山遊び(3)

 兵衛ひょうえに抱きかかえられ、森を駆けることしばし、二人は沢に出た。川上から流れ出た清水がさらさらと流れているそこは、ゴツゴツした岩場にところどこ草花が彩りを添えている。


 兵衛は座れそうな岩に藤花を降ろし、「少し我慢してください」と彼女の足をぽちゃんと浸けた。春の雪解け水は、身を切るように冷たい。



 そして彼は小川の中に入って藤花の前でひざまずいた。

「私より兵衛が冷たいではないか」


 なんの躊躇ためらいもなくその身を濡らし、藤花の足を手に取る彼に藤花は慌てた。しかし、兵衛は藤花の言葉など耳に届いていないかのように腹立たしげに呟いた。


「一昨日まではなかった」


 山には里以上にいろいろなあやかしが入り込む。

 基本、食うも食われるも自由と言えばそうなのだが、呪詛のような悪意のある仕掛けは、少なくともこの北の領ではなしだ。

 無法は最終的にたまを傷つけ、いびつに歪める。そして、いびつに歪んだたまは、北の大地の息づかいそのものを脅かす。豊かな大地を保つためにも、法は必要なのだ。


「私はこちらの事情に疎いのですが、山を守るお役目があるとお屋形様から聞いております。今はどなたが?」

「今、山守やまのかみとして山の治安を任されているのは九洞くど旺知あきとも、数年前に山守に抜擢された角が二本の『二つ鬼』よ」


 千紫の父親といい、この九洞くど旺知あきともといい、角の数に囚われず適材を登用するのは、父影親かげちかの方針だ。


 藤花が答えると、兵衛は思案げに目を漂わせた。しかし、すぐに藤花の足に意識を戻し、五式術の言霊ことだまを短く唱えた。


 藤花の足から黒い染みが浮き上がり、小川の流れがそれをすくい取る。そして黒染みは、何事もなかったかのように藻くずとなって流れ消えてしまった。


「兵衛、早く上がれ。おまえが冷える」


 これしきのこと自分でも出来た。それなのに兵衛の手を煩わせてしまったことを藤花は申し訳なく感じた。


「すまぬ。私のせいで濡れてしまった」

「いえ、私の手落ちです」


 小川から上がった兵衛を見れば、袴も膝上まで濡れ、それどころかたもとまでびしょ濡れだ。藤花はしゅんと小さくなった。その様子を見て兵衛が軽く息をついた。


「すぐに乾きます。このくらいで落ち込むのなら、勝手に先に行こうなどとしないでください」

「……すまぬ」

 おまえが意地悪だからだ、という反論は分が悪すぎるのでやめておく。

 しかし、このままなのも気が収まらない。自分のせいで濡れてしまったと嫌味を言われ続けられかねない。


 そうだ、


 次の瞬間、藤花は出し抜けに「えいっ」と小川に飛び込んだ。ざぷんという派手な音とともに水飛沫があたりに飛び散る。藤花の突然の行動に、兵衛が目を丸くした。


「姫、何を??」

「冷たいっ」


 小川の水の冷たさが肌に刺さる。川底の石が少しぬめっていて、藤花はつるっと足を滑らせ尻もちをついた。兵衛が嫌なものを見たように顔をしかめる。

 しかし、彼女は満足げににっこり笑った。


「これで私も同じ、ずぶ濡れじゃ」

「……やめてください」


 兵衛が額を片手で押さえつつ深くため息をつく。そんな彼の様子を見て、藤花はとても満足した。


「これで兵衛と対等であろう?」

「対等も何も、そもそも藤花様と私とでは比べようもありません。あなたは鬼、私はただの猿です」

「……意味が分からぬな」


 兵衛の言葉に藤花はむっとしながら彼を見上げた。


「兵衛も私も、あやかし。そこに何の違いがある?」

「他の者はそうは思いません」

「私はおまえがどう考えているのか聞いておるのだ。少なくともおまえは、自分が鬼より劣っているなどと思ってはいないだろう?」


 藤花が首を傾げて兵衛を見据える。兵衛が言葉に詰まり、気まずそうに目をそらした。

 するとその時、


「うむ?」


 突然、水底から今度は指の間に水かきのある草色の手が伸びてきて藤花の足を掴んだ。

 また手。今日はなんと足を取られる日か。

 藤花がそう思った直後、彼女は浅い小川であるはずの水底深くに引きずり込まれた。




 一瞬、目の前が真っ黒になった。足を引っ張られ、地の底にぐうんと引きずられる。しかし刹那、ぱっと目の前が明るくなり、体が宙に投げ出された。そしてそのまま藤花はどすんと地面に尻もちをついた。腰をさすりながら辺りを見ると、そこは小ぢんまりとした洞穴だった。


(ここは川底か?)


 見た目で分かる出入口はない。しかし、日が射していないのに真っ暗でもない。

 壁に生えている苔が皓々こうこうと光り、それが穴全体を照らしていて、日がなくても日中のような明るさだった。穴の隅には大量の水草が積んであり、その清涼な臭いがつんと鼻を突く。


 そして、その洞窟の隅に、頭に皿を乗せた河童かっぱが一匹ひれ伏していた。草色の肌に小綺麗な麻の胴着を一枚羽織り、それを蔓草のような紐で締めてある。


「お、鬼の姫君様とおみょうけ……おみ、お見受けです」


 たどたどしく河童が言った。藤花はため息をつく。

「いかにも鬼だが、何用か? 早う岸に戻せ。私もおまえもだだでは済まぬぞ」


 なんせ岸には兵衛がいる。こんな所にさらわれたとあっては、兵衛にまたしても怒られそうだ。河童にいたっては、下手をすると命にかかわる。


「私が自力で戻っても良いが、兵衛の怒りが収まるやら。悪いこことは言わぬ、痛い目に遭いたくなければ私を岸に戻せ」

「う、うらの、よよよよ嫁御よめごになってです」

「よ、嫁御??」


 いきなりの河童の求婚に、藤花は思わず顔をしかめた。なぜそんな話になるのか、まったく見えてこない。すると、河童がおろおろと顔を上げて、怯えた目で彼女を見た。つるりとしたつぶらな黒い瞳をあちこちに泳がせ、大きなくちばしをもごもごさせる。


「あ、あい。鬼姫様に、この川をおみゃ、おま、お守りいたただだく?」

「……お守りいただきたく、か?」

「あい!」


 藤花がきちんと言い直してくれたことが嬉しかったのか、河童はにへっと笑った。その愛想らしい表情に藤花は「ふむ」と首を傾げる。

 求婚は余計だが、どうやら悪い奴ではないらしい。


「先ほど、呪詛じゅそを流させてもらった。確かに少し淀みとおりがあるが、清らかな小川ではないか」

「清らかでないです。生臭いです」


 河童が口をへの字に曲げ鼻を押さえる。そして彼は、積んである水草の山から草を一本抜き取って藤花に渡した。


「生臭い水には生臭い草しか生えんです」

「……普通の水草の爽やかな臭いしかせぬ」

「違う、違う。鬼姫様は鼻が悪い」


 河童がとんでもないとばかりに首を横に振る。なるほど、水にうるさい河童には、この程度でも気になるらしい。だとしたら、この水草が山のように積まれている洞穴の中も、河童にとっては死ぬほど臭いということになりそうだ。


「しかし、なぜ小川が生臭くなっているのか」

悪童わんらが、汚いものを流すです」


 悪童わんらとは、頭にコブのある人の姿を模したあやかしである。ずんぐりとした背格好に、ぎょろりとした目、口からはみ出した犬歯が特徴だ。頭のコブが鬼の角と似ているらしく、人の国では「小鬼」や「邪鬼」などと呼ばれている。鬼の藤花にしてみれば、迷惑な話だ。


「汚いものとは?」

「いっぱいのむしむくろでです。おかげで、小川が生臭くなってです」


 なるほど、悪童わんらのしそうなことではある。さっきの呪詛といい、ここの山を縄張りにしている輩だろうか。悪童わんらは集団で行動することが多く、やっかいなあやかしだ。


(これは、帰って父上に報告せねばならぬな)


 そう思いつつ、藤花はもう一つの疑問を河童に投げた。


「おまえが助けて欲しいのは分かった。しかし、なぜ嫁御なのじゃ?」

「鬼姫様は、角なしとむつまじゅうしておる。うらにもきっと優しい」


 屈託なく答え、河童がにへっと笑う。

 つまり、角のないあやかしと仲良くしていたので、きっと自分にも優しいと思ったということか。単純明快な考え方は、裏表がなく藤花は好きだ。


 それに、


「な、仲睦まじく見えたか? 本当に??」


 にわかに兵衛との間柄を褒められた気がして、藤花は河童に聞き返した。

 真剣な顔で詰め寄る藤花に河童は少し驚きながらも頷き返した。藤花は両手で頬を押さえつつ頬を赤らめる。


「そうか、仲睦まじく見えたか。そうか、そうか」


 なぜだかとても嬉しい。

 藤花はひとしきり喜びを噛みしめると、河童に向かって胸を叩いて見せた。


「よし、河童。私に任せよ。嫁御にはなってやれぬが、小川はなんとかしよう」

「あんがとです」


 河童が嬉しそうに顔をほころばせ頭を下げた。


「では、岸に戻るぞ。まずは兵衛に──」


 刹那、洞穴の天井がぐにゃりと歪んだ。藤花が声を上げる間もなく、そこから人影が落ちてきて、彼女と河童の間に割って入った。


「兵衛!」


 たんっと片膝をついて着地し、兵衛がゆっくりと立ち上がる。


「いちいち手を煩わせおって」


 吐き捨てるように言いながら、兵衛は不機嫌極まりない顔で河童と藤花を睨んだ。

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