分の私を奥院の侍女として取り立ててくれました」

「それを言うなら、私もおまえを可愛がってやっておる。そもそも、おまえを侍女として召し抱えたは給金が安くあがるからじゃ。奥を束ねる女として、なんと貧乏くさいことか」

「左様でございますね」


 阿紀は笑った。




 執院、東二ノ間ひがしのにのま。そこは千紫の執務室となっている。


 二十畳ほどの和室には、ナラ材の机と椅子が置かれ、中央には人の国から取り寄せた重厚なテーブルと桑染くわぞめ色のソファーもある。和室の雰囲気を損なわないよう材質や色味などを厳選したのは千紫のこだわりだ。


 今日は、その打ち合わせ用のテーブルで勘定方の八洞やと十兵衛から執院の修繕工事費用についての説明を延々と受けていた。


 傍らには北の領の守りを一手に任されている里守さとのかみ六洞りくどう重丸も座っている。


「……とまあ、あれこれ要望をまるっと入れると、全部で八千貫になりますな。領境の防衛の費用についても削るなと言われておりまして、」


 言って、十兵衛は重丸をちらりと見る。重丸が当然だとばかりに頷いた。


「柵を造り直さねばなりません。できれば、人の国の鉄が欲しい」

「論外じゃ」


 千紫がこめかみを押さえつつ吐き捨てる。


「どこにそのような金がある」


 まともな税制もなく、誰もが自由に生きている阿の国で、金はなかなか流通しない。それは御座所でも同じである。物々交換が今でもまかり通るのだ。


 重丸が「ふうむ」と頭を捻る。


「十兵衛、人の国と金銀の取引をもう少し増やしてみては?」

「今は相場の変動が激しい、下手を踏むと不当に流出してしまう。あれは担保だ。金がないからと、軽々しく取引するものではない」

「難しいのう」

「奥の方、人の国から来るあやかしに入領税を課すというのはどうでしょう? 人の国の貨幣を稼げます」


 あごひげを撫でながら十兵衛が提案すると、千紫が「ふむ」と頷いた。

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