山遊び(4)
まずい。というより、怖い。
兵衛の怒った顔を見て、藤花は
それで藤花が口を開きかけた時、兵衛が腰に差した刀を鞘ごと抜き取りながら河童との間を詰め、そのまま荒々しく鞘の
河童が「ぐえっ」と呻き声を上げ、その場にうずくまる。
「よもや鬼伯の姫君をさらっておいて、命があると思っておるまいな」
「河童!」
藤花は慌てて河童へ駆け寄り、小さくうずくまる河童を庇った。いきなり腹を突かれて、河童は「痛い、痛い」と泣きだしている。
彼女は河童の背中をさすりつつ兵衛に非難めいた目を向けた。
「河童に悪気はない。乱暴はやめよ」
「悪気がない? これで?」
「河童は、私に嫁御になってもらいたかっただけじゃ」
藤花が弁明すると、兵衛が「……嫁?」と顔を引きつらせた。なんとなく言い方を間違った気もするが、とにかく藤花は大きく頷いた。
「こやつは、私と兵衛が──な、なななな仲睦まじく見えて、いや、別に恋仲と言われたわけではないが、な、仲睦まじく見えたらしく、それで──」
「何の話ですか。仲睦まじいも何も、どれだけ頭が沸いておるのだ? 馬鹿馬鹿しい」
呆れ口調で一蹴し、兵衛が冷めた様子で河童を睨む。しかし、その容赦ない否定の言葉に泣きそうになったのは藤花だ。
「馬鹿馬鹿しいって──、そこまで否定せずとも良いではないか。少しは照れるとか、焦るとか、何か可愛い反応ができぬのか。河童に恋仲と間違えられたのだぞ」
「そんなわけないでしょう。何をふざけたことを。本当に馬鹿なのか」
さらに繰り返され、言葉がぐさぐさと藤花に刺さる。しかし兵衛は、藤花を気遣う素振りも見せず彼女の腕をぐいっと引っ張った。
「さあ、帰りましょう。下々の
「戯言?」
刹那、藤花は兵衛の手を振り払った。
確かに河童の言動は、短絡的で思慮に欠けたものかもしれない。さらには、自分の弁明も論点がずれて端的ではなかった。しかし、決して戯言ではない。
彼女は毅然とした顔で立ち上がると、居ずまいを整えて兵衛に向き直った。
「馬鹿と言ったところまでは許す。が、河童の訴えをまともに聞きもせず
まっすぐ彼を見据え、主としての立場を誇張する。主従を突きつけるやり方は好きではないが、兵衛のような者を黙らせるには効果的だ。
兵衛が一瞬、怒りに満ちた目で藤花を見返した。
しかしすぐ、彼は怒りを飲み込むと、口を真一文字に結んですっとひざまずいた。膝の上に置いた手が固く握られている。
(こんな小娘に頭を下げるは屈辱か?)
しかし、こちらも譲れない。
藤花は小さく息をついて気持ちを整えると、兵衛をその場に控えさせたまま河童に歩み寄った。
「河童、すまぬ。こやつは私がさらわれたと勘違いしたのだ。許して欲しい」
そう言って、藤花は地面に這いつくばって震える河童を抱きかかえて立たせる。河童がおどおどとしながら、それでもしっかりとした足取りで立ち上がる。
その河童の様子から兵衛が本気で打突した訳ではないことが分かり、藤花は少しだけほっとした。
「さて、河童。先ほどの話の続きだが、
「ここから、さらに上の、流れが溜まっているところ。今日はいない。昨日の夜に来たです」
「分かった。では、その場所に案内せよ」
そして藤花はくるりと振り返り、じっと控える兵衛に目を向けた。
「というわけだ。兵衛、一緒に来てくれるか?」
「仰せのままに」
低い落ち着いた声で兵衛が答えた。すでに表情はいつもの飄々としたものとなり、感情の機微は読み取れない。主従関係を持ち出したのはこちらだが、固く心を閉ざされた気がして藤花は内心歯がゆく感じた。
それから藤花たちは川底の穴から地上に戻ると、河童の案内で上流へと向かった。だんだん急こう配になり険しくなる川沿いを、河童は「こっちだです」と指さしながら進んでいく。藤花がそれに続き、兵衛が周囲に目を配りながら付かず離れず従う。
「兵衛、怒っておるか?」
途中、藤花は兵衛に話しかけた。さっきからこっち、会話らしい会話が一つもない。それどころか、目さえ合わせようとしない。
もともと鬼のことを嫌っていそうだったから、こちらの尊大な態度に嫌気が差したのかもしれない。
「小娘が偉そうな口をきいたことは謝るゆえ、機嫌を直せ」
「……いいえ。そもそも藤花様に怒ってなどおりません」
すると、兵衛が静かではあるがきっぱりとした口調で答えた。視線は先を行く河童の背中に向けられたままだ。
「私の方こそ先ほどは言葉が過ぎました」
そして、再び沈黙。「怒っていない」と言われても、結局会話が続かない。これでは、この状態のまま一日が過ぎそうだ。
それで藤花が兵衛との会話を諦めかけた時、兵衛が唐突に呟いた。
「いつも、ああなのですか?」
「え?」
「河童に川底にさらわれ求婚されるなど、他の姫君であれば怒り狂うところです」
そうなのか?
藤花が怪訝な顔を返すと、兵衛は呆れたような困ったような何とも言えない顔をした。
「あなたは、もう少し姫君としての自覚を持たれた方がいい」
「……姫としての自覚とはなんぞ?」
藤花は皮肉げな笑みを浮かべ兵衛に問い返した。
「奥院の部屋で、媚びへつらう者に愛想よく笑っていることか? 河童の裏表のない笑いの方が百倍ましじゃ」
「媚びへつらう者とは
「嘘は申しておらぬ」
ふんっと鼻を鳴らしながら藤花が口を尖らせると、兵衛がふふっと声を漏らして笑った。
その飾らない彼の笑顔を見て、藤花はぱっと顔を輝かせた。
「やっと笑ったな、兵衛」
「は?」
「今日はもう笑ってくれぬかと思ったぞ」
兵衛が慌てて真顔に戻る。その慌てた様子がおかしくて、藤花はにんまりと笑った。それで兵衛がいよいよ顔をしかめてそっぽを向いたが、その横顔はどこか穏やかで藤花は込み上げる笑いを抑えることができなかった。
それからしばらく、軽くなった気持ちで川沿いを進む。しかし、ある時点から川が濁り始めたことに藤花は気が付いた。気になりながらもしばらく歩くと、今度はどこからか嫌な臭いが漂ってきた。
これは、腐敗臭だ。
同時にずしんと重い不浄の気が辺りを包み始める。
先を歩く河童もきょろきょろと落ち着きなく、何度も振り返っては藤花たちがついて来ているか確認している。再び脇を流れる川に目をやると、もう足を浸けるのも
兵衛が前を行く藤花を止めた。
「藤花様、私があなたを抱いてまいります」
「障りない」
「いいえ、万が一、触れでもしたら穢れます。私がついていながらそのようなことがあっては鬼伯に申し開きができません」
「……」
ただの山遊びでこんなところに足を踏み入れていること自体、無理を言っている。今ここで我がままを通せばもっと兵衛に迷惑をかけるかもしれない。藤花は彼に従うことにした。
「頼む」
「はい。失礼します」
兵衛が藤花の腰に手を回し片手で彼女を持ち上げた。あらためて抱きかかえられると緊張する。体を強張らせる藤花の耳に「体を預けてくれると抱きやすくなり、助かります」という兵衛の低い声が響いた。
藤花は遠慮がちにこつりと頭を彼に預け、再び胸元の合わせをそっと掴んだ。
「鬼姫様、この奥にあるです」
ちょうど左に緩く曲がった奥を河童が指さす。二人は小さく頷き合うと、先に進んだ。
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