胡蝶の野望、千紫の計略(下)

 三月みつきが経ち、胡蝶のお腹もかなり大きくなった。

 夏の暑いある日、胡蝶は鬼伯に呼ばれ、阿紀を引き連れ奥座敷へと向かっていた。本当は、ちょっとかなり面倒臭い。


 もう腹に子供が出来たのだ。できれば旺知の相手はしたくないと思っていた。


 正確に言えば、彼女が好きなのは鬼伯という地位であって旺知ではない。権力ある男から注がれる愛情こそが彼女の愛すべき一番のものである。


「胡蝶、参りました」


 恭しく部屋の前で一礼する。ちらりと奥を見ると、旺知だけでなく千紫もいる。なんだ、と胡蝶は内心がっかりした。


「伯、奥の方様、ご機嫌麗しゅうございます」


 部屋の中央に進み入り胡蝶は両手をついて挨拶した。阿紀が部屋の隅に控える。

 いつもなら、すぐに「近くに来い」と言ってくれる旺知は、千紫が隣にいるせいで、すました顔で頷くだけである。


「今日はお二人揃って何用でございましょうか?」


 言って胡蝶は可愛らしい笑みを返した。似たようなことは以前にも何回かあった。これはきっと、ちょっとしたお小言をもらうのだ。

 しかし、胡蝶はなんとも思わなかった。なぜなら、旺知は甘いし、千紫は旺知のせいで好きに言えずで、結局は中途半端に終わるのが常だからだ。


(打掛を五つも新調したせいかしら?)


 我ながらちょっと多すぎたかなと思った。しかし、私好みの柄をいくつも選んでくる侍女の阿紀が悪い。責めるなら彼女の方だ。


 すると、千紫が静かに口を開いた。


「胡蝶、体の調子はどうか?」

「はい、暑い日が続いて少し疲れが出ております」


 だから早く部屋に返せ、という言葉は胸の内に止めておく。胡蝶は笑顔を絶やさない。


 千紫が旺知に目配せをしつつ言葉を続けた。


「その疲れを癒す方策を、伯と私で考えた」

「はい、」

「里西にかつての九洞くど家の屋敷がある。伯と私が住んでいたところじゃ。奥院よりもずっとゆっくりできる。そこに移り住み、子を産めばよい」


 何を言われたのか理解するのに時間がかかった。そしてそれが、突然のお役御免の申し渡しであると理解した時、胡蝶の全身から血の気が引いた。


「は、腹の子を、旺知様との子を、外で産めと?!」


 胡蝶は声を震わせた。そうだ、この腹の子は、旺知の子。この子さえいれば、次期鬼伯の母堂という地位も夢ではないのだ。


 胡蝶は、すがるような表情で旺知に訴えた。


「伯、私はあなた様との子を奥院で産みとうございます!」

「それは、果たして伯の子かえ?」

「え?」


 冴えざえとした声が部屋に響き、胡蝶はびくりと体を震わせる。藪から棒にこの女は何を言い出すのだ。すると、激しく動揺する胡蝶の前に、千紫が数枚の手紙を投げつけた。


「そなたへの恋文じゃ。また逢いたいと、愛し合いたいと書いてある。相手の男の名は、夏風かふう

「そんな、何を──」


 胡蝶は四つん這いで落ちてる手紙を拾い上げると、それに目を通した。どれも初めて読む内容で、こんな手紙は知らない。彼女は「馬鹿な、」と手紙を握りつぶした。


夏風かふうなどという男の名は、知りませぬ。何かの間違いにございます!」

「何を言っている。奥院によく出入りしている反物商ではないか。懇意にしていたそなたが知らぬ訳がなかろう。聞けば、そなたに懸想していたとか」

「……」


 あの、目をかけてやっていた反物商。確かに、話も機知に富み、顔も爽やかで、反物商にしておくにはもったいないと思っていた。

 しかし所詮は下賎の者、相手にする訳がなかった。


「何かの間違いでございます。胡蝶は旺知様以外、知りませぬ」


 胡蝶は頭を畳に擦りつけ、旺知に訴えた。事ここに至っては、下手な言い訳は返って旺知の怒りを買う。彼女は必死だった。


 しかし、旺知は興味が失せたとばかりに胡蝶から目をそらした。そしてその時、


「鬼伯、お呼びでございましょうか」


 聞きなれない声が廊下で響いた。今度はなんだと振り返ると、廊下に見たこともない二つ鬼の女が立っていた。すっきりとした目鼻立ちで、緩やかにうねった柿茶色の髪が、里一の美女を少し思い起こさないでもない。


 柿茶髪の女は、部屋の中央でひれ伏す胡蝶を見て顔をしかめた。


「なんですか、このみっともない一つ鬼の女は?」

「なんでもない。柏木、こちらに来い」


 正妻の前であるにも関わらず、旺知が女を手招きする。何より、自分を無視して。


 そして、その一連のやりとりを見て、千紫が口元に手を当ててくすりと笑った。


 胡蝶の全身の血が逆流した。


「……おのれ、千紫ぃぃ!!」


 とっさに立ち上がり、胡蝶は千紫につかみかかった。刹那、胡蝶の前に素早く阿紀が割って入り、彼女を一瞬の内にねじ伏せた。


「痛いっ、放せ! 阿紀!!」

「胡蝶様、これ以上のおイタは、さすがの阿紀も見過ごせません」


 言って阿紀がにっこり笑った。




 数日後、胡蝶を乗せた車が奥院をひっそりと出ていった。

 胡蝶は、鬼伯夫妻に対する呪詛の言葉を終始吐き散らしながら奥院を後にした。その様子を影ながら見送るのは、十兵衛と重丸である。


「女は怖い。なあ、六洞りくどうの」

「ふん、」


 くだらない争いだと言わんばかりに重丸が鼻を鳴らして踵を返す。


 半年後、胡蝶は里西の旧九洞くど家屋敷で二つ鬼の赤子を産む。その子が将来「九洞方くどぼう」と呼ばれ、鬼伯に仇なすのはもう少し先の話である。


 同じ頃、東二ノ間ひがしのにのまでは、侍女の阿紀と爽やかな色男風の一つ鬼の男がソファにどかりと座っていた。机では、千紫が仕事中である。


「千紫様、うまくいきましたね。那津なつにいを使って不貞を仕立て上げるだなんて」

「この奥院では、その子が誰の子であるかなど些事さじじゃ。いかな本当に旺知の子だとしても、奥院で生まれなければ意味がない」


 千紫が素っ気なく返すと、爽やかな色男風の一つ鬼──夏風かふうこと那津も「おお、怖い」と肩をすくめた。そんな彼に千紫が忙しなく質問をする。


「伏見谷へ行かせた布由ふゆから連絡は?」

「まだです。ただ、西国の篠平でキナ臭い動きが」


 波瑠、那津、阿紀、布由──彼らは四季兄妹と呼ばれる、千紫直属の隠密隊である。人の国へも自由へ行き交い、それぞれの立場で内外の諜報を行っている。当然、その存在を知る者はごくわずかで、全員の顔を知っている者は誰もいない。


「すまぬが行けるか、那津?」

「もちろん。今回のことで、しばらく御座所おわすところには近寄れないですし?」


 那津がにやりと笑い、阿紀がぷっと吹き出した。



胡蝶の野望、千紫の計略(了)

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