山遊び(2)
阿の国北の領の春は遅い。
他の領に比べ、木々も草もゆっくりと芽吹き、のんびりと花を咲かせる。四月の半ばの今になって、ようやく春らしい生命力と、みずみずしい気に山は包まれていた。
「こちらの山は詳しくないので
眼下に広がる山並みを眺めながら
「そうか。私は人の国へ行ったことがないゆえ分からぬが」
阿の国と人の国には両国を結ぶいくつもの道がある。
「確かに、動物たちは
「ええ。ただ人がそこに迷い込むと、『神隠し』と言われ、大騒ぎになりますが」
「神が隠したとな」
「そうです。人は理解できないことが起きると、全て神か仏、もしくは鬼の所業にしてしまいます」
「迷惑な話じゃの」
人とはなんと身勝手に考える者たちか。
しかし、自由に行き交いできないよう結界が結ばれており、大きな筋となると門番までいる。いきなり里に人間などが現れないためで、鬼は人の国には関わらないというのが昔からの掟だ。
しかし、行き交いそのものがないわけではない。
里の生活も人のそれを模したものであるし、今も人の国から新しい物、珍しい物が時どき届く。人というのは短命で霊力こそ低いが、それ故に新しい物を作り出す才に長けている、と話してくれたのは確か千紫だ。
おかげで、月夜の里は人の文化の新旧と、鬼の独自の文化のそれがごちゃ混ぜになり、それこそ人の国と似て非なるものとなっていた。
「一度、人の国もこの目で見てみたいものじゃ。道を通れば行けるのであろう」
少しずつ近づいて来る山肌を眺めながら藤花は兵衛に尋ねた。
森の御化筋には結界は結ばれていない。道さえ見つけることができれば、人の国へ行くことができる。実際、行ったという者の話も聞く。
「兵衛、
しかし、兵衛はつと片眉を上げただけで、素っ気なく答えた。
「教えません。獣が通る御化筋は慣れたあやかしと言えど迷いやすい。下手をすると、それこそ『神隠し』に遭います。勝手に行かれでもしたら困ります」
「でも、兵衛はあちらに住んでいるのであろう」
「私はもともと人の国の猿です。そして、
自由でいいな、と藤花は思った。自分も人の国に生まれたあやかしであれば、彼のように自由に阿の国と人の国を行き来することができただろうか。
「いつか行ってみたい」
藤花がぽつりと呟くと、「あなたには必要ないでしょう」と兵衛のありきたりな答えが返ってきた。
なんとつまらない、藤花は思う。
そしてため息一つ、気持ちを切り替え、彼女は話を変えた。
「それより兵衛、わざわざ下見をしてくれたのか?」
まさか自分のためにそこまでしてくれたとは思わず彼女は言った。すると、兵衛が当然だとばかりの顔を返した。
「いい加減なことをしては、御屋形様の名に傷が付きまする」
「九尾様のためか」
そこは嘘でも「姫のため」と言うところだ。この男は腹が立つほど
分かってはいたが、彼にとっては今日の遠出も九尾に申し付けられた仕事の内なのかと思うと、藤花の口から二つ目のため息が出た。
そうこうしているうちにエイが山に到着した。平らな場所を見つけ、兵衛がエイを地表に降ろす。そして自ら先に降りると、手を出して次に降りる藤花を受け止めた。
降りた勢いで兵衛の胸にぽすんと顔が当たる。どきりとするが、兵衛は全く動じることなく飄々としている。まるで子供を相手にしているがごとくだ。
「……兵衛、何歳であるか?」
柄にもなく年齢が気になって尋ねると、彼は片眉を上げた。
「今日の山遊びに必要ですか」
「必要じゃ。それにより私の立ち居振舞いが変わる」
兵衛が「ほう」と少し思案してから落ちついた口調で答える。
「五百はゆうに過ぎております」
「ご、五百?!」
思わず声が裏返るほど驚くと、兵衛がぶっと吹き出した。藤花は顔を真っ赤にさせた。
「嘘をついたな、兵衛!」
「どう立ち居振舞いが変わるのかと思いまして」
笑いを堪えながら答え、それから兵衛は「三十六で、」と短く付け加えた。
なんだ、思ったより若い。その年の頃なら、もう少しいろいろとがっついていても良さそうなものだ。まあ、ゆっくりと年齢を重ね、見た目も若いままの鬼は、男女のこととなると年齢を気にしない者が多く、五百歳でもがっついている輩もいる。つまりは、兵衛があっさりし過ぎているのだ。
「三十六など、私と変わらぬではないか」
「姫はまだ十八と聞きました。私の半分でしょう」
一緒にするなという風に目の前の猿が言い返す。そして、兵衛は口元に皮肉げな笑みを浮かべた。
「それで、立ち居振る舞いはさほど変わらないご様子ですが、何がどう変わるのです?」
「な、何も変わらぬ!」
むすっと答え、藤花は彼を置いてさっさと歩き始めた。
しかし、いくらか歩いたところで藤花は立ち止った。ぷうっと頬を膨らませたまま振り返る。
「して、どこへ行くのじゃ? 分からぬではないかっ」
「ならばどうして先に行くのです?」
兵衛が笑いを堪えて肩を揺すっている。藤花はさらに頬を膨らませた。
その時、
藤花の足元の地面からぬるりと
「うむ?」
藤花が眉をひそめる。こういったものに動じないのは、姫とはいえ霊力のある鬼である所以だ。
彼女の足に
なんと不愉快な。
彼女は不快に顔をしかめたが、さして動揺することもなく、すかさず足元から鬼火を出すと、
兵衛が慌てた様子で彼女に駆け寄る。
「姫、」
「大事ない。それよりも、藤花じゃ」
朝からこの男は決して名前を呼んでくれない。藤花は兵衛を軽く睨んだ。兵衛が小さく肩をすくめる。そして彼は周囲に注意を払いながらひざまずいた。
「では藤花様、足を見せてください」
「大丈夫だと言っておるに」
「そうはいかない。これは
兵衛が「失礼」と言って、無遠慮に袴の裾を上げて彼女の足を確認する。足にさっきの手の痕が、まるで痣のように染みついていた。
「藤花様、痛くは?」
「な、ななない」
怪我をしていることより、兵衛に足をさすられていることの方が重大で、藤花はどもりながら答えた。色気の欠片もない足だと思われてはいないだろうかと気持ちが焦る。
藤花は、目の前でひざまずく兵衛に声をかけた。
「もう、良かろう。痛くないと言うておる」
「いえ、」
兵衛が眉間にしわを寄せたまま厳しい顔で立ち上がった。
「もう少し行ったところに沢があります。そこで清めましょう」
言うが早いか、彼は前ぶれもなく藤花をひょいっと抱き上げた。
「ひゃあっ?!」
呪詛の手よりこちらの方が数倍驚く。思わず叫び声を上げる藤花に兵衛は一瞬うるさそうに顔をしかめた。しかし、そのまま地面を蹴って森の中を駆け始めた。
「掴まっていてください」
抱きかかえられた両腕は筋張っていて力強く、頬にあたる胸は思っていた以上に厚い。藤花は遠慮がちに彼の胸元の合わせを握るとそっと身を寄せた。
胸が、とくとくと鳴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます