秘密の師

 馬に乗った二つ鬼の青年が古く厳つい門をくぐると、朽ちかけた簡素な平屋の建物がすぐに姿を表す。彼はいつもの通り庭に面した縁側に向かった。


 色素の薄い茶褐色の長い髪を後ろで一つに束ね、女かと思うような綺麗な顔立ちであるのに、精悍な目元や自信に溢れる口元が決してそうだとは感じさせない。今年で二十四、伯子碧霧は今や立派な大人となっていた。とは言え、鬼の二十四など、まだまだ子供の域ではあるのだが。


 碧霧は、縁側で本を読みふける年老いた男を認めると、笑顔で彼に声をかけた。


「なし先生、」

「来たか、葵殿」


 袴もはかず小袖は着流したまま、白髪混じりの長い髪を無造作に結んだ男が碧霧に笑い返した。その無造作感が好きで、碧霧も最近では彼の真似をして髪を適当に結ぶことが多くなった。そして何より彼には角がない。碧霧が「なし先生」と呼ぶ所以ゆえんである。


 出会って間もない頃、どこの誰かと尋ねたことがあった。しかし、「なしに明かす身分も名乗る名もない」と返され、以来、碧霧は彼のことを「なし先生」と呼んでいた。


 ちなみに、こちらの「葵」とは幼い時に呼ばれていた愛称だ。自分の身分を明かしたくないことは碧霧も同じである。


「誰かに知られては?」

「大丈夫です」


 得意気な顔で碧霧は答えた。師は、「そうか」と軽く笑った。


 ここは北西の山奥にあるかつての座敷牢跡だ。数十年ほど前まで実際に使われており、月夜の変で御座所おわすところを追われた元伯子が囚われていたらしい。当時は堅固な牢として名高かったが、今や古びた建物でしかなく、使われなくなった。そして、そのまま放り捨てられた建物が、誰にも知られず朽ちていっているのだ。


 この建物を碧霧が見つけたのはたまたまである。一人で遠乗りに来ていて、興味本位であまり行ったことのない西山道の奥に入ったら、この座敷牢を見つけた。そして、彼と出会った。


 ここに住んでいるのかと尋ねたら「そうではない」と返ってきた。ではなぜここにいるのかと尋ねると「とある者を待っていた」と言い、「ようやく会えた」と目を和ませた。なんとも掴み所のない老鬼だった。


 年齢は父旺知あきともの三十ほど上、今でも若々しい旺知と比べて老いて見えるのは角がないせいか。驚くほどの知識を持ち、その情報量は母親の千紫を凌ぐ。母親から多くを学んできた碧霧にとって、母親以上の学を持っている者がいるということ、そして何よりそれが「なし者」であるということに彼は驚いた。


 それから碧霧は、たびたび彼に会いにこの座敷牢へ行くようになった。彼に会うための条件は二つ。一つは、誰にも知られないこと。もう一つは、互いに素性は明かさない、探らないこと。伯子であることを隠しておきたい碧霧にとっては好都合な条件だ。


 いつしか碧霧は、なし者の男を「先生」と呼ぶようになり、彼は碧霧だけの秘密の師となった。


「先生、」


 今日は、碧霧の愚痴混じりのような質問から始まった。


「例えば、仕組みを変えたいとします。俺は、みんなのためにも変えるべきだと考えているのですが、なかなか自分の思いが伝わらなくて。みんな、あれこれと難癖を付けて否定します。どうすれば、説得できるでしょう」

「みんな、か」


 師が含みのある笑いを漏らす。碧霧はムッと彼を睨んだ。


「先生も笑うんですか?」


 すると、師は淡々とした表情で指を二本立てた。


「指摘としては二つ、」


 真面目な顔で頷く教え子を確認しつつ師は話を続ける。


「まず一つ目。理想と正義だけでは誰も動かない。なぜなら、みんな明日も食っていかねばならず、理想だけを掲げて生きていけるほど余裕がないからだ。そして二つ目。みんな、というのはおよそ現実味がなさ過ぎる。得をする者の影に必ず損をする者がいる。誰も損をしないとするなら、誰も得をしないということだ。そんな旨味のない話に乗ってくる奴はおるまいよ」


 手厳しい師の言葉に碧霧は黙り込む。おまえの理想など、味もしない青臭い果実のようなものだと言われた気がした。


 現在、御座所おわすところでは、洞家の手足に過ぎなかった家元たちが力を付け始め勢力を増している。八洞やと家家臣でありながら勘定方かんじょうがた筆頭で六洞りくどう衆三番隊長の下野しもつけ与平がいい例だ。

 彼のように能力ある者が登用されることに問題はないが、しかし、中には財などをちらつかせ地位を手に入れようとする油断ならない者もいる。


 父旺知あきともは、絶大な権力を保持するため、兵力の増強ばかりに固執して、こうした財力のある者を取り立てる傾向がある。


 最近では、大量の鉄の生産に川が汚れ、肥沃な土地に被害が出ていることも憂慮すべきことだ。しかし、実際に心配している者の声は握り潰されているのが実状である。


 ややして、碧霧は悔しそうに呟いた。


「では先生は、諦めろと言うのですか?」

「いいや、皆の利益と合致させろと言っているのだ。当然ながら対価としての損失も必ずある。そこは割りきって切り捨てねば、結局は共倒れとなる。葵殿が唱える理想に『利あり』と多くの者が思えば、自ずと皆がついてくる。そしてそれが、時代を動かす」

「利益……ですか」

「そうだ。皆が欲している物はなんだ? 喜びそうな話はなんだ? それをきっちり洗い出せ。その上で、自身のやりたい事と相手の利を組み合わせ、余計なものは切り捨てよ。さすれば何か見えてこよう」

「そしてそれをチラつかせる? なんだか騙しているみたいだ」


 碧霧は苦笑した。師が「何の問題が?」と冷めた目を返す。


「真に騙されていれば、群衆は騙されているとは思わない。それで幸せだったらなおさらだ。問題はそこではない」


 そして師は含みありげな笑みを浮かべた。


「おまえは聡明だ。その内、さらにもっといろいろな事が見えてくる。その事象を全て手の平の上に並べ、自在に動かせられるようになれ」

「動かせられるとどうなります?」

「欲しいものが手に入る」

「……先生は、手に入れたのですか?」


 碧霧が尋ねると、彼は満足げに笑った。


「もちろん。これ以上にない成果だ」


 言って愛おしいげに碧霧を見る。碧霧は、どういう顔を返せばいいか分からなく、とっさに目を伏せた。


 ずっと互いの身分を伏せたままの関係が続いている。そしてそれはこれからも。しかし、師は自分が何者かもう分かっているのではないか、碧霧は時々そう思っていた。


「先生、」


 思わず彼は話題を変える。


「この疲弊した北の領に、何が必要だと思われますか?」


 突然の質問に師が片眉を上げる。そして思案顔であごをさすりながら口の端に笑みを浮かべた。


「まあ、諸般いろいろあるが、あえて言うなら月詞つきことだな」

「ツキコト?」

天地あまつちとの会話だ」


 師は答え、遥か遠くでたなびく雲を仰ぎ見た。


「歌を見つけよ」

「歌ですか?」

「そうだ。そらの声を聞き、つちの息吹を感じる歌を。その先に北の領の全てがあり、おまえが描く未来がある」


 師がこんな風に断定的に言うのは珍しい。碧霧は、戸惑いながらも頷き返した。

 ふと、彼の脳裏に独特の抑揚をつけた旋律が流れだす。どこで聞いたかも思い出せない、口ずさむことも、言葉にもできない不思議な歌。しかしはっきりと、何かの度に、彼の頭の中にそれは懐かしく甦るのだ。


 あの歌なら、天地あまつちとも会話ができるかもしれない。


(見つけられるだろうか)


 どこまでも広がる空を遠く眺めながら、碧霧はまだ耳にしたことのない歌に思いを馳せた。

 

秘密の師 (了)

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