追記

碧き霧に伯子は生まれ

 その日の明け方、奥院はかつてないほどの慌ただしさに包まれていた。


 気忙しく奥院の廊下を往来する侍女たち。昨日の夜遅くに千紫が産気づき、夜を徹しての出産となっていた。奥院での出産は、実に藤花の母親以来となる。

 父親となる旺知は、さして驚く様子も見せず「そうか」と気のない返事をしただけで、侍女が大騒ぎしているのがうるさかったのか、側妻そばめの部屋にそうそうに引っ込んでしまった。

 子供になど興味がないのかもしれない。




 同刻、落山隠れ屋敷。

 縁側では幼い鬼姫が、空いっぱいに散りばめられた星を眺めていた。

 連日から続く雨がようやく上がり、久々の星空である。雨が降った後の空は、空の汚れを雨粒が流し落としてくれるので、いつもより星が綺麗に見える。


 屋敷はしんと静まり返り、起きている者は誰もいない。紫月にしても、いつもなら寝ている時間だ。ただ今日は、なぜか目が覚めてしまった。


吽助うんすけ、起きていないかな?)


 紫月は目を閉じて吽助の気を探る。これは、あまりしちゃいけないと、猿師百日紅さるすべり兵衛から言われていることなのだが。


 心が読める訳ではないが、昔から相手の気持ちがなんとなく分かった。それは、鬼に対してだけではなく、動物や森の木々、そよ吹く風に対してもだ。


 ただ、複雑な大人たちの気は煩わしいこともあって、あまり感じないよう心がけていた。例えば、両親は仲が悪い。どちらとも口には出さないが紫月はそれを感じ取っていた。


 なぜなら、父親の成旺しげあきと自分が話していると、母親の深芳の気がずんと重たくなるのを感じる。父親は父親で、自分に対してあまり感情が動かないことが分かる。


 だから紫月はほとんど父親と話したことがなかったし、彼が父親だという実感もあまりなかった。たまに来る「奥の方様」である千紫といる方が、母親も父親もなぜだか楽しそうだ。


 たが、動植物の気は違う。素直で裏表がなく悪意がない。そんな木々の声、風の声に応えているうちに、自然と言葉が歌になった。自分が歌うと木々も風も喜んでくれる。歌は彼女にとって会話のようなものだった。


 ある日、その歌をたまたま母親の深芳の前で歌ったら、深芳は血相を変えて歌を止めた。そして数日後、紫月は東の端のとある屋敷へと波瑠に連れていかれた。


 そこには深芳の妹、つまり紫月にとって叔母にあたる藤花が住んでいた。彼女は屋敷から一歩も出ることがなかったが、とても穏やかな生活を送っていた。藤花の前で歌を歌うと、やはり彼女も驚いたが、自分以上に素敵な歌を披露してくれた。


 まるで、大地そのものに語りかけるような強くて優しい歌。


 叔母のように歌いたい──。それから紫月は藤花の屋敷に通うようになった。


 紫月の呼びかけに吽助うんすけが応えた。少し不機嫌そうなのは、無理やり起こされたからだろう。でも、応えてくれたということは大丈夫だ。彼女はこっそり屋敷を抜け出した。


 屋敷の門前で待つことしばし、東の空から白く大きな狛犬が現れた。


「ごめんね、吽助。でも、ほらちょっといい朝じゃない?」


 まだ星が瞬く暗い空を見上げながら紫月は吽助の背中にまたがった。裾が左右にはだけるが、まあ仕方がない。吽助の長い毛を両手で掴み、「行こう!」と促す。紫月を乗せた吽助が空高く舞い上がった。


「わあ、見て! 吽助」


 星がすぐそこにあり、掴み取れそうだ。しかし、それも束の間、山の際が青紫に変色し始めた。朝の訪れだ。


 なんて綺麗なんだろう。


 今日は雨上がりということもあり、里全体に霧がかかっていてる。水分をたっぷり吸った山の木々が枝葉を大きく広げ始め、ざわざわと葉ずりの音が聞こえた。そして、その自然の営みを祝うかのように朝明けの光がゆっくりと里に差し込んでくる。


 紫月は朝の澄んだ空気を胸にいっぱいに吸い込んだ。空の気がじんわりと彼女の中に流れ込んでくる。その清々すがすがしく喜びに満ちた気はいつもと違う夜明けを感じさせた。


 きっと今日は特別な日だ。


 理由なんてない。ただ、とにかく紫月はそう思った。


(東の端屋敷はやしき以外では歌うことは禁じられているけれど)


 口から自然と言葉がついて出る。独特の抑揚をつけた歌声がのびやかに空を駆け巡り、それに呼応するかのように水蒸気が深碧しんぺき色にきらきらと輝き里全体に降り注いだ。


 紫月は狛犬の背の上で、さらに声量を上げた。



 奥院の一室では、雪乃が疲労しきった顔に驚きの色を浮かべて空を見ていた。

「なんと不思議な。千紫様、空が碧い霧に包まれ光が舞い降りてきておりまする。何かの吉兆でしょうか」


 彼女は興奮気味に傍らで横になる千紫に声をかける。男児を無事産み終えた千紫が、二つ角の赤子を胸に抱き、促されるまま空を見上げた。


「……歌が聞こえる」

「え?」


 雪乃が怪訝な顔をする。しかし、千紫には確かにそれが聞こえた。祝いの歌か、それとも運命を紡ぐ歌か。


 さあ、この新たな命に全ての希望を託そう。


「碧霧と、」

「はい?」

「この子の名は碧霧とする」


 産後の疲労のまどろみの中、雪乃にそう宣言しながら千紫は我が子に話しかけた。


「聞こえるかえ? 天地あまつちを震わす歌が」


 千紫の胸に抱かれながら、まだ目も開ききってない赤子があどけなく欠伸あくびを一つした。


碧き霧に伯子は生まれ(了)

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